補3.古陶磁の本の紹介

近年、調査や開発による発掘の増加により古陶磁研究の進展は目覚しく、其の成果として中国陶磁通史(中国硅酸塩学会編)など多くありますが、読んで面白いのは、古書に属する物だと思います。本当は各書の内容について紹介すべきですが、上手く出来そうも無いので、内容の一部を其のまま記載し、貴方のお考えにおまかせとしました。なおこれらの本は、インターネットの日本の古本屋で簡単に手に入れる事が出来ます。

1.緒言 

支那の骨董を鑑定せんには必ず書籍と實物とを兼ねて研究せざるべからず單に書籍の上に就て研究せるものは地圖を按じて形勝を論ずるが如し身一たび實地に臨まば見るところ聞くところと異なり前山後水能く其名を擧るもの少なしまた單に實物に就て研究せるものは賣卜者の運命を判ずるが如し惟古来俗學の解釋即ち形似の上に就て論ずるに過ず陰陽消長泰否往来の真理を知るにあらざれば何を以て能く人生の禍b説ん製作の楷模、作手の品流、様式の變遷等一切の原委を悉すにあらざれば何を以て能く骨董の眞贋を辨ぜん(中国支那骨董叢説 第一集 籾山逸也 崇文會)[なかなか良い事を云っていると思うのですが]

2.偽印、模作、

蘇東坡も當時貴人の贋物を愛重するを嘲罵せり。何獨り書畫のみならんや。不肖も常に支那に本邦に陶器の蒐集家を見るに、支那古瓷に關しては、大半は偽贋なり。就中洋人最も甚し。一千有數點の中眞と見るべきは數十點に上らず。而もその眞なるものは、皆近代の普通品のみ。支那人も亦決して眞品を集むるのみに非らず。〜昔日今日の權賞又は富豪は、皆贋偽なり。蘇東坡の云う貴人金多身復閑爭買書畫不計錢の句は、實に眞を穿てり。就中暴富の人は、欲を制する力の乏しきと、金力の餘あるを以て、相頼り相助け、數千點の偽贋を買収せり。上の詩句の爭買の二字は實に妙なりと云うべし。(支那古陶瓷 大谷光瑞 陶雅会 p.81[暴富の人とはバブル紳士を思い出せますね、この本が一番のお気に入りです]

偽造頗る多く、燕城滬上の市肆に存するもの、百中真は一二に過ぎず。我邦人及西人の重價を以って購ひ去るもの、概ね偽品なりとす。(支那古陶瓷 大谷光瑞 陶雅会 p.22[これも今と変らないような気がします]

仁清〜木米の偽印は古来甚だ多く其製印最も能く似たり印を以て鑑別すること難し〜各偽印の廃物およそ五六十個あり〜 。(陶寄 好陶会 芸艸(うんそう)堂 p.25

宜興〜李仲芳(りちうはう)、恵孟臣(えまうしん)、陳鳴遠(ちんめいえん)、その他多数の名工あり以上古人なれども今に於て古人の款(くわん)を用ふること模様に均(ひとし)。(陶寄 好陶会 芸艸(うんそう)堂 p.45

昔から我邦に繪畫の鑑定につきて畫かき鑑定、表具屋鑑定と云ふ諺がある。其意味は畫家も表具屋も鑑定家としては丸で駄目である。彼等の鑑定は三文の値打ちもない。(支那古陶磁の鑑賞 尾崎洵盛(おざきのぶもり)p.14

哥窯器は宋代の焼造に係わる旧物であるから、その後今日まで久しきに亙って(真物だとして)伝世されて来たものの中にも真物と偽物が混さいし、現に世上では数多くの哥窯器なるものが存在するが、その中から真物で精美な物を求めるとなると、その数は絶えて少ないのである。 (景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.164

古器の倣作は光緒(こうちょ)年間が最もさかんである。〜最も精巧で判別しにくいのは、たいがい最近の倣古作なのである。(中国のやきもの景徳鎮 長谷部楽爾 淡交社 p.176

彼らのかかる評価が贋鼎(がんてい贋物の意、春秋期の魯が斉に敗れてその鼎を求められた際、これを惜しんで偽鼎を提供した故事による。)に惑わされない正当なものだとは決して申されまい。今に流伝する宋代の名瓷としては)ただ哥窯器だけがやや入手し易い。それというのも、この哥窯器は厚造りで儲蔵するに耐えるのに対し、定窯・汝窯器はいずれも破損し易い薄胎の故に完器で伝世し難いからである。 (景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.179

成化・宏治の間、吾が邑の河庄の孫氏曲水山房は定州窯「白瓷製の」一鼎を所蔵していたが、これこそは宋「代窯」器の中でも最も高級な品であった。「その形は」体が円く三足で「両」耳が付いており、そして李西涯のてん書の銘が炉座に刻まれていた。その後、嘉靖年間の倭変に由り、この鼎は京口の伯齢の得る所となり、次いで毘陵の唐太常「卿」が伯齢より買取って遂に唐氏の所有となった。唐氏は「古器蒐集家であったから」その許には珍貴な諸窯器が充とうしていたが、一度この鼎が至るや、「在来の」諸品は全く見劣りがしてしまった。爾来、国内で窯器を品評する者は必ず唐氏のこの定州窯白瓷鼎を第一に推すことになったと云う。従って唐氏は軽々しくこれを人に見せなかった。(景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.171

一人の母親の生む子どもたちは、全部が似ているのではなく、各人さまざまな容貌を持っている。 (中国青花瓷器の源流 李 汝寛 雄山閣 p.91

3.香爐

青磁香爐のよきところは、高さ2寸(6.06p)径2寸8分(8.48p)これが上々のころなりとぞ。遠碧軒記(原色陶器大辞典 加藤唐九郎 淡交社 p.339

4.茶銚

具輪珠と呼ばれる宜興窯の後手の茶銚は、胴部が球形で鉄砲口の注口を持ち、多くは盛蓋をなす。その形姿の気宇の大きさから、三大茶銚(具輪珠、萬豊順記、三友居)の首座に置かれる。(茶道雑誌平成98月号、カラー頁11

「倶輪珠ヲ獲ル者ニ非レバ、与ニ茗事ヲ言ヒ難シト曰ニ至レリ」と倶輪珠全盛を批判している。また丁稚倶輪珠という粗作の茶銚は、抹茶系の煎茶家に侘びた茶銚として好まれた。(喫茶心得 男のための茶の湯入門 講談社 p.96

5.堅手茶碗

「堅手茶碗」とは磁器質の白い茶碗のこと。茶道具の名称についている「手」は、「あの手の物」というときの「手」と同じような意味だから、「堅手茶碗」は要するに硬い茶碗ということ。磁器だから硬くて白いのだ。だが磁器は通常、茶の温もりの伝わり方など掌に当たる感触が良くないということで茶碗には不向きとされているから、磁器質といっても完全な磁器でなく陶器に近い磁器らしい。それでも磁器は磁器だから「堅手茶碗」は白い、だが実際はそれほど白くない。辻褄が合わないが、真っ白な「堅手茶碗」というものは現実には存在しない。大方黄色味がかったり青味がかっていたりする。完全な磁器でないから吸水性もあって長く使えば変色もする。実際にはどう見ても白にはみえないものがほとんどらしい。この席に出てきたものも白と呼ぶには程遠い。私の目にはやや濃い目のベージュ、あとで連れに聞いたら黄土色と思ったそうだ。それでも「堅手茶碗」は白いのだ。白くなくても白いのだ。そういうことになっているのだから仕方ないのだ。この世界にはこういう現在の常識が通じないことがいろいろある。(私が死ぬと茶は廃れる 三鬼英介 講談社 p202

堅手は、素地や釉が堅いためつけられた名称で、そのほとんどが所謂白磁の茶碗である。白い磁胎に透明釉をかけて焼いたもので、同じ白い茶碗であっても、鉄分を含んだ陶土に白化粧を施して透明釉をかけた粉引きや無地刷毛目とは異なっている。 〜釉調は、白く焼きあがったもの、灰青色を帯びたもの、淡黄褐色をしたものなど、〜雨漏堅手は、やや焼上りが柔らかいためか、白い釉膚に雨漏りのしみのような景が生じた茶碗である。これは長い年月使用したためにできたもので、ほとんどのしみが貫入や気泡などから広がり、景をなしている。(世界陶磁全集19李朝 小学館 p.273

碗類=口径1215cm、高さ57cmと小形で、鉢よりは小さく、盞よりは大形で、〜用途は、茶器と見られ、禅宗の発達にともなった茶碗の流行を反映したものであろう。(韓国陶瓷史の研究 尹 龍二 著 p.174

〜堅手の上品は往々にして井戸の手に入る。また下品になる程白味を増し小ひびは少なくなる。(『高麗茶碗と瀬戸の茶入』)(原色陶器大辞典 加藤唐九郎編 淡交社 p.190

特に茶碗の小振りのもので貫入の小さいものを小貫入と称するが、この手の茶碗の多くは朝鮮産とは考えられず、しかも数に至って甚だ多い。(井戸茶碗 楢崎鐵香著 全國書房版 p.62)

井戸脇の名称に至っては大阪の茶道具商某が商ひの都合上名付けたとさへ云われる位である。既に云う様に井戸脇手の茶碗の半数は、朝鮮の原産でなくて、日本で模作されたものであると云って大過はない。(井戸茶碗 楢崎鐵香著 全國書房版 p.64

6.雲鶴青磁。

釉が透明で貫入在りは高麗時代。後世は釉が薄く貫入無し。伝来品は稀。(骨董の知識百科 矢部良明 主婦と生活社 p.105

7.龍泉窯、砧、天龍寺。

濃淡の青瓷も地紋あるのも無いのも同じ所から出ると云ふ又日本人の話も同様で一定の窯跡より砧も天竜寺も堀だしたような話もある〜予が青瓷を焼いても百個共に同じ色は無色の善悪色の淡いも濃いもあるがごとくにして一定の埴(ちょく)一定の釉(つや)として焼色を異にするのは青瓷の特色である殊に青瓷と云ふものは青きものが青くなるのではなく〜 。(陶寄 好陶会 芸艸(うんそう)堂 p.35

渓口〜郊壇窯、南宋の官窯で焼かれた青磁と同じような青磁を焼いています。〜日本で言う「砧手」のものなどもここで焼いております。〜ここの青磁の破片を見てたいへんびっくりしたのは、胎土の色と質が、私が今まで考えていた龍泉窯のものとは大分違っていたということです。鎌倉あたりから発見されるいわゆる砧手の胎土は、その壊れ面を見ますとガラスが壊れたときのような形の切り口を見せるのです。そして色は青灰色です。これは大窯の窯の製品ですが、〜渓口窯のものは全く違い、砧手でもガラスのような割れ目になっていないのですね。胎土もみんな白くて砂目なのです。(中国陶磁史研究 三上次男 中央公論美術出版)

粉青、粉色を帯びた青色すなわち失透性の青色である。ただし、中国の陶磁に関する記述は青色につきては、その実、藍青色の場合はかえって少なく、多くは緑色である。青磁というのは実は緑磁である。「ブ訳」light blue. は二重の誤りを犯している。第一、粉をlight.(淡)と訳すのは誤りだ。粉には淡の意味も無くはないが、しかしそれよりも最も重要なことは失透性のことである。それだのに単にlight.と訳すならば、透明性の淡青色と誤られる。第二、青をblue. と訳すから、青磁のごとき緑色調のものは除外される。「中」が粉を失透性となせるは正しい。しかし青を単に青と解せるは狭きに失する。 (陶説注解 尾崎旬盛(おざきのぶもり) 雄山閣 p.48

同じ青瓷でありながらも、「柴窯・汝窯器は青し」 浅藍色に近い青色、「官窯・内窯・哥窯・東窯器などの色は青し」 淡碧色に近い青色、「竜泉章窯は青し」 翠色に近い青色、「越窯・岳窯きは青し」 もえぎ色に近い青色 、(このように同じ青と称しても色調に微妙な差違があるにも拘らず)古人の陶を説く者は通じて一様に青色と称するのみである。(景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.223

最大の難事は、「青」という言葉の定義である。中国の文献によれば、「青」は藍(深青)、碧(ヘキ)(青緑)、緑(青黄)、蒼(ソウ)(浅青)などに分類される。(中国青花瓷器の源流 李 汝寛 雄山閣 p.90

天青(てんせい)藍色の最も淡いのをいう。 天藍(てんらん)青色のやや濃いものをいう。 翠(すい)は(みどり)とも読む。(原色陶器大辞典 加藤唐九郎編 淡交社 p.662

龍泉窯器は作りが甚だ厚手で(用意に茅蔑し難い長所を持つが)、唯その工匠の技術は少し稚拙だから(非常に古雅とは言われない)。(景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.154 8.染付。

明代初期のものは〜第一に器物の胎が純然たる磁器に非ずして寧ろ半磁半陶であり、薬のかからぬ所は、非常にキメの荒い淡紅色の骨を現すのを特徴とする。且また、かけてある白薬は「宝光釉」とか「瑪瑙釉」とか言はれる如く図抜けて良質のものをドロリとあつくかけるを常として居るが、大抵の作品は釉と胎は合致して居らない、ややのすれば白釉の一部が落剥して所謂「蟲喰手」となる傾向がある。如何にも玉に瑕である。然し〜(支那陶磁の時代的研究 上田恭輔 大阪屋号書店 p.112

呉州の色合いは藍色であるというのが一般的でしょう。辞書によれば、藍色とは青よりも濃く紺よりは薄い色であり、紺とは、青と紫の混合色であると定義しています。要するに、呉州色は一般に藍色であるといえが、まず適切であるといえましょう。ことに青と紫との混合色という表現はまことに妙を得ているといわなければなりません。なぜならば、呉州絵具を成分的にみると、マンガンとコバルトがおもな発色剤であって、マンガンは紫、コバルトは青色に発色するからです。(陶工の技術 大西政太郎 理工学社 p.3-32

景徳鎮産の諸窯器を青色と称する場合、(普通)白地青花を指し淡描の青もその中に含まれる。その青は濃淡の差こそあれ、藍色に近い。倣古窯での作品(この青は古窯と同じ青色を意味しており)は深藍色に近い。 (景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.223

福建の人温処叔の撰する『陶制』の序文は陶事の三昧(極致)を深く言い尽くしている。「(器の)内面が堅白(十分に白く)で外面が凝素(真っ白)なものが最上の品である。かかる出来なら、その上に文様を描いてもまた佳品たるを失わない」と云うが、これは陶で製した器の品質が清潔を以て第一条件とする旨を強調した。更にまた、「器の表面が青みを帯びていれば、(その上に)絵付を(いかに巧みに)施しても出来上りは二級品以下にしかならない」と云うが、これは器の品質に欠陥があれば優秀品は出来ないことを指摘した言である。最後に、「文様を描く際には、筆跡が糸の如く細やかなことが要件でる。文様の輪郭線が太くしてよどむようなら第二級品にしかなりえない」と云うが、これは文様の描き方についての注意である。「一個の器でも仕上がりまでには異なる数回の工程を経なければならないから、一工程といえどもそれが稚拙であれば完全に精細な器は期待できない」と云う。要するに以上の諸言はすべて陶作の困難さを警告したものである。従って温処叔の『陶制』のこの序文に注意しさえすれば、陶事の曲折はすべて了解できるはずである。 (景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.201

本来の青花は、地の白い部分が純白でなく、ほのかに青みがかかっていなければいけない〜 一方は、白の部分が真白で、藍とのコントラストが強く、すっきりと見える。もう一方は、白地がなんとなく青みがかっていて、そのために藍の色の深みが感じられる。中国では、この青みがかった白を「アヒルの卵色」というのだそうだが、この色は薪の窯以外では絶対に出せないという。二つを比べてみると単純な白でなくこの青みがかった白の方が、やはりずっと味わいが深いことが納得できた。 (景徳鎮紀行 小林 徹 山本紀一 日本放送出版協会 p.62

鎮器には色として備わらざるはなし。ただ明(御器)廠にのみ鮮紅あり。その純白器には、或は青花を画き或は五采(釉上多色彩)を加う。 永楽 貴ぶに足りるも厚手。宣徳 淡を尚ぶ 蘇泥勃青 青料の選択・文様サンプルの制作から絵画(えつけ)題款に至るまで、一として不佳なるもの無きのみ。成化 薄胎 平等(並のクラス)の青料。正徳 回青を用いたれば、また品評するに足る。嘉靖 濃を尚ぶ 回青を用いたれば、また品評するに足る。宣徳、成化(五彩)、>永楽、>嘉靖。回青のみを純用すれば色は散じて収まらない。必ず石青(紺青色の岩絵具)を用いてこれに和(まぜ)るを要す。 (景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.89 p.96

霽(せい)青、 「中」は「俗に云ふルリ色である。コバルト顔料の青藍色で、古い時代のせい青は少し黒味があって、落付きが良く、乾隆時代のものは華やかである。天藍色の濃いものである」と。「ブ訳」deep blue. 「塩」だいたい「中」に同じ。 (陶説注解 尾崎旬盛 雄山閣 p.48

器の下部、畳付きの所は釉がないのが普通です。そのむき出しになっている素地と釉の境には、淡い褐色、黄褐色、あるいは紅褐色の色が出ている事があります。ある場合にはむき出しになっている素地全部にこういう色が付いていることもあります。これは明朝の物、殊に明の初期の物に現れますが、清朝の物、殊に上手の物には現れないのが普通です。それ故この色もまた明 の物と清の物との区別の目安になります。この褐色は、わざわざ付けたのが 初期の物にあります。そう言う場合にはウンと褐色を塗ってあります。注意 すべきです。 (古陶磁の科学 内藤 匡 雄山閣 p.204

9.祥瑞。

祥瑞携(けい)帰する湯呑あり四十年前一見せり高台中福字の印有り〜(竹川竹斉日記抄録)。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.71

銘は純然たる日本人の書である。器形は鈍重なのと薄手で非常に巧みなのと二種類ある。前者は祥瑞の自作であらう。而して此種の者にワザと一部を凹ませたものがある。例へばヘコミの水差、ヘコミの茶碗の如きこれである。これ遠州あたりから起こった純然たる我邦茶人の好みであって、支那人の考えざる所である。また後者は専門の陶工にロクロを引かせて繪付だけ祥瑞が自分で行ったものであろう。(支那古陶磁の鑑賞 尾崎洵盛(おざきのぶもり) p.175

祥瑞青花と明らかに同窯同期の作と見なされるものは少ないが、青花の色の淡い、いわば脇窯で作られたかと思われる作品は以外に多い。(中国陶磁史 佐藤雅彦 平凡社 p.218

祥瑞の特徴として、見込みを内側から透かしてみますと明るく見えるでしょう。(陶工陶談 伝統の窯伝統の技術 p.207

すみれ色を帯びた青華の色調は淡いものは軽快で朗らかな感じがあり、濃い場合に於ても重厚ではあるが沈ウツな調子ではなく、裡にホンノリ紫色が含 まれているような華麗な感じがする。しかもそれが特に優秀な釉面光沢と結 合して与える印象は決して浮薄な俗気ではなく、〜 。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.7

〜上釉と素地の境目は高台の内外側面とも実にキワ立ってキッチリと上釉を削って技巧の跡を見せている。この上釉と素地の境を丁重に仕上げてあるの は祥瑞の一特色とも言うべきもので〜 。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.9

豫樂院(関白近衛家さと)の茶会記『槐記』(山城道安編)より、カザリ、南京の染付、遠州の好みにて、大唐へあつらえつかはせし由、引切 りの形に少しもかわらぬしぼり手にして、詩二句あり (祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.102

〜染付が、安南染付シボリ手茶碗のように、いささか流れ気味に、にじんでいたと解される。染付がにじんでいるのは、青料が純粋度の高い回青のためであろうか、土青を用いた場合では殆どにじむことはない。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.103

元来純粋度の高い回青を単独に用いることは、色が流れるとして忌避された。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.134

呉須が動くのは、焼き過ぎたり、二度窯に入れたときに生じやすいものです。(陶工陶談 光芸出版編 光芸出版 p.204

〜「順治年製」銘の皿がある。〜その裏面の四字銘は各行二字、後の清朝官窯の年号銘として格式ある書法形式が、この小品に、すでに定着しているのは見逃しがたい。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.163

元来、中国陶磁ではすべて完全無欠な形、または左右均斉を主旨とする〜。(祥瑞 満岡忠成編 滴翠美術館 p.117

「対偶」は「偶数性」といってよいのです。中国の(漢民族の)文化は、 偶数性をたっとぶ点が大きな特色になっています。〜左の半分とがおなじ形 をしているのを「左右相称」といい、左右のバランスがよくとれているのを「均斉美」などといいますが、それこそは中国人の趣味に合った形なのです。(現代教養文庫 578 漢文入門 魚返善雄 社会思想社 p.86

蹴轆轤ー腰掛けた陶工が回転盤を回すのに下部に足のかかる今一つの輪があり、足で向こう側へ蹴って動かす。普通右足で蹴るので轆轤は左回りとなる。手轆轤ー陶工は床に座り轆轤を手で自分の方に引っぱって回し、碗や壺の成形をする。ほとんどの人は右手をつかうので回転は時計と同じ右まわりとなる。前者は中国と朝鮮半島系のものであり、後者は座敷に座る習慣の多い日本系のものである。 九州や丹波には左まわりのものがあるが、大陸系の窯であることの証となる。(やきもの文化史 三杉隆敏 岩波新書 83 p.21

窯変 一説によれば火の幻化に伴って生ずる結果だとされている。従って独り釉色の変異だけに止まらないで、器体に生じる予想外の奇形をも併せて窯変と呼ばれる。(景徳鎮陶録 2 東洋文庫465 平凡社 p.97

第九図は景徳鎮の染付です。糸底の所をごらんなさい。呉須で模様をかいて釉を掛けた後、糸底を切り出したことが、模様が鋭く切り取られているので、はっきり解ります。第十図は京都製の染付の筆箱、糸底と釉との境がぼんやりしています。これは糸底を作って後、素焼してから釉を掛け、糸底にかかった釉は、あとから拭きとったので、その境がぼんやりしているのです。(古陶磁の科学 内藤 匡 雄山閣 p.57

青花(祥瑞)筒茶碗(五島美術館)の土見もビスケット色に発色している。(中国の文様 中野徹 平凡社 p.74

桃山時代には詫び茶の影響を受けて各地で数多くの茶道具が焼造されたが、肥前では磁器の創始以後、あまり茶道具は焼造されなくなったと考えられていた。しかし寛文以前には茶碗、水指しなど茶の湯道具もかなり焼かれていたのであり、古染付あるいは祥瑞の影響を受けつつ、しかも伊万里らしい一つの特徴を示したものが焼かれている。だが十七世紀後半オランダ東印度会社の大量買付けによる輸出全盛時代に入ると、茶道具はほとんど焼造されなくなり、後世、伊万里と言えば茶道具のないやきものという印象を一般に強めていったものと思われる。(日本の陶磁8 古伊万里 中央公論社 p.87

10.郎窯、祭紅、牛血紅、宝石紅。

銅の赤い色のある部分はヒビが少なく、白い色の部分にはヒビが多いことが目につきます。これは還元された銅の釉はたいそう素地を侵し溶かすものですから、赤い銅のある分は釉が素地を溶かして、釉と素地とが他の部分より、よくくっついています。赤い色の部分にヒビのすくないのはこの理由だと思います。(古陶磁の科学 内藤 匡 雄山閣 p.237

ダントルコール師は、これらの紅釉磁が叩いても澄んだ音を出さないことに疑念をいだき、その胎土が白不子(はくかし)を用いず、黄土を白不子と同様に精製したものを、高嶺土にあわせて用いることを突き止めている。そして「この種の色を受くるにかよう土が適当せることは理解し易く存ぜられ候。」という驚くべき卓見を披れきしている。「この種の」深紅に発色すべき釉を迎えて、それを完好に発色させるためには、純白で色の反映の著しい白磁胎より、このようにやや暗い帯色の土の方が適当だからである。たとえば鉄分の多い土を用いる龍泉窯の青磁が、白磁土を用いる鍋島青磁より、はるかに深みのある釉調を呈することに照らしても明かだろう。 (中国陶磁史 佐藤雅彦 平凡社 p.253) 

霽紅、 霽紅は祭紅、宣紅等の異名がある。還元銅の呈色による紅色であって、またこれを釉裏紅ともいう。ブ氏は祭紅の名は明代宣徳時代に天壇の祭祀に用いた酒器の色から起こったと注している。すなわち祭紅というのが本来の名称であって、それから種々に転化したというのだ。この説はおそらく正しいであろう。 (陶説注解 尾崎旬盛 雄山閣 p.48

11.粉彩、月因(えん)脂(じ)紅(桃)、珊瑚窯五彩、

五彩は磁器の白い肌【白胎に白釉をかけたものであることを強調している点に注意】に色料をもって描くものであるが、ある特殊な図ー微妙な濃淡や色ぼかしを必要とする花果などーを描こうとする時に、磁器の釉肌の上にさらに別種の白色料を施しておいて、その上にさまざまの色で彩描することがある、というのが初段である。この段はとりもなおさず、粉色、すなはち光沢のない粉白の地を作って、そこに彩色をする粉彩の基本を明かしたものである。ほとんどの場合、粉彩はその色絵の一部に適用され、他は五彩によっているものなのである。古月軒〜極上の粉彩磁ということになる。 (中国陶磁史 佐藤雅彦 平凡社 p.239

12.河南天目

此種のものは河南省方面から多く発見せられるから西洋磁學家は假に河南窯又は河南天目の名を之に與へたのであるが、實は獨り河南のみならず河北から甘肅省に至る間の北部及西部の支那各地到る處から

發見されてゐる。而して其釉は相互に似通ってゐるが胎質は種々異つたものがあるから、産地も恐らく右の諸地方に多數散在して決して一二の窯に止らないであろうと云はれている。

河南天目の胎土は鈍黄、鈍黄白、蒼灰乃至蒼黄白色の器質で多少磁化せるものもある。又白色乃至灰白色

の純然たる磁器質の者もある。(支那古陶磁の鑑賞 尾崎洵盛(おざきのぶもり)p.332

13.法花、交趾、

素地の乾かぬうちに、まず判で押して模様の輪郭を突起させるか、泥の細い筋で模様の輪郭を作ります。これを陶器と同様の高温度で釉を掛けずに焼き締めます。このザラザラした面に、上絵具を糊をいれて粘っこくして、二度三度、時には四度も掛けます。色は紫、藍、青、黄、白色です。赤はガラスになりませんから使いません。今度はこれを低温度で焼き付けます。模様の輪郭はあらかじめ高くしてありますから違う色が混じり合うことはありません。産地の関係上、素地はやや暗色ですが、色ガラスが厚いので、色は濃く重々しく見えます。技法上模様は大まかで力強く現れます。この焼物を法花(Fahua)とも交趾ともいいます。これはいわば色のある鉛釉の縫いぐるみであります。法花は元時代に始まり概ね北方の窯で作られました。多分アラビヤ辺りの技法が元の統一によって支那に輸入されたものでしょう。清国の初め景徳鎮でもこれをまねたが、擁正以後、良いものはないといいます。交趾というのもこの一種で、おもに楽焼のような柔らかい素地に、色のついた鉛釉をかけたものです。十六七世紀頃から南支那か、安南あたりで作ったものと思われます。(古陶磁の科学 内藤 匡 雄山閣 p.59

漢の青釉や唐三彩の鉛釉は「銀化」していることが度々あります。(古陶磁の科学 内藤 匡 雄山閣 p.259

14.偕楽園焼、紀州偕楽園御庭焼。

紀州徳川十代治宝(はるとみ)侯が、偕楽園(文政2年着手、11年完成)で、焼かせた楽焼と陶磁。(ふるさとを訪ねて 10 和歌山 佐藤春夫 泰光堂 p.52
15.高松焼。

紀伊の国(和歌山県)の産。高松焼は崎山利兵衛が男山焼の開窯の先立って一時製陶を試みたものでその名は和歌浦街道の高松に因んだと伝えられる。現存している作品は極めて少ないが、染付物・色絵物など一種の雅致があり、品種は抹茶器道具が多くその他はまれであった。また書銘品のみであった。〔紀州陶磁史)(原色陶器大辞典 加藤唐九郎編)

16.南紀男山焼、

崎山利兵衛が有田郡広村で、南紀高松焼を廃して開窯したもの。(ふるさとを訪ねて 10 和歌山 佐藤春夫 泰光堂 p.57

有田郡広の男山斜面に開窯した紀州藩の御用窯である。京都や肥前伊万里の 陶工を呼び、日用雑器をも含む染付磁器を多量に生産し、また広く諸国に輸出するなど、紀州で最も大規模な窯場として栄えた。(特別陳列 紀州のやきもの 和歌山県立博物館)

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