心停止下冠動脈バイパス手術
平成24年5月11日に冠動脈バイパス手術を受けた。
2月18日に東大との合同チームの執刀医として天皇陛下の手術を行った順天堂大の天野医師は手術について「終わった時点で完璧だと思った」と振り返った。その上で、手術が「成功」したかどうかは術後 3ヵ月の時点で判断すべきだと述べている。
したがって今(6月1日)、私の手術の結果に付いて述べるのは早すぎる気がするが、一方天野医師は 80歳前後の方は、3ヵ月で、ほぼ手術したことを思い出さなくなるとも述べている。
手術前後の記憶がまだ残っている今、いろんな事を記録しておくのは、私にとって今後の戒めとなり、また私と似たタイプの人にとって参考になると思い早すぎるのは承知の上で、経験した事を述べる。
◎ その一
交通事故で入院し十何年ぶりかで色んな検査を受けた。
悪い所だらけだろうと思っていたが、結果は予想に反して、背骨、脊柱管、肝数値、血糖値、脳などすべて健全でコレステロールのLDL値が少し基準値をオーバーしているだけだった。(基準値70 ~ 139、24年 154、13年 166、12年 171mg/dl)
これで満足していれば万事オーケーだったのが、たまたま天皇陛下の手術の事を知り、ついでに心臓の検査も依頼したところ、自費負担になると言われたが口が勝手に動いてお願いしますと言ってしまった。
私は検査と薬と健康と名が付くものが大嫌いで、人から何と言われようと受け入れなかったのに、どうして自分から希望したのか今でも分からないが、入院生活によって考えに変化があったのかも知れない。
心電図もオーケーで、造影剤によるCT検査も行いその結果を翌日聞きに行く。
4/10(火)CT検査の結果。
心臓に栄養を与える 3本の動脈(冠動脈)の石灰化が進み血管が狭くなっている、特に左側から出てすぐ二股に分かれているところが黒くなっている、石灰化で半分かくれている為分りにくいが非常に狭くなっていると考えられ是が詰まると即死の恐れがある、日赤か医大に紹介状を書くからどちらが良いと聞かれたので、近いからという理由で日赤を選ぶ。今から間に合うと言われたので家に寄り保険証を取って日赤へ。
緊急病院も日赤も歩いて10分程のところに在ったので普通利用することが無いがこんな時は便利だと思った。
日赤の循環器内科で診断を受けると、診断した医師もCT検査を行った病院の医師と同じ考えで、今日このまま入院して明日心臓のカテーテル検査を行うとの事。
ピンピンコロリは望むところと其の侭席を立って家へ帰れば立派だったのだが、乗り掛かった船というか、流れというか、入院して検査を受ける事になった。
家へ電話すると家人が吃驚していた。私も部屋が無いという事で、まだ新しい日赤の十一階の特別室に決まり値段に吃驚した。
翌十一日に心臓のカテーテル検査を受けたところ、場所や狭くなっている度合い等からカテーテルによる治療は無理で、バイパス手術による方法しかなく、心臓血管外科にまわすという事でいったん退院。
◎ その二
4/23(月)手術の説明。
妻と娘も同席して手術の説明を受ける。始めに良く見つけましたねと言われた。
手術は胸内動脈と脚の静脈を使い、オフポンプで狭くなっている冠動脈のバイパス術を行う、バイパスは 2または 3本という事を心臓の図を参照しながら説明された。
説明を聞いて妻と娘はショックを受けていた。私は説明やカテーテル検査やバイパス手術の前後共に平気だったが、術後のカテーテル検査の前はかなり不安を覚えたので、人間の気持というものは不思議なものだと思った。
5/2(水)バイパス手術の術前検査。すべてオーケーで、パス。
5/9(水)手術の説明2度目。
担当医師団の検討の結果、初めは、胸内動脈と脚の静脈を使う予定だったが、脚の静脈は左右どちらも静脈瘤が多くまた大きいので使用出来ず、左腕の動脈を使用する事になった。
バイパスは 2本で心臓を止めないオフポンプの予定が、心臓を止めポンプ使用に決まった。
5/10(木)入院。
5/11(金)バイパス手術。
9時手術室へ入室。
心停止下冠動脈バイパス術 2枝(オンレイパッチ法)
左内胸動脈 ― 左前下行枝
左橈骨動脈―#14(回旋枝)
左前下行枝:心臓の前部にある最重要血管。
回旋枝:心臓の裏側にある血管。
左橈(とう)骨動脈:肘の下から始まり、手首周りの前腕や手の平の中まで伸びる腕の動脈枝。
15時15分出室、ICU室へ。
ICUでは、鼻には酸素を送り込む管が差し込まれ、気管に直接酸素を送り込む管が口に、首には大小 2本の管が、胸には心不全を起こした時に備え金属線が 2本、腹部には管が 4本、そのほか導尿管が差し込まれていたが、これらは日時が経つにつれて徐々に外されていった。
5/12(土)血管を脚から取っていないので、車輪付きの囲いを使って早くも歩く練習。
5/13(日)午後 ICUから一般病棟へ。
5/16(水)23 時トイレで尿瓶に排尿(その前に、壁から出ている酸素チューブがトイレまで届かないので外し、移動用酸素ボンベからのチューブへ取り換えるなど少し動いた。)後、心臓が倍ぐらいに大きくなった感じがして心臓の周りに痛みを感じベッドへ仰向けに倒れこむ。背中全てで脈を打っている感じがした。 10分程安静にしていると治った。
5/24(木)カテーテル検査。
左腕の動脈を取っているので、最初の時の様にカテーテルを腕から入れず、より安全性の高い右足付け根のソケイ部から入れた。その為術後 4時間は圧迫下で絶対に動いては駄目で、検査時間の 2時間(手術後の血流が上手くいっているかなど見るところ多い為、前回の倍の時間が掛かった)、準備後の待ち時間等合わせて長時間動けなかった為、後で背中と腰が痛くて弱った。
検査の結果、バイパスの血管の血流はスムーズとの事。
5/27(日)退院。但し切断した胸骨がくっ付くのを助ける為、胸のコルセットは付けたまま。
5/31(木)骨がくっ付くのを助ける為に睡眠中もコルセットをしていたせいか、両肩、胸が内側にしぼみ、猫背になって気持ちもうっとうしかったが、昼寝から覚めしばらくボーとしていたら、突然両肩が後に開き、胸も張り、背筋もピンとした。人間の体は不思議なもので日が経つと自然に元へ戻ろうとする様だ。ただコルセットはまだ外せないので何かすっきりしない。点滴の管、導尿管、酸素チューブなどと同様で身体に異物がひっついていると平常な気分でいられない事が解った。
6/6(水)2 時トイレから戻り仰向けに寝ていると、何時もの背中で脈を打っている感じが無くなっているのに気付いた。おかげで久しぶりに熟睡出来たが、朝になって昨日夕食後の薬を飲むのを忘れていた事に気付いた。両者に関係が有るのかは不明。
6/7(木)昨日夕食後の薬を飲んだが、仰向けに寝ても背中での脈を打っている感じが無かった。夜中のトイレも、初め
2時間に一度位だったが 3時間になり 4時間に一度となった。おかげで夜のトイレ行きも一度になり、これが零か一度になると元に戻る訳で着実に回復に向かっている様だ。
◎ その三
原因として考えられるのは老化。
老化は避けられないもので、血管(男性に多い)、骨(女性に多い)、免疫機能(癌)、脳(認知症)などだが、私の場合前の病院では、脳(百歳まで使える)、脊柱管(年の割には太く狭窄は無い)、背骨(間隔が奇麗)と言われ、日赤では、脳(手術の時脳梗塞などになる危険が少ない)、心臓(これは各医師にほめられた)が良いと言われたが、肝心の補給線がボロボロという事であった。
他の器官が全て健全なのに、血管だけが老化が進んでいた理由として考えられるのは、私は肉食主義で、野菜は身体に悪いと信じ、意識して取らなかった事、卵は魚のも含め好物だった事、歯が良いので、つまみは主にスルメ、外出時は、鰻、かつ丼、海老フライとコレステロールの多い物ばかり食べていた事が考えられる。
今は反省し、野菜も食べ、鰻、かつ丼、海老フライは一切食べない様にしている。
◎ その四
バイパス手術と前後のカテーテル検査、術後の麻酔が切れた後を通じ、痛みが無かった事が嬉しかった。点滴のための針をさす時が一番痛く、これは昔から少しも進歩していない気がした。ついでながら痰を切るのが痛くって大変だったと聞いていたが、一寸でも痰が出そうな気がしたら即切る様にしていたら痛みも無く楽だった。ただ毎日のようにティッシュペーパーの山が出来た。
痛みだけで言えば全身打撲・腰部打撲で 26日間入院していた交通事故によるものの方が、はるかに大きかったし、入院日数も長かった上に、先の不安も大きい。
ついでに両方について比較してみると、バイパス手術は入院が 4日と 17日で計 21日と似た様なものだが、6月9日(土)の毎日新聞の夕刊に角淳一氏が「ニュースでみえた回復度」と題して「16年前の今ごろ、私は脳梗塞で倒れました。~~~テレビのニュースを平気で見られるようになった時、私は全快しました。」と述べている。
私の場合、交通事故の時は退院の二三日前まで新聞・テレビは一切見る気がしなかったが、バイパス手術の時は時々見ていた。この点からみるとバイパス手術の方が楽だったのではないかと思う。
◎ その五
他の人のバイパス手術体験談
私の場合、比較的軽かったようで、次に重かった人の例をあげる。
実はこの話は入院の少し前に聞いたものである。随って所謂案ずるより産むが易しの感じになった。
その人は二年前当時 70歳の時、遠方へ車で行った帰りに心臓に違和感。
近所の医者に診てもらうと肺に水が溜まっていた。
御子息が日赤の他の部署の副部長で、心臓血管外科に連絡して即入院の手続きをした。
いろんな術前検査の後、冠動脈の詰まっている所など此方と似ていてバイパス 3本に決定。
手術後の説明によると開けてみないと詳しい事は分らず、結局ポンプを使ったとの事。
9時手術室へ。18時半から 19時頃ICUへ。
家族は家が近いので家で待機、何かあれば電話連絡との事だった。
翌日奥さんだけICUへ。目を開けていたが鼻、口、腹部から何本も管が出ていた。
看護師が奥さんが来てくれましたよと耳元で言うと、来てくれたんかと言ったが管が有るので聞き取りにくかった。酸素マスクは付けてなかった。鼻からの管で酸素を送っていたのだと思う。
3・4日後ナースセンター横の観察室へ。
3週間後一般病棟に移動するまで奥さんは付きっ切りで家へ帰れず。
一般病棟に移動してからしばらく後に、小便は奥さんが手助けして尿瓶に。
両脚から静脈を取ったが、筋肉ごと取るので歩けない。
歩けるようになって退院したのは 2ヶ月後。
左右の脚の手術痕を見せられたが、一つは真直ぐで奇麗だったが、一つはくねくねしていて下手糞だった。
胸の手術痕も見せられたが、首からみぞおちまで真直ぐに、その他腹部に数個の痕これは膿などを抜く管の痕。
首からみぞおちまでの痕は盛り上がり未だに完治していない。
痒いのでつい掻いてしまうので夜は絆創膏を貼っているがそれによって赤くかぶれていた。
皮膚が柔らかいとすぐくっ付くが、硬いとなかなかくっ付かないそうでこの人の皮膚は硬いそうだ。
この人の近所の人も同時期にバイパス手術(血管は足の付け根から足首まで取る)をしたが 2歳若かっただけで、今は単車に乗っている、この年になって 2歳の差は大きいとぼやいていた。
奥さんに聞くと、入院中本人は横になっているだけだが、周りは予想以上に大変だったそうで、今も朝は水と 11種類の薬、夜は 6種類の薬を準備して飲むまで見ていないと、すぐ忘れるそうだ。
◎ その六
6月13日に退院後初めて外来として診察を受けた。検査を受けた後、モニター画面の膨大なデータをチェックして二三の説明が有り、次は一月後という話、やはり 3ヵ月経たないと手術が成功したかどうか判らない感じだった。
振り返ってみると、東大も順天堂も単独では万全を期し難いような手術だったが、私は全身麻酔で意識が無く記憶が無い上、術後、天皇陛下の様に肺に水が溜まって抜かなければならないという様な事も無く、「別に」と何か人ごとの様な感じだったので、はい全快しましたと言われるかも知れないと甘い考えを持っていたがやはり間違いだった。
ついでに支払いを済ませたが、医療費は 3百万円以上のところ 5千円だった。低所得者という事で補助が有る様だ。その上NHKのBS放送も無料、バスは介護人とも半額など何処かの誰かが差額を負担している筈で、いろいろ考えさせられた。偶々 16日のテレビでアメリカ人が虫歯を一本抜くのに往復 600kmバスに乗って隣国メキシコまで出かけて行くのを見て、まじ日本人に生まれて良かったと思った。
入院中、緊急病院と日赤で看護師さんにしょっちゅう聞かれた事は「食事は全部食べましたか」と「お通じは出ましたか」の二点のみ、日赤では他に排尿の量を毎日チェックされた。人間要するに最終的には口から入れて下から出すだけの事かと悟った様の事を考えた。
最初の緊急病院では四人部屋で、同室の人は点滴を受けて一日中寝ていたのに、食事時になると起こされ、看護師さんに「お口アーンして」と言われ(彼は現役時代わりと名の通った財界人だった)食物を無理やりねじ込まれていたし、食事時には必ずあっちこっちの病室から看護師さんの「お願い目を開けて」「眠らないで」「お口アーンして」の声が聞こえて来たので余計そう思った。
◎ その七
やはり「80歳前後の方は、3ヵ月で、ほぼ手術したことを思い出さなくなる」というのは本当だった。
6/18(月)まだ胸のコルセットも取れていないのに、年を取った時に備え、庭の金木犀の剪定に梯子を使わなくても良い様にしようと思い付き太い枝を数本切って高さを低くした。結構力が要ったが段々むきになり後半は汗だくになった。山登りも二時間になったし、ついつい療養中という事を忘れがちになって来た。
6/19(火)緊急病院へ経過報告に行く、聴診器による胸の診察。日赤から書類が届いていて、以後の診察は日赤で行うとの事。
胸や腕の傷痕も年の所為か全然気に為らないし、痛みも無いので少し早い気もするが、今日を以って心臓の事や手術が有ったことを忘れる事にした。
◎ その八
手術前(平成24年1月29日)山の登り降りを休み無しで30回出来た。
これまでの最高だが、4時間30分かかった。
手術後一年(平成25年5月18日)山の登り降りを30回してみたが、5時間30分かかった。
手術前比べて 1時間も長く山登りが出来る様になったと考えるべきか 1時間も速度が遅くなったと考えるべきかが問題。