ヴィーラント考

              義 則 孝 夫 



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   C.M.ヴィーラント (Christoph Martin Wieland, 1733-1813) は、およそその名が近代ドイツ文学史上に大きく残りながら、読まれることがもっとも少ない作家の一人であろう。およそ文学思想というものがあるとすれば、思想上これほど重要とされながら、その実作がこれほどまでに敬遠、忌避、もしくは嫌悪される例は、世界の文学でも珍しい。これは歴史的に見て特殊ドイツ的な事情がはたらいており、端的にすべてを要約して言えば、ヴィーラントの作品は「非ドイツ的」(undeutsch) ということで、ドイツ人の趣向から遠ざけられてきたのであって、現在ドイツにおけるヴィーラント研究の第一人者 F.ゼングレ (Friedrich Sengle) の言葉を借りれば、1)「ドイツ精神のゲルマン的転向」(die germanische Wendung des deutschen Geistes) 以来、というのはつまり、クロップシュトック (Klopstock) と森の詩社 (Hainbund)、シュトゥルム・ウント・ドラング (Sturm und Drang)、さらにはロマン主義 (Romantik) 以来、ヴィーラントはドイツ文学の主流からは置き去りにされたのであり、さらに言えば、追放されたのである。クロップシュトックを師と仰ぐ森の詩社の青年詩人たちが、1773年、師の誕生日の祝祭行事に、ヴィーラントの著作を焼き捨てたのは、未だによく知られている史実である。そういう事情を反映して、読書界のみならず、学界にも疎んじられて、ヴィーラント研究は、ゼングレの言うとおり「瓦礫の野」(Trümmerfeld) に留まっている。

  そういう影響を受けて、日本でもヴィーラント研究は盛んではないどころか、作家論、作品論ともに百花繚乱である他の分野に比して、その名が口にされることはきわめて稀であると言ってよい。そして、一般にその名が口にされ、局部的に大声で喧伝されるのは、いわゆる「教養小説」(Bildungsroman) の研究の枠内で、小説『アガトン物語』(Geschichte des Agathon) に関してである。そこに展開される主人公アガトンの教養形成理念が、ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスター』の理念的内容を一世代早く先取りするものとして、両者のあいだに共通の、特殊ドイツ的な長編小説の造形原理を認めようとするのである。それは、またしても端的に一言にまとめて言えば、フランス、イギリス等に比して、ドイツの小説に顕著に認められる内面的傾向であって、これは一般に教養小説なる語の創始者とされるW.ディルタイ(Wilhelm Dilthey) の言い方にしたがえば2)、「当時のドイツ人の精神の内面文化への志向」として認識されるものである。そして、総じて言えばこれが、世紀転換期をへて新しい時代を迎えるドイツ文学の時代的要求であった。当然しかし、その源はもっと遠くに発していた。18世紀のかなり早いころ、近代国家形成に遅れを取ったドイツは、文学の領域においても、ゼングレの言う「ゲルマン的転向」に即して、みずからの孤独の水路を切り開いて行ったのである。ディルタイに言わせれば、それは、社会的広がりを失い、外方へ向かっての影響力の乏しさに絶望して、内方へ転換し、「私生活の興味の範囲に制約される文化の個人性」(der Individualismus der Kultur) へと収斂されて行く過程を示すものであり、それが19世紀以降のドイツ文学の特性をなすものであった。ディルタイに発する教養小説論はしたがって、なかんずく世紀転換期以降のドイツ文学に関して、歴史的に批判的な見解に留まるものであって、一般に信奉されているように、本来、いわゆる「ドイツ的深み」(die deutsche Tiefe) を称揚するものではない。彼にとっては、世に言われる「ドイツ的内面性」(die deutsche Innerlichkeit) は一貫して否定的な意味を持っており、文化の個人的孤立性が内面への沈潜を生み、個々の生の完成に人間の精神的努力が集約されざるをえず、したがって、もろもろの世界との出会いに触れたのちにも、あやまたず、最終的には「地上の子の最高の幸福は人格」(ゲーテ)という、決まりきったフレーズに陥るのだという。もとより、人間の個人的練磨、完成が大切なこととは言うまでもない。しかし、その人格的完成が世界を救った例を、ドイツ文学は絶えて知らないのである。

  そういう人格の完成、世界のもろもろの事象との活発な触れ合いのもとに、度重なる挫折にもめげず、ついに修得された「まことの徳」(die echte Tugend) を通じて「地上における神の国」(Gottes Reich auf Erden) の現出を確信するに至るアガトンの人生記録は、当時のドイツ社会と、領邦国家の政治的、思想的偏狭さの中にあって呻吟しつつもヨーロッパに伝承された真善美の理想に依拠して生き抜こうと志す、心ある青年たちとのからまり合いの、文学の領域における写し絵であった。この限りにおいて、小説『アガトン』はドイツ理想主義の一角に、いつまでも色あせることのない旗を打ち振るものであって、まさにこの限りにおいて、それは、ゲーテ以後ロマン派につらなるドイツ観念論小説の先駆をなすものであり、この小説のこういう評価にもとづいて、ヴィーラントはドイツ文学史における当時の重要な作家の一人とされるのである。ちなみにどの文学史をひもといてみても、ヴィーラントの他の作品の並列的な記述に並んで『アガトン物語』だけは別格の扱いを受け、まるでドイツ文学における聖物のように取り扱われているかのように見える。1766年から書きはじめられ、1773年の第2稿をへて、1794年の第3稿に至ってようやく決着を見て、それでもなお作者ヴィーラントによって、この作品は「長年かけても依然として未完」と嘆息されざるをえなかったような、そういうこの作品の芸術的欠陥については、少なくとも文学史記述の枠内では触れられているものはない。つぎはぎの強引な構成、叙事的具象性の欠如、空転する弁論、あくまでも透明な人物像、そし観念的で脆弱な結末、等々について、論及するものは一つもない。それらは日の当たらぬ側であって、一般に文学史は、日の当たる側のみを見たがるのである。この問題に関しては、上記のゼングレが、ヴィーラントはここで、自己の芸術性を殺して、無理矢理の「力業」(tour de force) を行ったのであると述べているのは、まことに正しい評価であり、ヴィーラントの文筆活動を正当に理解するものと言わねばならないであろう。ちなみに、ゼングレはその膨大な『ヴィーラント論』のはしがきで、自分が当時ひとに何を専攻しているのかと尋ねられたときに、ヴィーラントだと答えると、ひとは「大きな目をむいた」と伝えている。第二次世界大戦直後の話である。

  そういうヴィーラントはゲーテと親しみ、のちに太公妃アンナ・アマリア (Anna Amalia) にすすめて、ゲーテをヴァイマル公国に招いた。彼らの政治活動のことはここでは問わないが、やがてシラーも加わって、ここにヴァイマル古典主義と称される、ドイツ文学の一大黄金期が到来するのである。16歳年下のゲーテはヴィーラントに親しみ、敬い、のちに説くように晩年に至っておのずから別の道を歩むようになっても、生涯友情は変わらず、ヴィーラントの葬儀に際しては、ヴィーラントの人と文学に関する豊かな理解を示す弔辞を残している。そのゲーテとヴィーラントの関係をここで総括的に眺めたいと思うのだが、それは何よりもそうすることによって、ヴィーラントの文学の運命と価値とを、重要な歴史的ポイントにスポットを当てて、とらえることができると思われるからである。3)

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  ゲーテとヴィーラントとの最初の出会いは、ゲーテのライプツィヒ大学時代のことであるが、若いゲーテに影響を及ぼしたものは、その頃チューリヒで印刷されて強い反響を示すようになった一大哲学小説『アガトン』ではなかった。もっと軽い小さな作品、ロココ・ヴィーラントの作品であって、なかんずく『ムザリオン』(Musarion) は彼をしたたか魅了したらしい。ゲーテの自伝『詩と真実』(Dichtung und Wahrheit) は、その第26章、7章において、当時のドイツ文壇の状況を伝えてきわめて興味深いものがあるが、そこでゲーテはヴィーラントに、あくなき共感と敬慕の情をあらわして、次のように伝えている。「疑いもなくヴィーラントこそは、それらすべての文人のあいだでもっともすばらしい素質を有していた。彼は早期には青年たちが好んでとどまる、あの観念的な領域で修業を積んだのであるが、これが一般に経験と呼ばれるもの、つまり世間や女性との交渉によって厭わしいものとなったから、現実的なものの側に身を投じ、この二つの世界の闘争を描いて、自他共に満足させた。その場合、冗談と真面目とのあいだを軽くあしらいながら、その才能をもっともきらびやかに発揮したのである。彼の輝かしい作品の多くは、ちょうど私の大学時代にあらわれている。《ムザリオン》は私にもっとも強い感銘をあたえた。エーザー(Oeser)4)が渡してくれた最初の見本刷りを見たときに、この目に映じた文の箇所をいまなお思い出すことができる。古代が生き生きと甦って、眼前に髣髴とする思いがしたのは、まさにそこであった。ヴィーラントの天才で真に血の通ったものが、そこには遺憾なく発揮されていた」 当時のゲーテはまだ若くて、その批評も一面的であったかもしれないが、有名なヴィーラントが彼の関心の中心にあって詩人たるものの範例を示していたのは、間違いないところであり、それも、彼を導いたのは狭い意味での「言語芸術家」(Wortkünstler) としてのヴィーラントであったと考えられ、それ故に『アガトン』ではなくて『ムザリオン』が貴重だったのである。この熱狂的な師事の結果は、いわゆる「ロココ・ゲーテ」と称される、ライプツィヒ時代の彼の試作にあらわれている。この時代の作品は、彼の文学活動の前段階をなすに過ぎないものとして、往々にして無視されるが、かりにこの時代の作品に、彼に特有の「体験文学」の要素が乏しいことを嘆く声があるならば、それに対しては、彼が『詩と真実』の中で、「私について世間で知られるに至ったことは、すべて大いなる告白の断片である」という、あの有名な文言は、まさにこのロココ時代への回想を契機として述べられていることに、注意を促しておきたい。体験は万人のもの、詩は名人のものである。ライプツィヒを去ってからも、なおヴィーラント賛美は続く。その最大の表現は、おそらく次の書簡に留められた文言であろう。「彼(エーザー)とシェイクスピアに次いでは、ヴィーラントだけが、真に師として私が認めることができる唯一の人です。他の人たちは私の欠点を示しましたが、この人たちは、どうすれば私が上手になるかを示してくれました。・・・・・・立派な人と同じくらい立派でなければ、その人を褒めることさえすべきではないのです。ところで、ヴィーラントがいろいろ難癖を付けられているのを見ると、私は当然のことながら、腹が立ってたまりませんでした。ヴィーラントは不運にも、しばしば理解されないことがあります。おそらく、ときには彼のせいでしょうが、しかし、ときにはそうではないのです。そこで人びとがヴィーラントのことを誤解して、その誤解を作品の解釈と称して読者に売りつけているのを見ると、腹を立てずにはいられません。ヴィーラント氏自身が、このことに腹を立てていらっしゃるかどうかは存じませんが、少なくとも、そうなさるだけの根拠はありましょう。・・・・・・あなたの友人であるこの偉大な作家に手紙をお書きになるか、またはお会いになる節があれば、その功績を称えるにはまだ十分に一人前の男ではないが、それを敬うには十分に懇篤な心を持っている、そういう一人の人間のことを、どうぞよしなにお執り成しください」 17702月、出版者ライヒ (Ph.E.Reich) 宛の手紙である。

  ところが、それからしばらくたって、後世の我々にとって不思議と思われる、あるひとつの事件が起こる。1774年、ゲーテがヴィーラントを揶揄した「笑劇」(Farce) 『神々と英雄とヴィーラント』(Götter, Helden und Wieland) を発表して、これまで畏敬の対象であったヴィーラントをこきおろすのである。事の起こりは前年、ヴィーラントの主宰する雑誌『ドイツのメルクール』(Der Teutsche Merkur) に発表されたヴィーラントの歌劇『アルチェステ』(Alceste) にかかわることであって、世界文学史上有名なエウリピデスの原作を、ヴィーラントが自分流儀に改変し、しかもこの改変を、古代悲劇の「改善」(Verbesserung) と称したことで、その思い上がりと古代の歪曲に関して、若い世代の憤激を買ったのである。ヴィーラントにとっては、ギリシア文化を現代化することが大切であった。彼はそのために、この場合に限らずつねに、創作でも翻訳でも、自己の信奉する価値判断の尺度をギリシア文化にあてがった。シュトゥルム・ウント・ドラング期の青年たちにはしかし、そうではなかった。彼らにはギリシア文化は自然そのものだったのであり、またそうでなければならなかったのである。文学に内在する真実とは彼らには、文学以前の人間の生そのものに由来する真実であった。次の挿話は両者の区別を示す、格好の例であろう。ゲーテとも親しかった、「南方の魔術師」(Magus des Südens) の異名をとったラファーター (Lavater) は、いつか次のように主張した。ギリシア人は理想的であった、ただそれゆえに、彼らの芸術もまた理想的であったのだ、芸術はつねに自然の背後にとどまるのだ、と。これに対してヴィーラントは次のように反論した。人間というのは理想的であったためしがない、つねに理想的なものを作るのは芸術家であって、したがっていつの世にも、芸術家が理想的な形姿を生み出すことは可能なのだ、と。ヴィーラントは新しい芸術観をはねつけたわけだが、この対立は、当時のゲーテの感想にも見える。穏やかな回想の口調ではあるが、彼はヴィーラント批判を次のように書き残している。「詩人としてあれほど高く尊敬し、翻訳家としてあれほど大きな恩恵をあたえてくれたヴィーラントが、いまや批評家としては気まぐれで、一面的で、公正を欠くことが判明したのである。・・・・・・ギリシアの神々や英雄は、道徳的特性を基底としているのではなく、純化された感性的特性を基底としていることは、あまりにもよく知れわたっている。それゆえに、芸術家にもあれほどのすばらしい形姿を提供してくれるのである。ところでヴィーラントは《アルチェステ》で英雄や半神を現代風に描いたが、そのことだけなら、格別何も言うことはなかったであろう。詩的伝承を自分の目的と考え方に合わせて作り変えるのは、まったく各自の自由だからである。けれども、先述の歌劇に関して《メルクール》誌上に載せた書簡体の論文の中で、彼がこういう取り扱い方をあまりにも一方的に推しすすめているかに見え、それらの作品の基礎にある質朴で健全な本姓をいささかも認めようとせずに、すぐれた古代人とその高貴な形式を、いわれもなく冒涜しているように思われた」(詩と真実、III.15)こうした不満を友人たちのあいだで語り合い、ゲーテは問題の「笑劇」に踏み切ったようである。ゲーテによれば、それはある日曜日の午後、上等のブルグンドのぶどう酒瓶を傾けながら一気に書き下ろしたもので、仲間に朗読すると喝采を受け、ただちにシュトラースブルクの友人レンツ (J.M.R.Lenz) に送付すると、レンツはすかさずこれを印刷すべきであると主張し、慌しく事は成就した。ゲーテを弁護するために是非とも付言しておくと、「ずっとのちになってはじめて知ったのだが、実はこれこそ、レンツが私を傷つけ、読者のあいだでの評判を悪くしようという下心から出た、計略の第一歩だったのであるが、そのころ私は、そんなこととは露知らなかった」とゲーテが先程の箇所に引きつづき述べているのは、その後のヴィーラントとの関係から言って、おそらく事実であろう。

  この攻撃を受けて立ったヴィーラントの応対は見事であった。ドイツ文学史上のもっとも快適なエピソードとして記憶さるべきものである。すなわち、ヴィーラントはその後すぐ『メルクール』誌の6月号に次の通りの広告文を掲載した。「《神々と英雄とヴィーラント、笑劇、予約印刷、ライプツィヒ1774年》この小さな作品の著者、ゲーテ氏は、さきにその作《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》で、その気になればシェイクスピアになれることを示したが、今回この英雄的、喜劇的、笑劇的な誹謗文書で、その気になればアリストファネスにもなれることを立証したのである。この批判的ゲゲゲゲゲッコ、ガッコ、ガッコ5) において得意になってヴィーランとヴィーラントの《アルチェステ》を槍玉に上げているように、アリストファネスも往時、エウリピデスを槍玉に上げたのであったが、まさにそのエウリピデスを引っぱり出して、ゲーテ氏はここで、持ち前の茶目気たっぷりに、歌劇《アルチェステ》の作者をいたぶらせているのである。この小さな書物を我々は、冷やかしおよびソフィスト的機知の傑作として、人をそしる技芸の愛好者にひろく推薦するものであるが、およそソフィスト的機知とは、あらゆる立場の中から、そこから見ればまさに物が歪んで見えざるをえないという、まさにそういう点を入念に選び取り、しかるのちに、物事がこんなに歪んでいると称して、笑いころげるものである」このことに対するゲーテの反応は、事情を知る怜悧な女知人ファールマー (J.K.Fahlmer) によって次のように伝えられている。ゲーテはこの記事を読んで、「これ以上うまくはやれないだろう。上出来だ。心からそう言って、今後はあの人を永久にそっとしておこう。これでヴィーラントは読者のあいだで大いに得をし、私は損をした。私はとんでもない恥さらしだ」と言ったということである6)。もともと、ゲーテも告白しているとおり、青年の血気から生まれた純粋な文学論争以外の何ものでもなかったこの事件は、このような言葉のやり取りの中にすでに和解が用意されているが、程なくゲーテは、特に両者の仲立ちに尽力した友人クネーベル (k.L.Knebel) のすすめでヴィーラントにあてて手紙を書き、一件は落着する。もっとも、ゲーテがヴィーラントの文学的立場を真に理解するのは、それから10年以上を経て、『イフィゲニエ』(Iphigenie) の詩人の段階に到達してからである。すなわち、シュトゥルム・ウント・ドラングを脱して、古典的ヒューマニズムに共鳴するようになってからのことである。いまの場合、ゲーテはヴィーラントの卓越した人格と理性のまえに、うやうやしく頭を垂れたということであろう。ちなみに当時のゲーテは脱線して、おなじようなトラブルを仲間の詩人ヤコビ (F.H.Jacobi) とのあいだに起こしたことがあったが、このほうの関係の修復は長くかかった。そのときゲーテは、事柄をヴィーラントのように悠然と、ユーモラスに受け止めてくれればよいのに、そうすればだれももう気にしないのに、と言っている。(詩と真実、III.15) ゲーテによって、またしてもヴィーラントの偉大さが示される事例である。

  笑劇事件のあった翌1775年、ゲーテはヴァイマルに招聘されて、直接ヴィーラントの知己を得ることになるが、特にゲーテのヴァイマル時代の最初の時期は、ヴィーラントとの交誼は深く、ゲーテにとって意義深いものであった。ゲーテはヴィーラントを「世界最大の人の一人」と呼び、そのもとで「神々しいまでに清らかな時間」(göttlich reine Stunden) を過ごしたと、伝えられる。また後年、回顧談で、四十年に及ぶ交誼を重ねて、ヴィーラントにおいて時代の最大の人の一人に出会ったという、あの最初のころの印象は、ますます深まるばかりであった旨を、述懐している7)。ゲーテが政治活動に見切りをつけ、イタリア旅行ののち、ふたたび試作に専念するようになってから、しばらくのあいだは、ゲーテとヴィーラント両者の作品に、ある種の一致点が見られる。ヴィーラントは『アガトン物語』の第3稿を1794年に発表し、ゲーテは『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(Wilhelm Meisters Lehrjahre)1798年に完成するが、この二つがドイツ 小説史上同じ類型の作品であることは先に見たとおりである。またゲーテは、1797年に『ヘルマンとドロテア』(Hermann und Drothea) を発表するが、これは彼が激賞したヴィーラントの幻想的、童話的な叙事詩『オーベロン』(Oberon)と、不滅の男女の愛をうたって、モティーフ的、形態的、理念的に、同種の作品であるといってもよい。ちなみにゲーテは「黄金が黄金であり、水晶が水晶であり、文学が文学であるかぎり、オーベロンのような作品は、永遠に愛読されるであろう」(Lavaterへの手紙)と述べているが、彼自身の牧歌的叙事詩についても、これとまったく同じことが言えるだろう。ところで注目すべきことに、これらの詩作には、例えば同時期のシラー (Schiller) の作品に比して、悲劇的な面影が表立つことはない。そこに支配しているのは、18世紀ヨーロッバを照らした、啓蒙主義の明るい空である。芸術的な意味でも、人間的な意味でも、進歩、発展、調和が合言葉とされ、人類の極限の完成の可能性が無理なく信じられた、そういう楽天的なで快活なヨーロッパ精神の一時期として啓蒙主義を理解するとき8)、この時期のヴィーラントとゲーテの両者を、等しくその明るい光に照らして見ることができるのである。程なくしかし、19世紀に入って時代は変わる。ヴィーラントはその変化に対応しなかったが、ゲーテはより大きな可能性を秘めて、新しい時代へ突入して行った。彼の道は先輩の道とはおのずから異なるものとなる。それについては、のちに見ることとしよう。

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  同じ世紀末のころ、しかし、情感的で悲劇的な詩人シラーは、ヴィーラントに対して、ゲーテとはまったく違う考え方をしていた。後年決定的となるヴィーラント批判は、このシラーの論説に発するとされる。すなわち、シラーは『素朴文学と情感文学』(Über naive und sentimentalische Dichtung. 1795 f.) の中で、慎重に、というか、持ってまわった非常に遠慮がちな言い方で、この文学界の大先輩に対して、文学論上の苦言を呈している9)。その眼目は美と道徳のせめぎ合い、つまり、文学における倫理性の問題である。彼はまず詩人 (Dichter) と小説作家 (Romanschreiber) を区別したうえで、文学における「理想の高尚な純粋さ」を「内容の物質性」によって傷つけるものが古典作品の中にもあるとして、「ミューズの神の純潔な使徒である詩人にさえも許されることが、その異母兄弟にすぎず、世俗の塵にふんだんにまみれている小説作家に許されないことがあろうか」と許容したうえで、しかし、「その詩的自由は、詩人を詩人たらしめる最高のもの、もっとも崇高なものから導き出されて来なければ、単に軽蔑すべき特許にすぎない」と限定する。そして「礼儀作法に反して自然の描写においてこの自由を極限まで使用する詩人を、確実に裁きうる尺度を発見した」として、「その作品が冷たいものであり、空虚なものであれば、たちまちそれは、低俗で、下賎で、例外なく唾棄すべきものである。なぜならば、冷たく空虚であるというのは、単なる作意と卑俗な欲求から発生して、我々の欲情を刺激しようとする、度しがたい企みを抱くことを証明しているからである。これに反して、それが素朴で、精神を感情と結びつけていれば、たちまちそれは、美しく、崇高であって、冷淡な慎重派からいろいろ文句をつけられようとも、それにはいっさい無頓着に、喝采に値する」と断言して、さて直接その名をかかげることなく、ヴィーラントに関して、次ぎのように論じるのである。

  「ここにかかげた尺度に当てはめれば、この種のたいていのフランスの物語作品、およびドイツにおけるもっとも成功したその模倣作も、完全にこれに合格することはできないであろうし、――このことは部分的にはまた、我が国のもっとも優雅で、もっとも才知に富んだ詩人の多くの作品も、その傑作さえも例外でなく、免れぬ運命であろう、とそのように言われると、私はこれに対して何とも答えるすべを知らない」さらにその注釈で、あえてその全文を引用すると、実に詳細に、というよりは、くだくだと、自己の立場を説明するのである。「私が《アガトン》、《オーベロン》その他の不滅の著者をこの仲間に入れていても、私は彼を決してこの仲間と取り違えたわけではない。そのことははっきりと明言しておかねばならぬ。彼の叙述は、この方面から見てそのもっとも疑わしいものも、(新人の、いくらか思慮の浅い批評家が、最近そういう言い方をしたが)物質的な傾向を有していない。《恋また恋》やその他の多くの素朴で天才的で、そのいずれを見ても、美しい崇高な魂が鮮やかなすがたで映し出されている作品の著者が、そのような傾向を持つはずは断じてない。しかしながらどうも私には、彼はいとも奇妙な不運に取りつかれていて、そのような叙述が、詩作の腹案を立てるときに必然的に運命づけられているように思われる。つまり、腹案を立てた冷たい知性がそれを要求したのであって、彼の感情はといえば、どうも私には、殊更にそれを推し進めて、―― 実行の段階に至っても依然として冷たい知性が顔を出しているなどと、私などから暴露されたくはない、と願っていたように思われるのである。それに、この種の叙述を美的にも道徳的にも是認するのは素朴な感覚だけであるから、描写におけるこの冷たさこそが、作品批評の際に有害なのである。ところで、腹案を立てるときに、早くも実行段階でのこのような危険に身をさらすことが詩人に許されるのかどうか、そして、詩人ならびに読者の純潔な感情を傷つけることなしには、また、高尚な感情ならば遠ざかっていたいと望むような題材に読者を長く引き止めておくことなしには、実行されえないような腹案が、たとえ実行できたとしても、果たして詩的といえるかどうか、――これがまさしく私の疑うところであって、これについて私は、何とか気の利いた判断を聞きたいと願うものである」

一般的にこのシラーの文言は、美学的、文芸学的にヴィーラント批判の根底をなすものとされている。けれども、これほど晦渋なシラーの文言も珍しい。「不滅の著者」とたたえながら、すぐそのあとで「冷たい知性」の優勢を説き、この詩人の手になる文学について、非難されれば「答えるすべを知らず」、解釈を迫られれば「何とか気の利いた判断を聞きたいと願う」と言う。しかも、その前に引用したとおり、文学作品が「冷たいもの、空虚なもの」であれば、たちまちそれは「低俗で、下賎で、唾棄すべきもの」なのである。この文脈から見れば、ヴィーラントの文学はシラーによって否定されるしかない。にもかかわらず、シラーにとってヴィーラントは「もっとも優雅で、もっとも才知に富んだ詩人」、「不滅の著者」なのである。総じてこの箇所の文章は、曖昧模糊として、首尾一貫しない。大先輩、および大先輩のと親しいゲーテへの明瞭な遠慮があると思われる。現代における重要なヴィーラント研究家 H.W.ザイフェルト (Hans Werner Seiffert) は、従前このシラーの論説は具体的で論理的だと受け止められているけれども、果たしてそうであろうか、と疑問を投げかけている。この曖昧な、いわば下手なカムフラージュを施した誹謗文書のかげには、ヴィーラントとゲーテの親交を好ましからざるものと思う、シラーのルサンチマンが働いているのではないか、と言う10)。いずれにしても、この論述のヴィーラント攻撃はゲーテの気に入らなかったらしい。ゲーテはシラーに対して次のような申し入れをする。「情感詩人に関する論文を(印刷所から)取りもどしていただければ、もう一度読ませてもらいたいと思います。結末について未だ若干の懸念があって、心に忠告する声があれば、少なくともそれを黙っているべきではありません。全体が非常に広くひろがっているので、よくよく考察してみると、終わりは狭く、尖った道をたどるように思われます。そして、この尖ったところがちょうど私と私の古い友人の真ん中に突き刺さるので、本当に少々不安を感じざるをえないのです」(1795129) これに対してシラーは次のように答えている。「情感詩人に関する私の論文は......3週間前から印刷に付されていますが、結末については、ご心配には及びません。そのときまでに出来ていたものだけをお読みになったので、その上さらに8ページが、......加わっており、それで《ホーレン》第12巻が終わることになります。本来的な結末を迎えるのは、しかし、新年の第1巻です。あなたとヴィーラントはそういうわけで、まだ広いところに置かれているわけで、論文がきちんと完成したならば、全体の印象と論題に関する具体的興味が、いっさいの個人的関係を払拭してしまうでしょう」(同年12 13) これに関するゲーテの返事も見ておこう。「あの論文が、まさにあの問題的な注釈で終わらないならば、それだけ影響は少なくてすむでしょうが、さて結果がどうなるか、今後に待たねばなりません」(同年12 15日)待ち受けたその結果は、ドイツ文学史研究のうえで重いものであったと言わねばならない。シラーの釈明どおり、この論説はその『悲歌論』(Elegie)の末尾でさりげなく流されて、全体的な視野から見れば決してそれほど目立つものではないが、しかしシラーの見通しに反して、シラー自身も否定していない「個人的関係」を多分にはらんだこの論説が、そのままロマン派によるヴィーラント批判の火種となったのは事実である。ロマン派の論客A.W.シュレーゲル(A.W,Schlegel)は、つとにシラーの「盾持ちの小姓」(Schildknappe)と称され、主君の主張の発揚につとめたが、彼の提唱下に、やがてヴィーラントに対して「断罪」(Hinrichtung)と「無効宣言」(Annihilation が下されることになったのは、ドイツ文学史上、周知の事実に属する。当時もヴィーラントに関して好意的な記述を残している伝記作者、文学史家は決して少なかったとは言えないが、それらは主流とはなりえなかった。それらの一人、J.G.グルーバー(Johann Gottfried Gruber11は、「ヴィーラントはその国民を、底知れぬ道徳的堕落の深淵に引きずり込み、真理や徳には目もくれずに、公共の、また家庭の浄福の基盤を、その著作で蝕んだ」というのが、当時の支配的な判断であったと報告している。1830頃の状況に関してである。ドイツ文学ではその後、こうした見解をくつがえすに足る論説は、残念ながら20世紀の後半、第二次世界大戦のあとまで、絶えて訪れることはなかったのである。

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  しかし、我々がドイツ文学史を振り返る際、ヴィーラントに関して感じざるをえないこの種の痛みを、またしても和らげてくれるのはゲーテである。もっとも、先に暗示したとおり、ヴィーラントの晩年においては、ヴィーラントとゲーテの双方に、ある種の違和感が存在したことは事実である。シラーの死後、程なくゲーテの『ファウスト、第一部』(Faust.Erster Teil.1808)が世に問われる。そのころ、目まぐるしい世紀転換期をへて、時代は明らかに新しい段階にはいる。世に言う「ファウスト時代」( Dasfaustische Zeitalter)の到来であるが、それは老ヴィーラントにとって、まったく異質のものであったと言える。『ファウスト、第一部』を手に取って、愕然としたヴィーラントの様子か伝えられている。「このファウストは人間精神の極限であり、あらゆる文学作品の中で、もっとも神的で、人間的で、悪魔的である。(ゲーテという)新しいプロメテウスは、なんと奇妙に体を自由自在にくねらせて、我々にそういう曲芸を見せるのであろう。正直に言って、最近我々は、25年前にはそんなことがあろうとは夢にも考えられなかったような事柄を体験する」12) ゲーテの天才性と独創性を見抜くには十分の鑑識眼を備えていたけれども、この作品に接して、ヴィーラントの心は楽しまず、平穏ではなかった。彼は、時代の流れとともにゲーテが遠ざかるのを感じ、ゲーテのほうでも、もはや以前ほど、ヴィーラントとのあいだに親近感を感じなくなった。これほどの目ざましい変動を伴った時期における16才という年齢の差が生んだ、それはいわば当然の帰結であったと言える。それにもかかわらず、ゲーテは終生、ヴィーラントに敬意と友情を払うことを止めなかった。それは、ゲーテの個人的心情に発するというよりは、彼の公正な歴史観に由来するものと言うべきであった。そのころ、自伝『詩と真実』の執筆にたずさわっていたが、この仕事はゲーテに、すでに自分ともろもろの同時代人とを「歴史的に」(historisch)解釈することを要請したのである。やがて1813年、ヴィーラントの死に際して、フリーメーソン支部追悼会で捧げられたゲーテの弔辞(Logenrede)は、その間の事情をよく伝えている13)。ここでゲーテは、ヴィーラントにまつわる不協和音は、新旧二つの世界の衝突から出たことを確認して、次のように述べている。「文芸の世界には新しい時期が訪れたのである。この時期は、我々の友人と対立せざるをえず、我々の友人のほうでも、それと対立せざるをえなかった。この時から、我々の友人は、それに大いに動かされるということはなかったけれども、数多の不当な批判をこうむることになったが、私がこの事情にここではっきりと言及するのは、ここからドイツ文学の枠内に生じた軋轢は、未だに決して静まっておらず、緩和されてもいないからである」 ところで、この結論に至る前に、ゲーテは、ドイツ文学におけるこういう文学評価の問題に決定的な指針を与えたのはカント哲学であるとしているが、思想史的に見て、この関連にゲーテがこの時点ですでに触れているのは、注目すべきことである。ゲーテによれば、新しい時期の到来は「新しい哲学の流派」の台頭と一致するという。ヴィーラントはこれに反して、前世紀の文化、イギリス、フランス、さらにはギリシア、ローマの伝統の活発な継承者で、本来的に観念論的傾向からは遠い。そういう彼がカントの理論に対して「ある種の嫌悪を抱いたとしても、あながち悪く取るわけにはゆかないであろう」と、ゲーテはまずおだやかに言う。次いでゲーテは、いわゆる「精神的独裁者カント」(der geistige Diktator Kant)の学説に対する、ヴィーラントを代表とする後期啓蒙主義全体の恐怖、驚愕について語る。少し長いが、他にあまり紹介されることがないと思われるので、以下にほぼ全文を辿ることにする。「巨大な教義の殿堂が打ち立てられたとき、これまで自由な人生を送って、詩作にしろ、哲学にしろ、気さくに楽しんでいた者たちはすべて、威圧の城、監視の砦をそこに見る思いがして、経験の野を行く自分たちの快活な探訪の旅に、そこから制約が加えられるような気がしたのである。―― しかし、哲学者にとってばかりではなく、詩人にとっても、新しい精神の方向において、大勢がそれに引きずられて行くようになると、たちまち多くが、いや、すべてが、恐怖の種となった。というのも、当初はいかにも、意図はただ学問にだけ、次いで道徳論および最小限それに関連するものにだけ向けられているかのように見えたのであるが、それでも、学問的知識や道徳的行動というかねての懸案の問題を、従前行われていたよりも強固に根拠付けることが考えられ、これまでよりも一段と厳格で、一段と緊密なまとまりがあって、人間性の奥底から繰りひろげられて来たような判断がそこに求められと、趣味もまた、と私は言いたいのであるが、程なくそのような原則に従うように強いられて、その結果、個人的好み、偶然の教養、民族の固有性などは根こそぎ取り除き、これまでよりも一段と普遍的な法則を決定基準にかかげようとする動きが生まれて来ることは、容易に見て取れたからである」 つまり、観念論哲学によって新たな美的「決定基準」(Entscheidungsnorm)、すなわち従前とは別の文芸批評が生み出され、それが18世紀の趣味の文化を一掃するというのである。「実際にそのようになって、そして文芸の世界には新しい時期が訪れたのである」と、ゲーテは前に引用したくだりへと文をつなぐのである。ゲーテがカント哲学のドグマに対して拒否的であったこと、またその理由が何であったかということは、ここからもまたうかがえるのである。ところで、我々は先にシラーのヴィーラント批判を見たが、ゲーテはそれに先立つものとして、ここにカントの哲学を指摘しているのである。ゲーテはカントに対して陰に陽に批判的であったが14)、その点で、シラーがカントから多くを学んだのとは、対蹠的である。この関係を例えばザイフェルトは、次のように要約している。ゲーテ・シラーの往復書簡は「つねに繰り返し、(ヴィーラントに対し)シラーが攻撃的で、ゲーテが執り成し役であることを示している。シラーのカント哲学への移行、美的観念の定式化が、ヴィーラントに対して新しい態度をとることに、あずかって力があったのかもしれない。ゲーテはますますヴィーラントに味方するが、内的な同質性が、これには働いていたのかもしれない。―― ゲーテもヴィーラント同様、カント哲学の体系や用語には、ほとんど影響を受けることはなかった」15)  ゲーテとシラーとヴィーラントの三者の関係を理解するためには、ここに説かれるとおり、すべてを個人的な資質の差異に帰するのが、あるいはもっとも妥当で、分かりやすいかもしれない。

  ドイツ観念論、あるいはドイツ・ロマン派との関連で、もう一つ、是非とも触れておかねばならないことがあるが、それはヴィーラントの文学における「社会的機能」(gesellschaftliche Funktionen)の問題である。ゲーテはこの弔辞の中で、繰り返し社会人としてのヴィーラントの立場を論じ、彼は「本来大きな社会に生まれついた」人間であるとし、その社会のあらゆる事象によろこんで関与しようとし、そのすべてについて節度をもって語ろうとしたがゆえに、彼は「必然的にこころよい社会人たらざるをえなかったし、もっと軽やかで、およそ会話というものを何もかもあまりにも真面目に取りすぎない国民の中にいたのであれば、彼はもっとそうであったろう」と述べ、そういう彼の立場のよって来たる理由を、次のように説明している。「そもそも彼の詩的努力、および文学的努力は、直接、生に向けられていた。そして、彼は決してつねに実際的な目標を求めていたわけではなかったけれども、それでもつねに実際的な目標を、遠く近く目にしていた。それゆえに、彼の考えはいつも明瞭だったし、その表現ははっきりしていて、分かりやすかったのである。そして、広やかな知識を持っていたけれども、たえず日常の興味に踏みとどまり、それを追い、巧みにそれを扱ったので、彼の会話も、実に多彩で、活気があったのである」このような考え方を持った人間が、観念論哲学になじむはずがないと、ふたたびゲーテは言うのだが、この文学における社会性の問題に関しては、ドイツ近代文学における文学社会学研究の第一人者と目されるゼングレの見解が16)、適切かつ貴重であると思われる。ゼングレは最近の、直接このゲーテの弔辞を扱った論文(Goethes Nekrolog zu Wieland. 1989)の中で、次のように述べている。「啓蒙主義とロココにおいては、およそ古い時代には総じてそうであるように、文学は、その最上のものといえども、社会的機能を有している。このことは、現代文学のある種の側面に目を投じる場合、長所であると称賛することができる。今日でもなお連邦共和国で法的に保護されている(gesetzlich geschützt)、観念論の美的自律性の概念(der ästhetische Autonomiebegriff des Idealismus)とともに、社会および芸術にとって、危険な発展が導かれて来たのではなかったか。ゲーテもまたしばしば、世界文学の新しいアナーキーを嘆いている」17)  ヴィーラントの文学が今日において見直されるとすれば、それはまさに、人間の精神と文化の危機に関してであろう。

  かかる歴史の流れの中で、ヴィーラントが尊重され難くなった時期があるとしても、それでもかつて彼が、同胞に対して、多く語りかけることを持っていた時期が厳として存在したのである。ゲーテは読者に対するヴィーラントの影響の甚大であったことと、その反応として、そのころすでにドイツ文学に関する多くの著作で、彼のことが多大の敬意と理解をこめて語られていると述べ、さて、「彼がドイツ人に及ぼした影響はどこから来ているのであろうか」と問うて、次のように答えている。「それは彼の本性の有能さと率直さに由来するものである。人間と作家が彼においては渾然一体となっている。彼はまさに生きているものとして詩作し、詩作しつつ生きているのである。韻文でも、散文でも、瞬間に意識に上ったことを、そのつど心に浮かんだことを、決して隠すことがない。それゆえに、彼は批判しながら書き、書きながら批判するのである。その精神の豊かさから、その筆の豊かさが滲み出てくるのである」このような評価が下されうる作家というものは、もとより近年少なくなった。むしろ、そのような評価と裏腹のところに、すなわち、生から弧絶した美意識に徹するところに、美的存在としての芸術家の価値が認められるのが、近年の傾向であることは、すでに見て来たところからも明らかであろう。しかし、ゲーテみずからは、かかる評価が妥当する、数少ない例をなすものである。ヴィーラントに寄せるこの感慨は、同時に彼自身に寄せる思いであるかもしれない。一般にいま問題としている弔辞には、ヴィーラントに引き寄せて、みずからの立場を語っているところが多いのである。それはともかく、このような形で、人生と芸術の幸福な一致をヴィーラントに見ることは、現代において決して空しいことではない。現に、ゲーテにおいては好んでその証しを見ようとする人が数多いるのは、否定しえない事実である。ゲーテがヴィーラントに関して残した有名な言葉に、「彼に巨大な一等星として何千年のちに再会し、彼がその愛すべき光をもって、近づくもののすべてを元気づけるのを見ても」、それは自分の予想どおりで、いっこうに不思議に思わないだろう、というのが伝えられているが18)、これはヴィーラントの芸術の不滅性を、ふたたび自分の作品との関連においてであろうが、ゲーテもまた信じたかったことを意味している。しかし、ヴィーラントの作品の不滅性を信じることは、かつてヴィーラントの世界とともに沈んでしまったものを、人類がいま思い出すことにほかならない。それは、すべてを支配する理性、善意、精神の高貴、優雅な社交性といったものであって、我々が19世紀から20世紀にかけての、おそらくは本来の志向からはかけ離れた歴史的発展の中で、心ならずも置き去りにして来たもののすべてであろう。理念史的に総括的な言い方をすれば、それは「古典的ヒューマニズム」(der klassische Humanismus) という美しい概念でとらえることができるものであろう。それを思い起こすということは、ここでゼングレの決定的な言葉を引用すれば、「啓蒙主義に全世界文化における不滅の伝統という性格を付与する」ということである19)。この可能性を裏書きするように、戯れの言い方であれ、一等星の比喩でゲーテは将来を予見している。不滅性は神話の用語であろうが、神話の感傷性を脱して、現実の歴史の中でこの語の真なることが立証されて欲しいと、ゲーテにならって、後世のヴィーラント研究家は念願しているであろう。始めに述べたとおり、その数はきわめて少ないが、日本でも若干、その列に加わる者がいてもよいであろう。私がヴィーラントの作品に接し始めたのは30歳代の半ばであったが、それから30年以上もたって、ヴィーラントの作品の更なる翻訳や解説を老後の手すさびにと思い定めて、私は、ひそかに、ほくそ笑みつつ、そのように考えている。20)

  最後になお一言つけ加えれば、ヴィーラントには以上で触れてきた作品のほかに、彼の最高傑作であるとともに、ドイツ散文文学の白眉とも称すべき『アブデラの人びと』(Geschichte der Abde-
riten)
がある。ある識者によれば、ヴィーラントはむしろこの作品によってのみ、ドイツ文学史上に不朽の名を留めるべきであるといわれるほどであるが、ロココ風の機知とユーモアを満載したこの優雅で洒落た小説について、その当時の読者は、ゲーテも含めてどのような受け取り方をしたのか、19世紀の新文学との対比において、それはすこぶる興味ある問題である。これに関する資料は、当時の読書界が異種の作品に当惑して沈黙したためか、至って乏しいが、さいわいに私は、最近この作品の翻訳を完成したこともあって、今後その受容史を探ってみたいと思っている。思いがけない発見があるかと、期待している。
 



    

 1) Sengle, Friedrich, Wieland. Stuttgart 1949. 「ドイツ精神のゲルマン的転向」以来 (seit der germanischen Wendung des
    de
utschen Geistes)
は、ゼングレの研究姿勢の基本を示し、この書のキイ・ワードの一つである。

2) Vgl. Dilthey, Wilhelm, Friedrich Hölderlin. Der Roma Hyperion. In: Das Erlebnis und die Dichtung. Berlin 11905, S.392ff.  彼によれば、ヘルダーリンの「ヒューペリオンは、当時のドイツ人の精神の内面文化への志向から生まれた、教養小説に属する」(Der Hyperion gehort zu den Bildungsromanen, die aus der Richtung unseres damaligen Geistes auf innere Kultur hervorgegangen sind.) とされる。なお、一般にディルタイは教養小説なる概念の創始者とされるが、この語の人文主義的由来を考えた場合、当然それは正しくない。 (Vgl. Martini, Fritz, Der Bildungsroman. Zur Geschichte des Wortes und der Theorie. In: Deutsche Vierteljahresschrift 1, 1961, u.a.)

3) 以下の考察に関して、特に参考にした文献は、下記のとおりである。

Sengle, Fr., Wieland und Goethe. In: Vier Biberacher Vorträge. Wiesbaden 1954.
 Do., Goethes Nekrolog 'Zu brüderlichem Andenken Wielands’.  In: Neues zu Goethe. Stuttgart 1989.
 Seiffert, Hans Werner, Wieland und Wielandforschung. In: Vier Biberacher Vorträge. 

4) Oeser, Adam Friedrich, 1717-1799. 1764年以来ライプツィヒの美術学校長、1780年ヴァイマルへ移住したが、ゲーテはライプツィヒ時代から彼と親交があった。

5) アリストファネスの喜劇『蛙』の中に出て来る、有名な蛙の鳴き声。ドイツ語では "Wrekekex Koax Koax“ と表記され、日本語では、高津春繁氏(筑摩書房、世界古典文学全集)以来、ここに示すように訳出されている。

 6) Vgl. Goethes Werke. Hamaburger Ausgabe, Bd.4. 91978. Anmerkungern von Er. Trunz, S.638.

 7) Vgl. Sengle, Wieland. S.310f.; a.a.O., S.538, u.a.

 8) Vgl. Sengle, Wieland und Goethe. S.72, u.o.

 9) Schiller, Sämtliche Werke. (Reclam) Leipzig. Bd.3, S.332ff.

10) Seiffert, H.W., Wieland und Wielandforschung. S.84f.

11) Gruber, Johann Gottfried. "C.M.Wielands sämtliche Werke. 53Bde. (Göschen) Leipzig 1824-28“ の編纂者で、特にその最後の3巻には彼の手に成る "Wielands Leben (nebst seinem Portrait) mit Einschlus vieler noch ungedruckter Briefe Wielands“ が収められている。当時の重要なヴィーラント学者で、ザイフェルトによれば、のちのドイツ文学研究が、この著書から知識だけを受けとって、その意見を尊重しなかったのは残念とされる。なお、ゲーテは後述のヴィーラントに関する思い出の記の中で、「ドイツ文学に関する数多の著作において、彼 (ヴィーラント) のことは多大の敬意と理解をこめて語られている」と、もちろん贔屓めにではあろうが、当時の状況を述べ、代表として四人の名 (Kuttner, Eschenburg, Manso, Eichhorn)をあげている。

12) Vgl. Sengle, Wieland und Goethe. S.77.

13) Goethe, Weimarer Ausgabe, Bd.36, S.311-346. (Logenrede) Zu brüderlichem Andenken Wielands. 18.2.1813.
    ここに言うフリーメーソン支部は、太后妃アンナ・アマリア(Anna Amalia) の保護のもとに当時ヴァイマルに再開された、改革派の「アマリア支部」(Loge Amalia) のことである。ヴィーラントは太后妃との誼もあり、また老年の孤独と、周囲で高まるロマン派の批判からの避難所を、ここに求めたとされる。フリーメーソンにはまだ啓蒙主義が生きつづけていたからである。記録によると、ゲーテは支部長 (Bertuch) の依頼を快諾して、ヴィーラント追悼会のための弔辞を書いたという。

14) この点に関するもっとも重要な見解は、小説『ヴィルヘルム・マイスター』はカントの道徳論に対する「偉大な、もちろん暗黙の反論」であるとする、ルカーチの意見であろう。Vgl. Lukács, Georg, Wilhelm Meisters Lehrjahre. IN: Goethe und seine Zeit. Bern 1947, S.38f.

15) Seiffert, a.a.O., S.85.

16) この領域での彼の功績は、もっともよくその膨大なビーダーマイア研究に示されている。 Vgl. Sengle, Biedermeierzeit. 3Bd. Stuttgart 1971-80. 

17) Sengle, Goethes Nekrolog. S.168.

18) ヴィーラント愛好家のファルク (Johann Falk) との対話で、「世界単子」(Weltmonade) と「蟻単子」(Ameisenmonade) の対比で有名なものである。ヴィーラントを「世界単子」に見立て、さらに「一等星」(Stern erster Größe) に見立てて、その不滅性を論じているものである。ただし、ファルクの信憑性については、古くからゲーテ研究者のあいだで論争がある。

19) Sengle, Goethes Nekrolog. S.168. この言葉は同時に、ゼングレを含めて、啓蒙主義文学研究のモットーとなるべきものであろう。

20) 筆者がはじめてヴィーラントの作品に接したのは、1958年秋、フンボルト財団奨学生としてフライブルクに留学した際、そのもとで学んだ故 W. Rehm教授 (Prof. Walter Rehm) の指示によるものである。筆者はそのころから、教養小説を中心にドイツ長編小説の歴史と理論の研究を志していたが、そのためにはまずヴィーラントの『アガトン』を読むようにと促されたのである。以来35年。筆者の思いはバロックから現代へと駆けめぐったが、底流にはたえずヴィーラントへの関心があった。いまここに、ヴィーラントを追って筆者の歩んだ足跡を振り返っておくのも、あながち意味のないことではあるまい。
 ドイツ教養小説初期の展開 1961. 2. 人文研究XII. 2. 大阪市立大学文学会
  教養小説と発展小説 1963.12.  人文研究XIV,11. 大阪市立大学文学会
  ヴィーラント『アガトン物語』 ― 教養小説への道 
          「教養小説の展望と諸相」所収 
1977.7. しんせい会
  翻訳『アブデラの人びと』1993. 3.  三修社


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§この論文は、もともと筆者の関西学院大学定年退職記念号のために執筆されたものである。
  若干の誤植訂正を除いて、他に改変はない。
  初出:ドイツ文学語学研究34. S.9-33. 1993. 関西学院大学文学部ドイツ文学研究室

                                                                        (2005.03.02記)



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