ヴィーラント・こぼれ話 (四題)                                                                                                      義  則  孝  夫


 Wielandstadt(ヴィーラントの市)と銘打った南独 Biberach にある Wieland-Museum(ヴィーラント博物館)とは仕事上緊密な関係があり、所長の Ottenbacher 女史とも親しくて、いろいろな資料を送ってもらったりしているが、最近届いた小冊子 “Wieland in Bildern”(絵で見るヴィーラント)の中に、なかなか面白い、というのは、ヴィーラント研究史の上で、はなはだ興味深い記事を見出したので、その若干を、軽い筆さばきで紹介してみたいと思う。
    
本来、これらは、すこぶる「重い」問題性を孕んでいる。いずれ、重い筆使いで、真剣に論ずるときが来るかもしれない。



その面影  焚書事件
検閲事件 告訴事件

その1:  ヴィーラントの面影、その生前と死後

                                   
 
眼の弱い方のためには、──実は私もその部類なのだが、──もう少し拡大してお見せしたほうが良いかもしれないが、それは各自のPCで自在に処理していただくとして、この図面では見えにくい、上方の肝心の書き込みだけ、下に改めて呈示することにする。いや、実に名言であり、ドイツの知的ジョークの傑作であろう。

                           In Deutschland haben wir ja ein ganz einfaches Mittel,
                            einen intelligenten Menschen zu erkennen.── :?──
                           
Wenn er Wieland liebt.   ARNO SCHMIDT   

このページをご覧の方は、ドイツ語に堪能な方ばかりとは限らないので、念のために訳すと、およそ次の通りであろう。

  
「ドイツではインテリジェンスのある人間を見分ける、ごく簡単な方法がある
    じゃないか」──
 「さて、何かなぁ?」──
  「ヴィーラントが好きであれば、いいだけさ」

筆者はArno Schmidt20世紀中葉に活躍した文筆家で、旺盛なイロニーとびっくりするような洒落を口にするが、残念ながら、というか、ご多分に漏れず、というか、ドイツ文学者の仲間で、その専門研究家というのは、私は知らない。物の言い方も奇抜だが、よりにもよってWielandをドイツ人の知性の目安とするというのでは、ドイツ的世界から白い眼で見られても仕方がない。生き永らえていられるだけ、まだ幸いだといえるかもしれない。

さて、肖像画の下に引用された Wieland 賛辞も、ついでに訳しておく必要があるだろう。あらかじめお断りしておくが、内容の正当性は別として、これは、いわばまあ、典型的な祝詞である。硬直した文体で、学校作文の見本のようなものであるが、くどいようだがくり返すと、その述べるところは、それだけいっそう、真理で固められているといえる。

   「我々が生きているこの現代が、ギリシャ人やローマ人の古典古代から離れているのと、
  ちょうど同じだけ未来に向かって離れている、そういう後代というものを考えてみる。
  何千年後のその時でも、最高の教養を積んだ最高に優雅な人間は、ヴァイマルとオス
  マンティヌムへ巡礼の旅をつづけるであろう。そして、このドイツ太古のアテネやティ

  ブールで、もろもろの回想にふけって感激し、もろもろの感情に胸をふるわすであろう。
  ......そして、そのとき、たとえヴァイマルやオスマンシュテットに残っているものが
  瓦礫ばかりであったとしても、それは大したことではないであろう。かつてここで生きて
  活動した精神は、この現世の土地を浄化し、まさに守護神として、幸福だった時代をいま
  に伝えて、そこに漂っている」
                                                                                             S.Ch.A..Lütkemüller, 1854

若干の補足説明が必要であろう。──Wieland は若い頃から、市街地を離れて、田園風の暮らしを好み、すでにBiberach在住時代にも、広い前庭付きの家、いわゆる Gartenhaus を借りて住んでいて、その跡がいまは Wieland-Museum の一部を成しているわけだが、Weimar に移り住んでからは、暮らしにゆとりも出来たからであろう、市から少し離れた Oßmannstedt という村に、かなり広大な別荘地を購入して、その地を愛して、その地に葬られた。上記の文中のヴァイマルとオスマンティヌムというのは、居住地のそのつながりを指しているのであって、オスマンティヌムというのはオスマンシュテットを、当文章の筆者がラテン語風にもじったものである。アテネとティブールというのも同じ関係で、こちらでは当然ギリシャを想定している。ギリシャ、ローマとドイツ古典主義の聖地、ヴァイマルとの類縁関係を、巧みに文中にはめ込んでいるのである。

ここへ来て、やはり Oßmannstedt Wieland の墓所を紹介しなければならないな、と考えた。はじめは予定していなかったのだが、文の流れとして、最後はこの「聖者」の永久の記念碑にご案内する。注目していただいて、深々と頭を下げるか、それとも、にこにこと笑いかけるか、それは読者のご自由である。── どちらでも、Wieland は莞爾とほほ笑むであろう。

                                     
                               ‘Wielands Grab im Oßmannstedter Park an der Ilm’
                        
(イルム河畔のオスマンシュテット公園内 ヴィーラントの墓)

最後に次の言葉に耳を傾けよう。筆者は先に述べた Arno Schmidt1958年の記述である。いっさいの衒いなく、Wieland への帰依が訴えられている。

            Es ist schon eines unserer Nationalheiligtümer, nach dem jeder einmal im Leben
             wallfahrten sollte...     Arno Schmidt, 1958

         「ここはすでに我が国の国民的聖地の一つである。だれもが一生に一度は、巡礼の
        旅をしなければならない...」





その2:
 ヴィーラントの作品の焚書事件


北方の詩聖  Klopstock(クロップシュトック) を師と仰ぐ、熱狂的な学生詩人の一団が、詩の誕生日の記念行事として、Wieland の著作を火刑に処したのは、ドイツ文学史上有名な話であるが、その深刻な意味合いは、くり返し吟味されねばならないであろう。

発祥地の名をとって der Göttinger Hainbund(ゲッティンゲンの森の詩社)と称されたその集団の所業を報じた、興味深い図と文とが紹介されていたので、次にお目にかけよう。

                             

前段は当書物の編集者の説明である。
    
     「ゲッティンゲンの森の詩社、1772年に創設された学生詩人の集団で、〈神のような〉
  クロップシュトックをひたすら崇拝して、
〈民族堕落の元凶〉ヴィーラントの著作を、
  〈
非ドイツ的〉で〈淫蕩〉であると断じて、焼き捨てた」

後段は、事件の様相を伝えた青年詩人の一人、J.H.Voß が、ある友人に宛てた手紙である。これは貴重な記録である。

   「クロップシュトックの誕生日を我々は盛大に祝った。長いテーブルにクロスが掛けられ、花が飾られ
  た。上座に空席のまま、クロップシュトックのために肘掛け椅子が据えられ、ばらとあらせいとうの花が
   撒き散ら
され、その上にクロップシュトックの全著作が載せられた。椅子の下にはヴィーラントの <イド
   リス> が、引き裂かれてころがっていた。そこで、クラーマーが勝利の歌の幾節かを、次いでハーンが
   ドイツを讃えたクロップシュトックの頌歌の数編を朗読した。それがすんでから、一同、コーヒーを飲ん
   だ。 ヴィーラントの著書から、パイプたばこの火付け用のこよりが作られた。ボイエはたばこを吸わな
   かったがやはり一つに火を点けて、引きちぎられた <イドリス> を踏みにじる役に出た。その後、......

   みんなで食事  をし、パンチを飲み、最後に、ヴィーラントの <イドリス  > と肖像とを、焼き払った」

取り急ぎ、ここで注釈を加えておかねばならないが、「イドリス」というのは、1768年出版のヴィーラント作の叙事詩「イドリスとツェニーデ」(Idris und Zenide) のことである。

さて、本書の注釈によると、引用した原画は G.K.Schweissinger という画家の手になるもので、画面上部の見出しは、少し読みづらいが、まず画集のタイトル、データの類が筆記体で書かれ、それにアンダーラインを付した下に、大きな文字と小さな文字とに別けて、画題が呈示されている。理解を助けるために、以下に、それを現代風の「キカイ文字」で再現してみよう。

  Aus der Gartenlaube   Nr,29   1860
               ― 453 ―
  Bilder aus dem Leben deutscher Dichter

            Nr.3  Hainbund

日本語で示せば、ほぼ次のようになろう。

 あずまや便り  29号 1860
            ―453頁―
    ドイツ詩人たちの人生回顧画集
         その
3. 森の詩社   


Wieland-Museum に詳細を問い合わせたところ、ていねいな返事をいただいたが、それによると、この画面は、1853-1937のあいだ、Berlin から発行されていた 'Die Gartenlaube. Illustriertes Familienblatt' (あずまや、絵入り家庭読物) に由来するもので、そこに一時期、ドイツの詩人たちの生活を回顧するシリーズが掲載され、1860年の第29号に、その第3番目の主題に選ばれたのが「森の詩社」で、この絵にはじまって、453-455の3ページにわたって、記述がある。当時の世相を勘案すると、ビーダーマイァー的な家庭的教養娯楽雑誌で、描いた画家は、画才はともかく、現在におよんで、なお、このとつ国で話題にされるとは、奇しき運命を担ったものである。

「森の詩社」というのは、Klopstock の Ode(頌歌) 'Der Hügel und der Hain' (丘と森)に因んで、同盟員の一人J.H.Voß によって名付けられた、少壮気鋭の詩人たちの集団であって、たいていは Göttingen 大学の学生であった。「森」というのは、ゲルマンの古代詩人と称されている 'Barden' の棲まう所であり、アポロンやミューズの女神たちの居場所とされる、ギリシャの「パルナスの丘」に対比されていたのである。

十数名がこの運動に加盟していたが、啓蒙主義の合理主義と社会的因習,ならびに外国の模範、特にフランスの影響からの文学の解放を目指し、代わって、空想と生命の躍動を、熱狂的に讃美した。そして、その模範となったのが、愛国的で、宗教的で、倫理的な理想が、曖昧模糊として溶け合わされていた Klopstock の作品だったのである。

もともと時流としての「多感主義」(Empfindsamkeit) に影響を受けて、彼ら青年たちの情調は、まことに、日本流に言うと「文学青年的情緒」に溢れていたらしい。 結盟の時、1772年9月12日の夜、ゲッティンゲンの街はずれの小さな森 ── つまり 'Hain' というのは神社の森のように小さな森であって、俗にドイツは森の国と言われるような、Schwarzwaldにひろがるような、広大な森林のことではない ──  に集まって、月光のもと、一本の「かしわの木」を囲んで、輪舞し、永遠の文学的友情を誓い合ったと言われる。かしわの木、というのは、またしても、天空に向かって真っ直ぐに立ち、質実剛健なドイツ的特性の象徴とされるのである。

いま、その場所へ行ってみると、広くもない草地の、確かに一本の木の下に、小さな山形の記念碑が立っている。まるで、ドイツ文学のつわもの共の夢の跡、の感じである。こういう彼らにとって、当然、ヴィーラントは不倶戴天の仇であった。 

なお、この件については、他の場合と同様に、このホームページ に収められている、当筆者の翻訳『アガトン物語』の「解説」を、併せて参照していただきたい。このような事件が、ドイツ文学、ひいてはドイツ民族の将来にとって、いかに忌まわしい結果をもたらしたか、想像に難くない。



その3: ヴィーラントの作品の検閲事件

Wieland  の代表作はいうでもなく『アガトン物語』(Geschichte des Agathon) であるが、その初版は1766/67年に、現在見られるその最終版のうち、第T部、第U部、および 第V部の冒頭の部分のみを加えて、一応完結、出版されたのである。したがって、もはや、このホームページ 'ty-library' を通じて作品に馴染んでいただいている読者諸氏には、ただちにお分かりいただけると思うが、全体のうちの第12巻までで、そのあとの「ダナエ物語」および「アルキュタス物語」はまだ誕生していなかったのである。つまり、この作品の主人公の人間的「完成」を祝うべき部分は、未だ完成されていなかったのである。くり返すようで恐縮だが、「ダナエ」についてはさらにほぼ6年後、「アルキュタス」に至っては、実にその後さらに20年余をへて、ようやく生み出されたのである。当筆者の主張であるので、もう何度も聞いたよ、と微笑される方も多いかも知れないいが、叙述の巧拙、つまり作品の面白さは別として、ダナエは「さかさまの美しい魂」、アルキュタスは実際、英知の結晶というべき、人類の究極的理想の化身であって、この両者によって、血の通った人間としての主人公アガトンは、少なくとも叙事的形姿としては、完成されるのである。

初版の段階ではそこまで至っていなかった。確かに、ヴィーラントは、この小説の構想の最初から、アルキュタスの形姿を全編の冠として最後に掲げることを、明言しているけれども、そして、それだからこそ、はるか後年になって、ついにその約束を果たし、ある意味でその事実によって、ドイツ文学史上に実に貴重な記念碑を打ち立てたのである。しかし、ハインブント によって著作が火刑に処せられたような当時、だれがそのような遠大な見透しを持っていたであろうか。

この事態について、目下紹介している小冊子『絵で見るヴィーラント』に貴重な図版とコメントを発見したので、是非ともここでご覧いただいて、文学と政治のあり方について、いっとき、思案を凝らしていただきたい。

                                    

まず下のコメントの中には、この作品に関する有名な Lessing の褒め言葉が引用されている。それを一応、日本語で示すことにしよう。

  「物を考える頭を持った人間にとっては、古典的趣味に富み、これは最初にして唯一の小説である」


小説という文学ジャンルが、特にドイツにおいては軽視される段階にあった時期には、またまたハインブントの児戯に類した反撃と比較してみても、レッシングの賛辞は、むしろ驚嘆に値すると思われるほどのものである。自分の創作とは無縁であった小説 (Roman) というものに関しても、これだけの理解が示せるのは、彼の批評精神の健全さを証明するものであろう。

このレッシングの言葉に先立っては「この小説はドイツ文学における最初の教育または発展小説と目されている」と、まあありきたりの注釈が付されている。それはそれでいいとして、問題はその後の注釈である。その小説が、検閲に引っかかったという事実の報告で、まさかと思える本当の話である。文字通りに訳そう。

  「チューリヒの検閲規定に抵触して、初版(1766/67)は匿名で Orell-Geßner-Cieの出版社から、
    Frankfurt と Leipzig という両見本市の地名を掲げたが、印刷場所および出版社名の記載なしに、
    出版された」

上掲の図面のアガトン初版本の表紙から、その事実を目撃することが出来る。いささかのっぺらぼうに見えるこのタイトルページには、表題の「アガトン物語」、下にホラティウスのモットー、次いで「第一部」、横線で区切って「フランクフルトとライプチッヒ 1766」という記載があるばかりである。

並んで呈示されている銅版画は1794年のものであることが知られるが、おそらくその年になって始めて、このような挿絵を添えることが許可されたのであろう。理由はいまのところ私には分からない。ふと思いついたのは、フランス革命の後ということでもあったが、それよりも、この時点では、第2稿のダナエ物語はすでに書かれており、第T部の遊女オンリイのタナエは「美しい魂」としての、作品上の本来の機能を明瞭にし、名誉挽回を果たしていたのかも知れない。あるいは、Sturm und Drang の嵐も吹きすさび、ゲーテの「ヴェルター」も世間を騒がせて、ほぼ30年の時間は、文学受容面でも、あるいは大きな影響力を持っていたのかもしれない。考えれば、なにかと首をかしげる点も多いが、「物事を考えようとする頭の持ち主」には、興味の深い事象であることは、間違いない。

このタイトルページの銅版画として紹介されている場面は、題が「ヒッピアス」、踊っている美女はダナエで、ヒッピアスのそば近く侍っている美青年が、アガトンであろう。どうしてまたこのような一見「淫奔な」絵が、表紙トップを飾っていたのか、それも分からないが、ともかく、おもしろい。ヴァイマル宮廷におけるヴィーラントの知名度も高まり、それと共に、彼の文名も定まって来たのかもしれない。

いろいろ考えると、面白いが、ここではこの重要作品の初版が、検閲に引っかかったという、意外な事実を認識することが大切である。古来、文学作品が政治的理由から、焼かれたり、禁書になったり、弾圧の対象になることは稀ではない。ハインブントの暴虐も、その後の革命的青年運動を顧慮すると、単なる文学趣向の問題ではなく、絶対に、政治とは無関係とは言えないのである。この点、くれぐれも留意すべきであろう。

その4: ヴィーラントの作品の告訴事件

Wieland の著作に対しては、周知のとおり、Hainbund による焚書事件が惹き起こされてから約四半世紀後に、新世代の強力な文学運動、つまりドイツ・ロマン派による、決定的な弾劾が行われた。その影響は甚大で、その後長らくドイツ文学史における Wieland 評価の規範となった。学問と読書界がその束縛から脱却できたのは、ようやく二十世紀の中頃、第二次世界大戦が終わってからである。

このことは、私もまた諸方で述べているので、すでにご理解の向きも多いかと思う。つまり「あらゆるものの価値転換」が、当時、行われ、ドイツ文学の世界でも、それは例外ではなかったのである。

その Wieland 否定の口火を切った文書が、同じくこの小冊子に掲載されているので、改めてここに紹介したい。告訴文が載ったロマン派の機関誌 "Athenäum" の初版オリジナルを目にするのは、実は私も今回が初めてであった。勿論、リプリント版では早くから見ていて、当該の告訴文は、全3巻からなるこの機関誌の、第2巻第2部の末尾に仰々しく、'Literarischer Reichsanzeiger'(文学帝国公報)と呼称した欄に告示されている。

まずは当小冊子の図版のコピーを下にお見せしよう。

                                                              


申し上げるまでもなかろうが、左半分が初版雑誌の表紙、右側は、編者によるそれの説明である。念のため、更に私の説明を付け加えよう。右半分の意味するところは、次のとおりである。

   兄の August Wilhelm Schlegel(1767-1845)と弟の Friedrich Schlegel(1772-1829) の雑誌
      『アテネウム』 (第2巻第2部、1779年) における、ラテン語で公的召喚と銘打った文書。
  
     兄弟が「公的召喚」と称するものは、Wieland の著作に対する初期ロマン派の「評決」であって、
      そこで 「模倣、独創性の欠如、剽窃」の罪が提起されて、Wieland の名声を傷つけ、遠く20世紀
      に及ぶまで、彼の作品の売れ行き、ならびに普及と効果とを損じた。


次いでその告知文の本文をお見せするが、通常のリプリント版ではお目にかかれない、通人にとっては陶然とするような、雅趣豊かな、いにしえの活字である。その分、しかし、今どきの人にはいっそう読みづらいであろう。なにしろ現代のゲルマニストは、通常の Fraktur さえ、ろくに解読できないのだから。おまけにここでは、法定用語に似せて、わざとややこしい文章が綴られている。文字が読めたとしても、文意を解することは、ほとんど大部分の日本人ドイツ語学者には無理であろう。これを読み解くには特殊な語学的知識が必要である。そのような勉学を積んでいる人は、かなり年輩の人々の中でも、まず、きわめて稀であろう。

そういうわけだから、次には、まず、この亀甲文字を通常のラテン文字に置き換え、その上で、それらを然るべき日本語に移してみよう。

                 

       
                                       Citatio edictalis.

              Nachdem über die Poesie des Hofrath und Comes Palatinus Caelareus  Wieland in Weimar,
              auf Ansuchen der Herren  Lucian,  Fielding,  Sterne,  Bayle,  Voltaire,  Crebillon, 
              Hamilton und vieler andern Autoren Concursus Creditorum  er
öffnet,  auch in der Masse
             mehreres verd
ächtige  und dem Anschein nach dem Horatius,  Ariosto,  Cervantes  und
             Shakespeare  zustehendes Eigenthum sich vorgefunden; als wird jeder,  der
 ähnliche
            Anspr
üche  titulo legitimo  machen kann,  hiedurch  vorgeladen, sich binnen Sächsischer
             Frist zu melden,  hernachmals  aber zu schweigen.


                              公的召喚

     ヴァイマルの宮廷顧問官にして宮中伯なるヴィーラントの作品に関しては、ルキアノス、
   フィールディング、スターン、ベル、ヴォルテール、クレビヨン、ハミルトン、その他
   多数の作者諸氏の請願により
債権者の競合が開かれたが、更にまた多量に及び、
   幾多の疑わしく、一見ホラティウス、アリオスト、セルヴァンテス、シェイクスピアの
   所有にかかると見受けられるものが見出されたので、類似の請求を
合法的形式において
   行使しうるすべての者は、ザクセン法に規定する期日以内に申し出で、事後の異議申し立て
   はしないように、ここに召喚される。


          注  1) ザクセン法では6週間と3日、つまり45日と定められている。
           2) 本文中のラテン語により記述されている法定用語は、理解を助けるためにイタリックで
             記載し、訳文においては
〈 〉でくくってある。


この文章を読み解くにあたって、もっとも注意しなければならないのは、接続詞 'nachdem 〜,als 〜' の用法である。 Frühneuhochdeutsch の素養のある人には、それほど理解が困難なわけではないが、近代のドイツ語のみに親しんでいる人には、なんとも理解に苦しむ語法である。ここでは接続詞 'nachdem' は 'temporal'(時間的)な意味に用いられているのではなく、'kausal'(因由)の意味で用いられていること、そして、主文の先頭に置かれている接続詞 'als' は、語形はいまと同じ 'als' であっても、いまと同じ意味では全然なくて、'also'、つまり 'so' の強調形であること、を理解しなければならない。私が言ってもなかなか信用してもらえないだろうから、権威ある辞書、もちろんドイツ版のそれを、例証のために引用しよう。

      * 'wo als im Nachsatz erscheint, hat es die Bedeutung von ita, goth.sve,
       nicht von wie, goth.sva, und wird heutzutage entweder durch bloßes so
       ausgedrückt oder ganz unausgedrückt gelassen,......'     (Grimm)

      * 'Grund und Folge bezeichnend:......nachdem im vorangehenden Nebensatz,
       der folgende Hauptsatz mit als beginnend,......'      (Heyne)

さしずめこの二つで十分であろう。念のため、日本語の説明を添えておこう。

   
「'als' が後続文で現れる場合には、それはラテン語の 'ita'、ゴート語の 'sve' の意味を有し,......
         今日では単なる 'so' によって表現されるか、それとも全く表現されないで置かれる」  (Grimm)

   
      
「原因と結果とを示す。...... 先行する副文に 'nachdem' があれば、後続の主文は 'als' で開始
         される」  (Heyne) 


そして、注目すべきは、そのいずれもが、上記の説明に続いて、次のように注釈を加えていることである。

      * '(es)...... klingt uns steif und canzleimäßig: ......'  (Grimm)
      * 'gern in älterer Kanzleispr., ......'  (Heyne)

つまり「堅苦しい官庁用語風に聞こえる」(Grimm)、「一昔前の官庁用語で好んで用いられる」(Heyne)、と言っているわけである。

したがって、これは、この文書が出た当時の通常の文体からもかなり離れて、故意に古めかしい調子をひびかせたと言えるであろうが、その理由は、ひとえに Wieland 老人に対する当てこすりであったとしか考えられない。人も知るとおり、Wieland は終生を通じて、ギリシア、ローマの古典古代の熱烈な讃美者であり、また、近代では、特にイギリス、またフランスの優良な文学の友であった。ドイツの過去に栄光を求めようとするロマン派詩人軍団とは、掲げる旗印が違ったのである。

ロマン派とヴィーラントの関係というのは、にべもない拒絶、断罪と無効宣言というように、あっさりと片づけられて、私も便宜的にはそのように処理することが多く、また表面的にはそれが史実としても疑念の余地がないので、なかなか反論は出しにくいのであるが、しかし私は、一般の通説の裏には隠された秘密があるのではないかと、かねがね、ひそかに考えている。ハインブントの若輩どもとは異なって、Schlegel 兄弟ほどの学識と、文芸に関する鋭い知見とを有していた人物たちが、立場こそ違え、Wieland の文学の貴重な意義を理解し得なかったとは、どうにも考えられないのである。彼らにはそれが分かりすぎるほどに分かっていたから、なおさら、それを拒否する必要があったのではなかったか。......

ゲーテの Wieland を悼む言葉がここでも思い出されねばならないが、新しい世界と古い世界
との対立、当時のヨーロッパ全土を揺さぶった「若いヨーロッパ」の運動、「若いドイツ」(Junges Deutschland) と言われるものも、またそのひとつであった、そういう新しい時代の
動きが、Wieland に対して烈しく打ち寄せたのではなかったか。

私は更に具体的な資料を求めて、懸命にロマン派の著作から Wieland 批判の証拠を探したのだが、これが意外と見つからないのである。あるいは、我田引水となって恐縮ではあるが、「ヴィーラントとドイツ・ロマン派」、これは「グリンメルスハウゼンとドイツ・ロマン派」と同じく、私には、尽きせぬ学問的興味を提供してくれる課題である。いつの日か、それが果たせることがあるかと、長年、変わらず念願しつつ、次第に齢を重ねている。もとより、この関心が、日本におけるゲルマニスティク批判に連なっていることは、改めて断るまでもないであろう。

                                    (2003.05.17)

          * Mit freundlicher Genehmigung zu allen Fotokopien
            vom "Wieland-Museum" in Biberach/Riß




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