誠実でない〈誠実論〉

              ―ちょっとまじめな抗議―

                                                 
義則孝夫




1)ここに次のような一文がある。まず、ご覧いただきたい。 


「摂理は、いつでも誠実な人間[の不幸]を埋め合わせてくれる」 


言うまでもなく、これが、あるドイツ文からの翻訳であることは、だれにでも見当が付くだろうが、さて、その意味内容が分かるだろうか。もちろん、[ ]の中の断り書きなどは、原文の中には存在しない。そこで、この[ ]内の補足なしにすると、文章全体は「摂理は、いつでも誠実な人間を埋め合わせてくれる」となって、それらしい日本語の形態は保っているけれども、まず、まともな日本人が述べる言葉ではない。まさにその通りであって、原意は、そのようなぎこちない日本語とは似ても似つかぬものなのである。 


原文は以下の通りである。 


‘Die Vorsicht hält den ehrlichen Mann immer schadlos.’ 


なるほど‘schadlos halten’は「蒙った損害などの埋め合わせをする」という意味であり、もし‘ehrlich’という形容詞が「誠実な」という意味であるなら、ぎこちないながらも、ドイツ語を日本語に並べ替えると、上記のような文が出来あがるであろう。念のため、‘Vorsicht’は「神の摂理」の意義である。 


しかし、事実はそうではない。この文章はドイツ戯曲界の巨匠Lessingの“Minna von Barnhelm”のヒロインMinnaが発する劇中の台詞である。これ、もし日本の舞台で女優がしゃべったとしてごらん。堅苦しくて、肩が凝って、聞けたものではない。しかも、この戯曲は喜劇なのである。哲学的理念劇の類いではない。つまり、こんな和訳に対応するような本来のドイツ語の意味ではない。ちなみに、次のように訳してみてはどうだろう。 


 「正直の頭に神宿る」 


これならば、すべての日本人には難なく分かるし、しかも、この文章に含まれる多少シニカルな意味合いも、理解されるであろう。まさにその通りで、この文はドイツ語では一種の決まり文句の感があり、辞書にもその用例が説明されている。ついでに言うと、並みの辞書ではない。筆者にとって、この場合、強力な助っ人になってくれたのは、18世紀出版の4巻本のAdelungであった。そこには文字通りの引用がある。学習用しか存在しない独和辞書からしょぼしょぼと訳しても、しょぼしょぼした訳文しか出て来ない。それで納得できるのは、日本語も、ドイツ語も分からない人である。  


2)問題は、それよりも、根本的に‘ehrlich’という形容詞の文意の把握にある。上述の訳文を提供した人物は、「レッシング研究余禄」と称する某学会誌に掲載した論文の中で、この‘ehrlich’が作品のキィ・ワードであると強調し、上記の台詞を述べた女主人公のMinnaの不動の信念に基づいても、この語が意味する「誠実」の観念こそが、この戯曲全体を支配する、18世紀ドイツの啓蒙主義的精神の精髄であるとする。しかし、果たして‘ehrlich’は、「誠実な」というような、道義的に卓抜した特性をあらわす概念であろうか。


なるほど‘ehrlich’は名詞‘Ehre’に由来して、この名詞は「名誉、栄誉」を意味するものだから、その形容詞は「栄誉ある、名誉にふさわしい」という意味になるように思われる。確かに古い時代では、それに近い用例が、と言っても、せいぜい「立派な」とか「優れた」とかという語義の範疇内で、実証されているが、問題の文章が綴られた18世紀の段階では、事情がかなり異なって来ている。だんだん悪くなって来て、褒める意味合いは、だんだんかげが薄くなって来ている。 


例えば、ここにこういう用例がある。人に関してではなく、物に関してである。 


   ehrliche Milch(純粋な牛乳、混じり気なしの)
   ein ehrliches Gewerbe(地道な商売)
   in einem ehrlichen Haus(まあまあの家) 


まさかこれらに「誠実な」という形容詞をつけるわけには行くまいが、それに対応する「立派な」とか、「見事な」とかいう格付けも、この場合は妥当しない。 


それでは、人に関してはどうであるかというと、例えば、次の用例がある。 


 Gegen ein ehrliches Mädchen darf man sich so etwas nicht herausnehmen.

 (ちゃんとした娘に対しては、そんな怪しからぬ振舞をしてはならない) 


幾つかの辞書で調べたところ、「娘」に関してこの形容詞が使われる場合は、娘の素性、品行に関していかがわしいところはない、ということを言うらしい。身元が確かであるとか、淫らな性状、行為がないとか、いうことである。 


「私はちゃんとした娘です。変な真似はなさらないでください」などと、変な気を起こしたおじ様方が若い女の子に言い寄った場合、肘鉄砲を食うときの文言であろう。だから、それが「誠実な娘」の意味であるはずがない。  


3)そろそろ本論に入らねばならないが、この訳語を見つけて以来、それが権威ある(とみずから称している)学会誌に掲載された論文であるだけに、大いに気になって、然るべき辞書を丹念に調べてみた。結果は一義的で、私の懸念は裏づけられた。いずれも、この語の否定的なニュアンスに注意を促している。代表として、次の記述を挙げよう。 


‘heute gw. nicht sowohl positiv, sondern nur negativ von etwas, dem kein  Schimpf anhängt, anständig’(Sanders) 


ドイツ語の読めない人には面白くもない説明だろうが、ドイツ語の読めそうで読めない先生方にも、とくとこの意味を理解してもらうために、以下に日本語で示そう。 


「今日では通常、肯定的にではなくて、むしろ否定的にのみ、貶すわけにはゆかないことを、遠まわしに言う」 


当然‘ein ehrlicher Mann’に関しては、延々と説明がある。一昔前とはうんと格が下がって、せいぜい「実直な男、律義者、正直者」から、だんだん悪くなって、「正直」の前に「バカ」がつき、Einfaltspinsel(お人好し、頓馬)から最後はgeduldiger Hahnrei(コキュー、それも、妻を寝取られて、じっと耐えている男)の意味にまでなり下がる。もしも、本来この語に「誠実な男」の意味があったのだとしたら、その間の天地ほどの差を、語史的にどう埋め合わせするのだろう。そんな語の変遷は、論理的に不可能である。  


4)ところが問題の論説を書いた御仁は、とにかくこの作品の中から「誠実」のモティーフを引き出したくてたまらないわけだから、出てくる人物はすべて「誠実な」人間でなければならない。そこで少女Minnaは「誠実な娘」(ein ehrliches Mädchen)であり、下僕は「誠実なヴェルナー」(ehrlicher Werner)であり、ついにはパリの博徒までが、片言のドイツ語で「私たち賭け事をやる者はお互い誠実な人間(ehrlik Leut)ですよ」と言い放つに至る。ごく普通に判断して、自分のことを「誠実な人間だ」などとは、常識ある日本人なら気恥ずかしくて言える文言ではないし、下男にこの形容詞を付けるのは善良な使用人に対する常套的褒め言葉であり、最後の文例に至っては、そもそも内容が不可解で、不審と言うよりは、むしろ滑稽と言わざるを得ない。この原文は、以下のとおりである。そして、日本語になおせば、以下に付するとおりの意味である。 


‘Wir andern Spieler sind ehrlik Leut untereinander.’
(我々は他のばくち打ちと違って、仲間同士、いかさまなんかはしませんよ) 


引用の訳文では‘Wir andern Spieler’の‘andern’が訳出されていない。もちろん、これは破格ドイツ語である。相手がフランス人なのだから、それを承知で、破格もそれなりに理解してやらねばならない。ドイツ人なら難なく出来るだろう。それにしても博徒が「誠実な」とは驚いた。賭博に関してこの形容詞‘ehrlich’が用いられるのは、ごく普通のことで、それは「いかさまなし」の意味である。ちなみに日本の学習用の辞書を引いてみるとよい。 


‘ehrlich spielen’(賭博でいかさまをしない) 


少し気の利いた辞書なら、ちゃんと用例が出ている。それが一転、ここでは「誠実な人間」へと、百八十度の転回をとげている。 


一般にレッシングはベルリンにあって、まだ若くて不遇だった頃、賭博に耽ったことがあったと、知られている。そのときの経験からも、このような表現が生まれたのだろうと思われる。日本におけるレッシング研究の元老と称されている人の、レッシング文学解釈であるから、万事を抜け目なく押さえてもらわねば困るのである。  


4)この論説の中で‘eine ehrliche Frau’という語が出なかったのは幸いである。もし出てくれば、論者の頭脳に合わせて「誠実な女」と訳さざるを得なかったであろう。これだけは別と言うわけにはいかない。とんでもない。この語は一義的で、まがいものでない、正式の妻、つまり、妾や愛人に対して、「正妻」の意味である。もしこれが「誠実な女」と訳されていたら、ドイツ語はドイツ語であることを止めねばならない。 


この論者の説くところでは、某フランス人の著書に七年戦争、つまり、この戯曲の設定されている時代、における、青年貴族軍人の心得のようなものがあって、その中に軍人はまず 'un honnête homme' である必要が説かれ、その語のドイツ語訳が'ein ehrlicher Mann'であるとする。この語源はラテン語のhonestusで、英語のhonestも同じだが、ドイツ語には同形の形容詞がない。そこでehrlichを用いたのだとする。それはそれでいいのだが、論者の言うところによれば、「十七世紀的なニュアンスの強い」この概念には特殊な意味が込められているとの判断である。果てしてそうだろうか。 


と、私が怪訝に思っていた矢先、まったく別の関連で、ヴィーラントを読んでいたときに、たまたま次のようなルソーの文章にぶつかった。彼の得意の性愛論の一節である。 


‘L’honnête homme et l’amant s’en abstient, même quand il pourroit l’obtenir.’
(まともな男性と愛人とは、望みのものをあたえてもらうにしても、控えめに振る舞う) 


後も面白いので、ついでに紹介しておくと、「沈黙の合意を強奪するというのが、愛において許された暴力の行使のすべてである」と続く。それはさておき、この場合、主語が「誠実な男性とその愛人は」で、文意に妥当するだろうか。「ちゃんとした男と女」なら、いかなる濡れ場でも、おのずから節度があると言っているだけで、およそ「誠実な」というような、倫理的徳性を主張しているわけではない。もしもそのように訳したならば、この巧妙な文脈は、破壊されるだろう。 


ほぼ、ルソーとレッシングは同時期の著作家である。その用語の理解に大差があるとは思えない。 


およそレッシングのこの作品は、七年戦争を契機にして、青年貴族の軍人の、巷における自堕落な行動を揶揄したものである。痛める側の貴族階級をいさめるのが目的であったとすれば、痛められる側の町人階級の、殊に娘たちの悲劇は、当時の多数の「嬰児殺し」の逸話にも反映されているので、その道義的反対像を呈示したものだと言えるだろう。その意味で、確かにこれは「真面目な喜劇」である。しかし、論者が説くように、「軍人である前にまず誠実な人間であって」、その誠実さを引き下げて、いずれ神の御前に出るときに浄福にあやかれるように努めよ、などと諭している作品でもなさそうである。そうであってほしいと願う気持は分かるが、どこまでも我意を通して、しかもその我意が、肝心のキィ・ワードの、他愛のない誤訳に基づいているというのでは、およそ学問的に‘ehrlich’であるとは言えないだろう。しかし、これは本来、ご当人にとって救いようのない事柄なのかも知れない。そんな気がする。 

                                   
                                                  
(2003年10月5日)  




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