晋山式をやることになりました

晋山(しんざん)とは、新しい住持が新たに寺に入ること。昔は、寺は山の上に建っていたところから、山に晋(すすむ)という表現をするのです。お寺には必ず山号といって、山としての名前があります。長昌寺は水石山(すいせきさん)と言います。寺の門を、山門というのも、寺の寺域内を山内というのも、ここから来ています。古来からの儀式に則って、晋山を果たすことを晋山式と言います。晋山式は宗派を越え、また、日本に限らず東南アジアの仏教国でも行われているようです。

私事ながら、長昌寺でも第十四世の晋山式を行うことを総代会で全会一致にて決定いたしました。それに伴い、檀信徒の皆様には説明会を設け、晋山式ならびに付帯事業の趣旨説明を致しました。これは、昨今の寺院が安易にご喜捨を願い、それも一方的に半強制的に課すことが当たり前のようになっている姿は真似たくないとの、住職ならびに総代各位の考えから行われたものです。総代会として出来るだけの誠意を示そうと努力した次第です。

全四日間の説明会には多くの方にご参加頂き、活発な意見の交換がなされました。最終的には、各会場とも賛成の拍手を頂きました。、色々ご指摘頂いた点を慎重に検討しながら、当初の計画どおりに遂行していきたいと思います。

お寺で行事をやる意味は?

晋山式という大事業を行うことの意義について、改めて考えてみました。

晋山式は、当日集まってお披露目して終わりというものではありません。何日も前から、宗派古来の作法に則って、準備を進めなければなりません。とても、一人二人で出来ることではありません。実際に、当日だけでなく数日前から、何人もの僧侶の手助けを求める事になります。

「僧」というのは、サンスクリット語の「サンガ」を僧伽(そうぎゃ)と音写したところから来ています。“和合の衆”というのが本来の意味です。晋山式や僧侶の葬儀などは、正式にやれば、多くの僧侶が各役割をしっかり果してくれないと成り立たなくなります。また、檀信徒の皆様にもお手伝い頂くことが多々出てくることと思います。皆が心を一つにして、一つの大きな行事を成功させることを経験し、和合を学ぶ。それこそが晋山式を含めて寺院の行事を行う意義だと思います。

和を学び、自己を学ぶ

禅の修業道場では、数十人の雲水が一挙手一投足まで同じになるよう、厳しく鍛えられます。物の置く位置、置き方、食事作法、風呂の入り方、など徹底して叩き込まれます。雲水の所作をみれば、掃除ひとつとっても、見事なくらいの和合を見せて、気持ちが洗われます。

しかし、禅の修業は自分自身をしっかり見つめていく、嘘偽りない本当の自分をしっかり捉えていくことが目的です。一見、目的と修行内容がバラバラな気がします。

この晋山式の意義を考えるにあたり、その理由がわかりました。本当の和合は、個々がしっかり確立されていなければ成り立たないのです。自分を見失って、流されている人間が、いくら指示に従って動いても、それは本当の和合では無いのです。

本当の和合は、一人一人がしっかりしていなければ成り立ちません。ですから、徹底した厳しい和合を学ばせることで、逆に自己が確立されて行くのでしょう。一見、自由を奪われ、自分らしさを奪われているようですが、見せかけの自由、個性を奪う事で逆に、嘘偽りない本当の自由、自分らしさを見つけさせるのが、禅の修業なのだと改めて理解しました。

そう考えると、一見個人の自由や平等が発達したように思える現代社会が、実は本当の自由、平等からは離れていて、様々なひずみを生み出しているのが理解出来ます。ここにも、これからの寺の役割が見出せます。

自分の晋山式にのぞみ、改めて、寺は皆が本当に幸せになる場所として機能しなければならないと実感した次第です。

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