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森の詩社・追録 義 則 孝 夫 その1: Hainbund とたばこ 「ヴィーラント・こぼれ話」の中で紹介した「ドイツ詩人の人生回顧録」で、次のような面白い記述に出くわした。たばこ についてである。...... たばこはその際に重要な役割を演じた。フォスはたばこに「パイプ火皿賛歌」(Ode an den Pfeifenkopf) を捧げ、ヘルティは「たばこのパイプ」(Tabakspfeife) を詠い、エヴァ ルトはある歌で、アポロンをさらに「たばこの神」(Tabaksgott) にまで祀り上げて、ア ポロンはこの高貴な葉を、「噛んだり、舐めたりして」、はかない人間の生命をペストか ら守るために、地上に茂らせたのだ、と言っている。 この記述において注目すべきことは、それだから、これらの熱血詩人たちがあの焚書事件の狂乱の夜に、ヴィーラントの書物を引きちぎって、パイプたばこの火つけ用のこよりを作ったのは、単なる思い付きや、面白半分からではなく、明瞭な意図があったということである。それはヴィーラントの文学に付着した毒素を払うという、彼らにとっては真剣な想念の発露であったのだろう。迂闊には笑えない喜劇である。 しかし、当時、たばこがペストの予防薬であるとは、ここではじめて知った。たばこが現在ほど害毒視されていなかった一昔前までも、たばこは健康に有害であるとは知られていても、逆に疫病の予防に役立つなどとは聞いたことがなかった。聞かされたのは、またもっぱら喫煙擁護説として吹聴されたのは、精神的癒しの効用であった。ひょっとすると、毒をもって毒を制すで、本当にたばこには、疫病駆逐の効果があるのかもしれない。古い歴史上のエピソードを探っていると、現在が古くなってしまった二三百年先の未来には、事柄の価値判断がどのように変わるか分からないという、そんな観想を禁じえないのである。なにを寝ぼけたことを言うかと、笑う人は、どうぞ二三百年生き延びて、人類史の行く先を見定めていただきたい。 その2: Hainbundの創設と綱領について 1) Hainbundという詩人集団が、果たしてどういういきさつを経て形成されたものであるか、ここで振り返っておくのも、ドイツ文学史記述の盲点を補う意味で、重要なことであろう。この点についても、従前は研究不足との反省は免れない。 この文学的集団の創設について、主要発起人であったVoßは、友人Brücknerにあてて、下記のように書き送っている。 すでに1772年夏には、機関誌 'Musenalmanach’の編集者として文学批評に世間的定評を得ていた Boieの呼びかけのもとに、青年詩人たちは、定期的に集会を持った。はじめは毎週日曜日、のちには土曜日午後にそれは開催されて、コーヒーとたばこを座右に、KlopstockとRammlerの詩を読み、次いで同人たちの作品を聞いて、たがいに批判を交わした。 そんな気運の熟したとき、Voßの提案で、次のような運びになったそうである。まさに熱気がひたひたと伝わってくるような筆致の報告である。 「おお、九月十二日(1772)、その日に是非、ここに集まって頂きたいものだ。...... (我々は)まだ宵の口に近郊の小村 (Göttingenの隣りのWehnde)に出かけた。その宵は ことのほかよく晴れわたっていて、月は満月であった。 我々は美しい自然の魅力に身も心もうっとりとなっていた。ある百姓屋でミルクを食し、 それから、戸外のひろ野へ出かけた。ここで小さなかしわの樹林を見つけて、期せず して全員の頭には、友情の絆をこの神聖な樹木の下で結ぼう、との考えが浮かんだ。 我々はかしわの葉を帽子に巻きつけ、それを木の下に置き、一同は互いに手を取り 合って、そのようにして取り巻いた幹のまわりを輪舞して、月と星とを、我々の絆の 証人にと請願し、互いに永遠の友情を誓い合った。次いで我々は、相互に我々の交わす 判断には最大限の誠意を傾注すること、そして、この最終目的のために、すでに慣例化 している集会を更に厳正かつ荘厳に実施すること、を相互の掟として、同盟を結んだ。 私は、籤引きで、筆頭者に選ばれた。各自、この宵を記念して詩を作ることになり、 この宵の行事を、毎年、くり返すことになった」 ここに掲げたVoßの記述について、R.C.Prutzは ”Göttinger Hainbund”に関する彼の論著の中で、まことに要を得た発言をしている。 「Voßの信頼の置ける描写に、我々は、Bundの根本要素を完全に一括して見ることがで きる。友情の熱狂、抽象的な自由愛、バルデンの伝承(そこから、帽子とかしわの木の 着想が出てくる)、そして、いわば全体の枠組みとしては、クライストの自然幻想、 それが感傷的な昂揚のすがたを取って、すでにここに、Siegward の先駆者のような 形で、月を証人にと呼びかけている」 ここでまた、急いで注釈をつけておく必要があるが、クライスト云々は、やや後代の鬼才 Heinrich von Kleist の思想と、その作中のシーンとを、すでにここに見ているのである。このように、従来の記述は、すべてをやや後のドイツ文学の黄金期、つまりヴァイマル古典主義の時代の文学現象に引き付けて考えて、それをここで引き合いに出されるのは、そういうドイツ文学史の記述の常套的手段に連なるものとして、あまり感心できないが、しかし、少なくとも、Hainbund の行状を文学史の流れの中で肯定的に捉えようとしているのは、歴史的観察としては、注目に値する。また古代ゲルマンの詩人と伝えられるバルデンの故事が引用されて、それが Bund の行動を、いわば古式ゆかしい神事に近い行事の一種に高めている。これらの青年たちの、現今の眼から見れば酔狂と映じることにも、正否は別として、真面目な思慮がはたらいていたのである。そのことを、この Prutz の文章は、我々に教えている。貴重な記述というべきであろうし、少なくとも、そのように位置づけることを、躊躇すべきではない。 2) さて、与えられた資料に基づいて話をすすめると、それから暫くたって、Hainbundは、しかし、ある決定的な方向を取ることになつた。それは Klopstockを一同の出発点、中心点に据えたことであった。これには、いろいろな会員がさまざまの関与の仕方をしたらしいが、ついには Voßまでが、”Messias”を読んだあとで、この詩人について、次のように書いている。 「おお、クロップシュトックというのは、なんという男だ。預言者、神の遣わす天使も、 このクロップシュトック以上に、人間の魂を刺し貫くことはできない」 同年秋には Grafen von Stolberg 兄弟がベルリンから参加して、同盟員には更に強烈な Klopstock 信奉者が増え、このようにして、崇拝する巨匠に対する熱狂は最高潮に達した。この詩人こそはまさに偉大なドイツの歌びとなのであって、その歌には、自由と、祖国と、ドイツの英雄精神とが反響している。一方、「ガリア人=フランス人」(Gallier)、特にVoltaireは、賭けてもいいが、必ず呪い殺してやる。この大詩人に反して、'Oberon’の作者である Wielandは、同盟員にとっては「道徳の紊乱者、裏切り者」と映ったのである。同盟の綱領は、「宗教、徳義、感性、純粋無垢の才知」をひろめる、という誓約から成り立っていたのである。─ そういう次第で、好んで彼らは、あらゆる機会を捉えて、'Messias’の詩人に寄せる感激を大声で、嵐のように、天下に轟かせた。同様に、Wieland に対する彼らの憎悪を、阿修羅のように、撒き散らしたのである。 そして、この事態の表明に、彼らはやがて絶好の機会を得ることになる。それは、翌1773年6月2日、クロップシュトックの49歳の誕生日であった。 その尊い祝日は、荘厳華麗に、Hainbund によって奉賀されることになった。そのいきさつは、すでにこの小評論の本文である「ヴイーラント・こぼれ話」中の「焚書事件」の項目で述べておいた通りであるから、くり返さないが、ドイツ文学史はこの奇態な事態を、たえず、真剣な省察を込めて、思い返すべきである。くどいようだが、人間精神の逸脱、暴走の歴史は、いつまでも消されてはならないからである。 その3: 森の詩社・後日談 以上の Hainbundの成立や運動についての報告は、一般には目新しいものも多く含まれていて、それだけでも、ここに改めて紹介する意義があると信じられるが、この雑誌の記者は、更に次のような、かなり長文の、そして気の利いた批評を、末尾に添えている。これも余さず、訳出しておきたいと思う。もはや、日本のゲルマニストで、このような故事に神経をそそぐ人も居ないだろうからである。だれかが、しかし、やっておかねばならないというのが、この種の営みに関する私の主張である。 ただ一つ、気をつけなければならないのは、この記事が、すでに報じたとおり、1860年に執筆されていることである。それは、Hainbund 自体が実在した時代から約100年近く経過していることになる。この時間の持つ意味は大きい。歴史的事態に対して客観的評価を下すには、十分にゆとりの持てる時間であり、また、文学批評の基礎理論や方法論も、ずいぶんと進展し得るだけの時間である。早い話が、日本で明治時代にゲルマニスティクが始まって以来、現在に至るまでと同じほどの時間的へだたりが、そこにはあることだ。だから、この程度のことは言えて当然とも言えるが、逆に言えば、それからまた150年近くたっているのに、Hainbund に関し、これに勝るほどの論説は、いまだに世に聞かれないのは怪訝である。学界の怠慢というほかないか、学界は、他の更なる重大にして深刻な事項で、多忙をきわめているのであろう。 では、前置きはさておき、本文を見ていただこう。 「何人かの会員たちが祖国や、おのれの奉じる愛国主義について、どれほど真面目 に考えていたとしても、この種の自由愛をもってしては、善事に役立つところは 乏しかった。それらは、幾ばくかの謳い文句や詩文をかかげれば、それで事成れり と信じた、非実際的な感情人間、夢想家にすぎなかった。すべての偉大なもの、 高貴なもの、崇高なものに対する感激を、人間の内部にまざまざと呼び起こす力を 備えた、あのシラーのような高らかな精神の昂揚は、彼らには完全に欠如していた。 仲間のもっとも主だった者ちでさえも、子供じみた、ほとんど笑止といえる事柄に 終始していた。フォスは語っている。〈我々三人(フォス、シュトルベルク、ハーン) は深夜まで私の部屋で灯りも点けずに歩きまわり、ドイツとクロップシュトックと 偉大な行為とについて語り、そして、純粋の感情を重んじないヴィーラントへの復讐 について、語った。ときまさに、雷雨が空にかかり、稲妻と雷鳴が、それでなくても 烈しく熱していた我々の会話をますます掻き立てて、我々はその瞬間、どれほど壮大 な行動に踏み出し得るか、ほとんど無我夢中の状態であった〉─ このようなセンチメンタルな感情の場面に、彼らは、みずからの掲げる祖国愛のみを 求め、実際的な努力については、まったく論ずるところがなかった。文芸そのものが、 彼らにとってはすでに行為だったのである。万事がそのようであったにもかかわらず、 現在、これらの理想主義の旗手たちの茫漠とした努力を、ある意味で尊重すべきもの と見なさなければならない。彼らの残した詩の中には、疑いもなく、祖国の再生、心情 の若返り、道義の究明と浄化、を目ざしてはたらき、そのようにして、悪徳と奴隷的 状況との濁流を堰き止めようという意図が、明らかに存在したのである。これらの心の 中で、彼らの歌は、実際また、神聖な炎を点じていたのであった」 ここでもまた、ご多分に漏れずシラーが引き合いに出されて、当時の政治文学的スローガンが掲げられる。ドイツ文学史記述の宿命であろうし、これが執筆された時代を思えば、容認すべきであろう。それよりも、フォスの記述は熱狂の実情を伝えて興味深いし、そのような熱狂に対する筆者の批判と、またその批判の陰にひそむ、一種微妙な共感、若い文学運動に関する、ある種のあたたかい理解を、快く読み取るべきであろう。そのような感想、もしくは提案をもって、Hainbund に関する長年の宿願であった、私の記述を終わることにしよう。 (2003年7月) *** 「焚書事件」へもどる *** *** ホームへもどる *** |