作者の真意はどこに? (翻訳随想

 
                      義 則 孝 夫 



1.

  翻訳の仕事をしていると、ドイツ語と日本語との狭間に立って、いろいろな困難を抱えることがある。こちらの語学力の不足と言ってしまえばそれまでだが、そうとばかりは言い切れない場合がある。つまり、原文の真意を、訳者がどうにも探し出せない場合である。例えば、これは、私が直接その訳業に携わったわけではないが、次のような、笑っていいのか、泣いていいのか、分からないような場合がある。 

私もかつては、歳若い世代に属して、その時代の新風に吹かれ、Thomas Mann の文学に心酔した一時期があった。確かに、彼の芸術家論は文学青年の血を騒がせたし、更に第二次世界大戦直後のこととて、その痛烈とも称すべきドイツ論に発する新作 ”Dr. Faustus” は、若い身空には難解ながらも、およそ生存そのものの真底に食い込むものとして、心を捉えて離さなかった。程なく岩波書店から、この長大な小説を三分冊にして、気の利いた形で、翻訳が出た。   

作品そのものに関してはいろいろ論議もあろうが、私にとっては、作品の中央部に位置する「悪魔との対話」の場面がいちばん興味深かったので、繰り返し、丹念に読んだものである。主人公はイタリアへの旅先で、悪魔の訪問を受ける。そのとき、突然、身を切るような冷気を感じるのである。「冷たさ」が悪魔的特質のひとつとして、最初から印象づけられる。そして、さまざまに談話を交わすうちに、悪魔が主人公に次のように告げるくだりがある。 

“Dein Leben soll kalt sein ― ......Eine Gesamterkältung deines Lebens und deines Verhältnisses zu den Menschen liegt in der Natur der Dinge, ......”(下線筆者・以下同様) 

私の手許にある13巻本の全集 “Thomas Mann, Gesammelte Werke in dreizehen Bänden” ではそのように記述されて、別に問題はない。念のためと、後述の論議との関連から、日本語でも示しておくと、大体、次のようでいいであろう。 

「お前の生は冷たくなければならない。...... お前の生と、周囲の人間に対するお前の関係が総じて冷たいということは、事柄の本性に属しているのだ。......」 

問題はこれからであって、実は、この70年代に出された決定版と称されるべきものの前に、初版の1947年以来の Einzelausgabe では、ここの記述の用語が違っているのである。簡単に言えば、誤植である。以下にそれを示そう。 

“......Eine Gesamterklärung deines Lebens und deines Verhältnisses zu den Menschen liegt in der Natur der Dinge,......”                  

したがって、この文言に沿って、上記の日本語訳のこの箇所は、次のように表現されている。 

「......君の生活と人に対する君の関係との全体的な説明は、事の本性のなかにある。...
...」 

文字通りに狂いのない、正しい訳と言える。しかし、推測するに、ここで訳者はずいぶん悩まれたに違いない。なぜかといって、これでは前後の文脈が繋がらないからである。その上の「生の冷たさ云々」という発言の趣旨は、どこへ行ってしまったのであろう。

確かに ‘Gesamterkältung‘ などというドイツ語にはめったにお目にかかったことはない。ためしに Grimm 辞典を引いてみても、例示がない。それに反して’Gesamterklärung’ は、一般的に用いられている概念で、Grimm にもはっきりと記載がある。念のためその内容を紹介すると、次のとおりである。’eine Erklärung seitens einer Gesamtheit, z.B. der sämtlichen Mitglieder eines Fürstenhauses, einer Körperschaft.’ だから、なにか文意が通じないなと不審を抱きながらも、「汝の生の全解明は」などと言っても、この場の哲学的論議には格別奇異に感じないということがあったのかもしれない。とにもかくにも、この場合にはどうにも救いようがない。原語が間違っていれば、訳もその間違いに従わざるを得ない。訳者の立場は正しいのである。 

これに関連して、この自作に関しては、Thomas Mann みずからが、方々に誤植があって処置なしだ、と言ったというのを、どこかで読んだ記憶がある。ははん、そんなものかな、と思ったものだが、さすが、この主人公の特性、および作品の特徴を示すこの語が、誤植であると判明したときは、(確か自分で見つけたと思うよ)げんなりしたというか、顔色蒼然となったというか、なんとも形容しようのない混迷に追い込まれた。なぜかというに、この悪魔的な「冷たさ」から、ゲーテを中心とする古典的ヒューマニズムの「牝牛のような暖かさ」(Kuhwärme)に対する主人公の忌避が生まれ、そして、やがて、「そんなものがあってたまるものか」(Das soll nicht sein.) という 有名な絶叫を残して、悪魔的主人公の作曲家の手で、ベートーヴェンの第九シンフォニーの大規模な「取り消し」(Zurücknahme) が行われるのである。市民文化の総決算の序幕を告げるこの語が、もとは誤植のかげに隠れていたとは、なんとも、信じられない悲惨事である。 


2.    

ここは文学論を展開すべき場所ではないので、Thomas MannのFaust から GoetheのFaust へと話が繋がるのは、まったくの語学上の関心から生まれた偶然である。 

上記のように誤植が理解の齟齬を生むというのは、翻訳技術的にはいかんともし難いであろうが、テキストは一義的で間然するところはないのに、どうしてもその真意に到達できないという場合が存在する。いろいろの訳者、というよりも解釈者が見解を出すが、相互に一致を見ない。原テキストは一つなのだから、多少の表現の差は度外視しても、その意味は一つでないはずがない。ここに、当然、誤訳の問題が起こってくるが、しかし、一概に解釈者の間違いでは片づけられず、あれこれ考えれば考えるほど、作者が果たしてこの文言で何を言いたかったのか、どうしても納得しかねる場合がある。以下に示すのは、その例であって、筆者が Goethe の Faust の一節で見つけ、正直申して、いまだに頭のなかを駆けめぐる、悩みの種である。 

 第一部「市門の前」(Vor dem Tor)で、Faustが弟子Wagner に向かって、父親の話をするくだりがある。以下に引用する。 

 Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann,
   Der über die Natur und ihre heil’gen Kreise
   In Redlichkeit, jedoch auf seine Weise,
   Mit grillenhafter Mühe sann;
   ......           (1034ff.) 

この ‘ein dunkler Ehrenmann’ という語が問題なのであって、この語がまさにこの文脈の中で、どういう意味を持つのか、別の言い方をすれば、Goethe がここでどういう意味を持たせたかったのか、どうも、はっきりしないのである。もちろん、この語は現在でもごく普通に存在する語で、通常の独和辞典でも、ただちに見出すことができる。いうまでもなく、ここでその現代的用法が適用されるわけはないが、後の説明のために、蛇足を承知で、あらかじめ述べておくと、「いかさま紳士」、「得体の知れない紳士」などと、日本語の辞書では、なっている。ちなみにドイツ版の辞書をいくつか繰ってみると、これはいわゆる ‘Feste Wendungen’ (決まり文句)に属して、その意味するところは ‘ein verdächtiger, fragwürdiger Mann’(Mackensen)、更に ‘kein ehrenhafter Mann’ (Duden:Bedeutungswörterbuch) 等となっている。つまり、本来の 眩ゆいばかりの‘Ehrenmann=栄誉の人’という概念に、皮肉な捻りが加えられるわけである。一種の Oxymoron(撞着語法)と言うべきか、‘Ehrenmann’という語そのものに、昔からこういうふざけた用法は認められることが、辞書を通じて知られる。たとえば、次の例文は、Grimm をはじめ、諸方で好んで引用されている。  

 ‘Alle sind wir Ehrenmänner,
    Alle trinken wir!’
  (みんな、立派な男じゃないか、
       みんな、大いに飲もうぜ!)     (Voss)

  しかし、この理解だけでは、この場合は片づかない。

  そもそも、この言い方は Goethe に発するらしい。この方面での決定的な辞典である、Lutz Röhrich の“Lexikon der Redensarten, 3Bde.”によると、次のように明言している。

 ‘Die Wndg. stammt aus Goethes “Faust”(Szene, Vor dem Tor), wo
     Faust zu Wagner sagt:“Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann”.’

 そして、その語義の解釈としては、次のように述べている。

  ‘Im Gegensatz zur heutigen Bdtg. hieß es: er war ein ehrlicher
     Mann, aber nicht berühmt.’

  念のために訳すと、「今日の意義とは違って、それは、彼は実直な男であったが、名は知られていなかった、という意味であった」となる。これでほぼ、この語をめぐる一つの解釈は、確定されたと言える。つまり‘dunkel’という形容詞は、当然のことながら抽象的に「暗黒、不明、未知、隠蔽」などの意味があり、それが冠せられた名詞‘Ehrenmann’は、まあ揶揄的に「名士」から「律義者」くらいのあいだに収まるであろう。多くの辞書はその解釈を取っている。煩をいとわずに、ここは、若干を例示しなければならないであろう。原意を損なわないように、訳は省略する。

 ‘Neuere schriftsteller verwenden Ehrenmann sowohl in eigentlichem
    Sinn als ironisch:
      Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann.’(Grimm)

 ‘Dunkel=im Geheimen od, Verborgenen tätig:
      Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann.’ (Goethe-Wortschatz)

 ‘dunkel: übertragen, unkenntlich, unbekannt, verborgen:
     seine Abkunft und sein Vorleben sind dunkel; die Zukunft ist uns
     dunkel; Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann.’ (Heyne)

 ‘dunkel:von Personen: sich selbst unklar; wenig bekannt,
    unbekannt, unberühmt: Mein Vater war ein dunkler Ehrenmann.’
                                                  (Sanders)  

 いずれも前時代的で、やや古めかしいが、古典を読むには不可欠の辞典である。老婆心から申し上げるが、新時代の用語に熟達するためにも、このような辞典には、常日ごろ、親しんで頂きたいものである。いろいろと有益な知識の充足がある。

  したがって、問題の文章がこの語義にしたがって解釈され、すべての論者、研究者のあいだで完全に諒解が成立していれば、そもそもここでわざわざ取り上げて、問題提起に及ぶ必要もないわけだが、どういうものか、―その理由が私にはうすうす分からぬではないのだが―、一義的な解釈は未だに確定されていないのである。これは一部、日本人のあいだの問題ではあるが、それよりもドイツ人のあいだの所説の齟齬である。どうしてドイツ人は、上述のいずれも権威ある辞書に、もっぱら依拠することをしないのであろうか。それは、数多存在するゲーテ作品集の注釈にあらわれる。まあ、順を追って話そう。


 3.

 それには先ず、ドイツよりも足もとの日本を見なければならないが、このドイツ文学の名だたる作品の翻訳としては、何よりも森鴎外のそれを挙げねばならない。大正の初期、当時の文部省の委嘱により訳されたものである。この書が、類まれな名訳であることは言うを待たない。いま、私は、鴎外研究家としても定評のある当代の作家、小島政二郎の解説を参考にしているが、そこにはこうある。「......私はドイツ語が読めない。が、先生の語学には絶対に信頼している。一歩譲って、今後語学の点では先生以上の人が出るかも知れない。しかし、語学者であると同時に、先生ほどの作家、......先生ほどの芸術家を兼ね得た者が出ようとは私には信じられない。そういう意味で、私は先生の『ファウスと』を無条件に尊敬している」まことにその通りであろう。だが、鴎外で事は終わりというわけではない。鴎外自身も、その文壇活動前期に属する『即興詩人』の難渋な文体を捨てて、ここでは ―ルターの聖書翻訳にならってなどと称しているが― 平易な日常語の使用に転じているから、そういう意味もあって、後代に種々の新訳が出されるのは当然のことであり、そこにはまた、訳者の好みもはたらいて、別種の趣向を備えた訳文が出来上がるというのも、自然なことである。訳者にも然るべく「詩的自由」が認められる。ただ、政治的自由にも似て、それを乱用もしくは誤用しなければよいだけのことである。

  ところで、鴎外訳の当該箇所は、次のようになっている。

  「親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。
      自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、
    誠実が無いではないが、自分流儀に
    物数寄らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。」

                  (下線筆者・以下同様)

  これは言うまでもなく、上記の辞典類に見られる、正統派的な解釈とは異なる。明らかに ‘dunkel’ を「いかがわしい、怪しげな」という意味に取っており、「学者」で原語の名誉は救っているが、要するに、いかさま学者、偽学者というに近い。これにはわけがあって、この訳の謂れを知るためには、ここですでに、すぐその後に続く次の詩句に眼を投じなければならない。ただし、20行近く、かなり長々と続くので、必要なところだけを拾い上げる。

  「例の錬金術の免許取りのお仲間で、
   道場と云う暗い厨に閉じ篭って、
   際限のない、むつかしい方書どおりに、
   気味の悪い物を煮交ぜたものだ。

   .......

  これが薬だ。病人は大勢死ぬる。
   誰が直ったかと問う人は、一人もない。
   そんな風で、此谷間から山奥へ掛けて
   病人に恐ろしい練薬を飲ませ廻ったから、
   己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。
   ...... 」             (1037ff.)

  したがって、このような悪行にかかずらわった人物は、それとは知らずに励んだ仕事の結果で、学者先生と奉られていたにせよ、怪しからぬ男ということになる。当然のいきさつであろう。回想の中で、したがって、父親と共に自分も、世間の賞賛とは裏腹に駄目な人間であり、存在価値が次第に否定されて行くのである。それが後の悪魔との契約に繋がる要因であることは言を待たないから、したがって、‘dunkel’ はささやかな語でありながら、その重要な契機を示す概念である。......と、まあ、そのように論議は進展するのである。

  鴎外訳に対して、次には代表的なものとして、昭和の中頃に出版された相良守峯訳を挙げねばならない。そこでは、当該箇所は次の通りになっている。

  「私の親父は世に知られていない実直な人間で、
   自然およびその聖なる作用について、
   真剣に、といっても彼独特の流儀で、
   勝手気ままな努力をしつつ考察していた。」

  他の部分は別として、問題の文言は、したがって鴎外とは異なり、上述のドイツ版辞典類の解釈と一致している。もしも、これが学者と文人の差であるとすれば、原テキストの立場はどうなるのであろう。テキストそのものよりも読む者の側の立場が重要というのは、本末転倒であろう。どうすれば語の真義に迫れるのか。両者共に、権威ある訳者だけに、それから学ぼうとする者は、困り果てるのである。

  小島政二郎の解説によれば、鴎外はあまりドイツ語による説明を重視していなかったようである。「当初から原文を素直に読んで、其時の感じを直写しようと思っていた」という鴎外の言葉が紹介されている。また「コンメンタアル」の類も多少持っていたが、いちいち読んだわけでなく、ただ疑わしいところを調べてみただけ、という事情も、忌憚なく伝えられている。これに反して、相良訳では、訳者の立場上、あらゆる資料が丹念に精査されたと想像される。ドイツ語文献に対する態度が、鴎外とは根本的に異なっていて、当然である。もちろん鴎外のようなドイツ文学者は例外で、爾後、『ファウスト』の改訳を試みたのは、すべてドイツ文学界の学者であるから、ここで問題としている箇所の日本語訳は、ことごとく、表現に多少の差異はあれ、根本的解釈は相良訳に見られるのと同一である。

  以下に新訳を列挙するが、都合で、訳者名はあえて記述しない。

    「わしの親父は世間と交わりを断っていた学究で、
   自然とその神聖な諸領域を、
   まじめに、とは言えるが、自己流に、
   気まぐれな力の入れ方で、研究しつづけていた。」
 

  「父は、いわば陰の名士だった、
   大自然と自然の神聖な輪廻について、
   懸命に、しかし自我流に
   気の向くままの研究をしていた人間だ。」
 

  「わが父は独学の田舎紳士
   自然のくりひろげる聖なる動植鉱物各界のすべてについて
   生真面目に、しかし自己流に
   妄想にも近い努力を重ねて、考察を続けていた。」
 

   「父は世に知られていないが、しかるべき人だった。自然や神秘に思いを馳せて いた。ありきたりではあれ、自己流の考え方で、あれこれつとめて秘密を究めよ うとした。」(散文訳)

    まあ、これを読んで、同じドイツ文でもいかに多くの読み方があるものかと、感じ入る人も多いだろうが、それはしばらく措くとして、問題の箇所に関しては、作者の好みの変化は窺えても、語義の取り方は同じ範疇内に留まっている。

  ところで、当論説はここで留まるのではなく、実は主眼はその後に展開されるのである。言うまでもなくGoethe 著作集には多くの版があり、それには然るべき注釈が付けられ、またこの大作に関しては、別に独自の注釈書も存在する。先に各種辞典類の記述を紹介したが、これら注釈によれば、すでに解決済みと考えた問題に、またしても疑惑の眼を注がねばならないかと、困ったことに、胸の疼きを感じるのである。 


4.

 以下に、疑問点を鮮明にするために、あえて詳述は避けて、代表的なものを、いくつか紹介する。配列の順序としては、先に挙げた辞典類の解釈と一致するものを最初にかかげ、次第にそれから遠ざかって行くものを、遠ざかりの程度に応じて、順次に並べてみる。

  ‘Dunkler Ehrenmann, lat.vir obscurus, d.h. ignotus, ein Ehrenmann,
  aber ohne besonderen Namen.’     (Artemis-Gedenk-Ausgabe)

   念のために訳すと、「ラテン語で〈暗い、つまり、知られない男〉の意味。然るべき男であったが、特に名を馳せることはなかった」という程の説明で、‘dunkel’ つまり ‘unkenntlich’ と、ずばりと断定されている。ところが、次に紹介する注釈では、態度にぐらつきが見られる。

  ‘Dunkler Ehrenmann: nicht weit bekannter, obskurer, vielleicht auch   seltsamer und fragwürdiger Mensch.’  (Jubiläum-Ausgabe)

 前半はよいのであるが、「たぶんまた、奇異な、怪しげな人間」であろう、というふうにぼやかされてしまうと、これを参考にしようとする者は、前半に重点を置いてよいのやら、それとも後半の「おそらく」以下に頼ったほうが、真実に近づけるのやら、分からなくなってしまう。おそらく、注釈者自身が分かっていないと言うほかない。

 次には ‘dunkel’ をはじめから否定的に、つまり悪者の形容詞に捉えて、しかしながらその意義を弁護しようとするかに見える、どうにも煩雑な解説が登場する。

 ‘dunkler Ehrenmann: deutet nicht auf verbrecherisches, zur äußeren Würde im Widerspruch stehendes Verhalten, sondern auf das zwar ehrlich gemeinte, geheimnisvolle und bei unrichtigem Gebrauch der gewonnenen Mittel gelegentlich auch Schaden anrichtende Tun der Alchimisten.’ (Reclams Universal-Bibliothek)

 要約すると、「犯罪的な、名声に反する態度を指すのではなくて、律儀に考えているのだけれども、扱い方を誤ると、時には災害を引き起こすこともある、錬金術師の行動」ということになるであろうか。これは、大衆版の性質上、仕方がないとはいえ、いわば全体の調子が情緒的で、こういう場合に必要な客観性に欠けている。

 最後に、決定的な反論が現れる。しかも、もっとも最近の包括的な著作集からである。             

 ‘dunkler Ehrenmann: mit Bezug auf die Alchemie und ihre dunklen Regionen’  (Hamburger Ausgabe)

 ここでは明瞭に「錬金術とその暗い領域に関連して」と断言している。

 このハンブルク版は1940年代末以降に発行され、改版を重ねつつ、学界にも広範に流布されて、近年におけるもっとも権威ある版と見なされる。編者のTrunz教授は、バロック文学の研究でも重要な地位を占め、私は殊にこの方面で若干の面識もあり、その実直で緻密な学風には敬服しているが、この文言の解釈に関するかぎり、啓発されるよりも、むしろ、困惑に突き落とされてしまった。ドイツ文献学の主流からの離反に途惑い、また日本人としては、鴎外の昔に突き返されてしまったのである。

  小島政二郎によれば、鴎外は「ファウストの善本」は「ゾフイインアウスガアベ」(Sophien- ausgabe=Weimarer Ausgabe)であると言っているので、あまり「コンメンタアル」は参照しないと公言している鴎外でも、ここのところは、あるいは語義を調べてみたのではないかと思って、この過去の代表的全集を繰ってみたが、どういうわけか、ヴァイマル版にはここの注釈が見当たらない。私の見るかぎり、素通りされてしまっているので、肩すかしを食った感じだが、他方また、それであれば、注釈に値しないほど不審もなく受け止められたのかと、判断せざるを得ない。思うに鴎外も、父親に関する描写30行ばかりを見て、その総体から、その「暗い」意味を直感したのであろう。しかし、このような憶測は、文豪に対して失礼である以外、およそ方法論的に意味をなさない。 


5.

 ところで、ここで分からないのは、近年の日本語訳に、ハンブルク版の注釈がいささかも反映されていないことである。相良訳が執筆された当時は、まだハンブルク版は存在していなかった。しかし、上に紹介した他の訳文が書かれた時には、この版が日本国内で普通に見受けられ、当然、本来非常に価値のあるその内容についても、十分に注意が払われていなければならなかったはずである。だが、その痕跡がここにはない。それぞれに苦心されたであろうことは、それぞれに工夫が凝らされた訳語には窺えるが、この工夫は、語の真義をめぐって為されたものであろうか。まことに文字どおり、このように ‘dunkel’ な箇所は、薄暗がりの中で通過してしまったほうがよいと考えられているようである。それに、この巨大な宇宙詩の中で話題とするには、これはあまりにも些細すぎる。このようなこだわりは、そもそも愚劣と映じたのか。

  日本で一般的に使用されている、ある注釈書の中に、この箇所をかなり丁寧に取り扱った記述が見出される。要約して引用すると、「dunkel は錬金術師のgeheime, trübe Existenzを意味するとする説と、ein ehrlicher, unberühmter Mann とする説とがあり、後者を取る」となっているが、その根拠としては、“Dichtung und Wahrheit” の中の次の文章を挙げている。‘......im Besitz einer ganz dunklen, aber einträglichen Stelle’(全然目立たないが実入りの多い地位に就いて)。 関連文献がよく顧慮されていて結構であり、二説があるとするのも、後の方の説を取るとするのも、結果としては結構と思われるが、ただその判断の基礎に据えられている文例からは、それ故にここではその後者の意味だとする見解が、順当に手繰り出されては来ない。この種の用語例は、他にも多く見出されるからである。特殊なこととは言えない。したがって、この注解は感謝すべきものではあるが、この場合、二者択一を迫られるのであれば、問題なくその前に脱帽するというわけにはゆかないのである。

  ではどうすればよいのか。正直に申して私には分からない。上述の事情を真剣に考慮すれば、広く学界においても、この問題を完全に納得できる形で解決するのは無理であろう。正解を得るためには、ただひとつ、作者その人に尋ねてみるより手がないのではないか。しかし、それが不可能である以上、この語句の真意を知りたいとの願いは、見果てぬ夢に終わるであろう。これは感傷ではなくて、老人の冷や水にも似た、警告である。このような事態は、あるいは他にもあるかも知れない。ましてや、検索を怠って語義を誤解し、あるいは、自論の主張のために、恣意的に語義を歪めるということは、およそ信じられないほど、新人たるとベテランたるとを問わず、斯界の公刊物においても目に付くところである。微細な細胞から有機体のすべてが構成されているように、貴重な文学作品の生命を損なわないためには、その細胞にあたる微細な語句のひとつひとつをも丁重に扱わねばならぬ。もとよりこれは、常にみずからにも戒めているところである。以上が、長年ドイツ語と付き合って、いまだにこの些細な語句の前に立ちすくんでいる、一老学者の感想である。

                    

                     (2003年3月)

  


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