ヴィーラント作
 
  アガトン物語

             
       
 義 則 孝 夫 訳     
                                                                                 






                第1版に寄せる前書き







 当物語の編者は、この物語が事実古いギリシアの書き物から抜き出されたのであると言っても、またこの点に関しては全然何も述べないで、読み手にまかせて好きなように考えてもらうのがいちばんよいと信じていると言っても、どっちみち、読者を説得できる公算はあまりないと思っている。

 
 むかし実際にアガトンなる人物が生きていたと仮定して、さてこのアガトンについては、普通あらゆる凡人の履歴の中身をなすもの以上に重要なことが何も伝えられていないとすれば、たとえその物語が、古代アテネの古文書室で発見されたことが法的に立証されるとしても、どうして我々が、その物語を読もうなどという気になるものか。

 
 ここに好事家の皆さんにお目にかけようというような作品から要求しうる真実は、以下の点に存している。すなわち、すべてが世の中の歩みと一致すること、登場人物は作者の空想や思惑から勝手に栫えられたものではなくて、ほかならぬ自然の無尽蔵の蓄えからとり出されたものであること、その人物の人生が開けてゆくあいだの、内的可能性および対外的可能性やら、人間的な心のあり方やら、もろもろの情熱やらを、各人の個人的性格と種々の事情とによってそれらが帯びる特殊の色合いとニュアンスとを余すところなくもり込んで、精いっぱい精密に保持すること、物語が演じられる土地、所、時の特性を決して見失わないこと、そして、つまるところは、物語られるとおりに事が起こらなかったとすれば、それはどうにも腑に落ちかねるという具合に、すべてが創作されることである。この真実こそが、人間のことを記述する本を有益ならしめるのであって、この真実を、まさに編者はアガトンの物語の読者に約束しようと志しているのである。


 編者の主眼は、詳細に知る価値がある一人の人物を、とりどりの光にあてて四方八方から読者に知らしめたいということであった。編者の選択を受けた人物よりも、もっと重要な者がいることは疑いない。けれども編者は、妄想の化け物を真実と称して世間に売りつけるような真似は絶対にしたくなかったので、もっとも詳細に近づきになる機縁にめぐまれた人物を選んだのである。この理由から編者は、アガトンおよびアガトンの物語におり込まれたその他のたいていの人間はほんとうの人間である、そして(副次的な事情とか、偶然の出来事の結果の思いがけない成り行きとか、そのほか単に恣意的な装飾に属するようなことは除いて)、物語の核心をなすいっさいは、歴史の父なるヘロドトスの9人のミューズの女神か、リウィウスのローマ史か、イェズス会士ダニエルのフランス史とまさに同じくらい歴史的に正確か、ひょっとするとさらに何層倍も正確であると、まったく確信をもって保証することができる。1)

  
  現実の生においてはしばしば、突拍子もない頭脳が狂って編み出すようなものよりも、はるかにもっとありそうにない物事に出くわすというのは、よく知られたことである。それゆえに、この小説の主人公と同様にかつて何者かが考え、あるいは行動したということが、ときおりはありそうにないと思われるからといって、主人公の人物が真実であるかどうかは疑わしいと称するのは、すこぶる性急であろう。けれども、人間というものが、アガトンが幼少のころから置かれていたような特殊な境遇のもとで、アガトンと同様に考えたり、あるいは行動したりするはずがないとか、あるいは少なくとも、手品か魔法を使わなければそんなことはできるはずがなかったのだ、と証明するのは、おそらく金輪際、絶対に不可能であろうから、だから筆者は、当然、アガトンがほんとうにこのように考えた、あるいは行動したと確信をもって保証したら、筆者のその言葉を信じていただけると、そう期待してよいと信じている。幸いなことに、信憑性の高い歴史家連を引き合いに出すまでもなく、プルタルコス
2) の伝記ひとつを取ってみても、この小説の主人公がその人生のあれこれの機会にそうであるように、人間は気高く、道義的で、節度をわきまえながら、しかも(ヒッピアスおよびその種族の優勢な一門の人間の言葉をもって語れば)、奇抜で、頑固で、愚かであるという、そういうことがありうるという事例には、事欠かないのである。


  どうしてアガトンから完全な有徳の士のモデルを作り出さなかったのか、当作品のあちこちの箇所にその理由がかかげられている。それは根本的には、なぜアリストテレスが悲劇の主人公に人間の性質のあらゆる弱点や欠点から免がれさせることを欲しないのかというのと、同じ理由である。3) この世は倫理学の事細かな教科書でいっぱいなのであるから、揺籃から墓場まで、人生のありとあらゆる事態や状況に応じて、常時しかも完全に、道徳そのもののように感じ、かつ振るまう人間をひねり出すのは、だれにも自由である。(おまけに、これ以上簡単なことはない。) けれどもアガトンが、多くの人がおのれ自身の姿と、人間の本性の主たる特徴のすべてをそこに認めようとする、真実の人間の写し絵であるためには、(確信をもってそう主張するが)、実際にそうである以上に道徳的に表示されてはならない。そして、もしもだれかがこの点で意見を異にするというのであれば、どうぞその御仁に、自然の流れに即して生まれて来たすべての者の中で、似たような境遇に育って他もすべて似たりよったりであるならば、アガトンよりも道徳的であった者の名を、挙げていただきたいのである。
 
  次のようなことはあるかもしれない。つまり、アガトンなる人物が恋とダナエなる遊女の誘惑についにはおちいるのを見て、どこかの若い怠け者が、ローマの喜劇作者テレンティウス4) 叙するところの青年ケレアが神々の父なるゼウスの悪遊びのひとつを描いた絵の真似をしたのと、まさに軌を一にして、その真似をしようとすることである。そのような男は、これほどの大物の人間でも他愛なく恋におぼれたのを、さぞかし大よろこびで読むことであろうが、だからといって、「小物の人間である私が、そうしてはいけないだろうか。とんでもない。私はするぞ。大いにするぞ5)」などと、ひとり気炎をあげていただくのは、おすすめしたくない。同様に、次のようなこともあるかもしれない。根性の悪い人間、もしくは卑劣な人間がソフィストのヒッピアスの弁論を読んで、おのれの無信仰と罪深い生活がそこで肯定されるのを見出す、などと思い込むことである。けれども、まっとうな性根の人たちは、この卑劣な者も、先に述べた無思慮な者も、アガトンの物語がこの世になかったとしても、卑劣であったり無思慮であったりすることに変わりはなかったろうと、全員、そのように納得してくださるであろう。


  この最後の例から、どうしても次の説明へと向かわなければならないが、それは、けなげな意志はあるが、物を見抜く力は劣るという、ある種の心根のよい人たちの弱点を補い、その人たちが早とちりから憤慨したり、誤った判断を下したりしないようにするために、是非とも必要と考えるのである。


  その説明とはつまり、この物語にソフィストのヒッピアスを導入したこと、および、若いアガトンをその愛すべき熱狂から冷めさせて、世の中で幸福を得るにはそのほうが適していると(これには理由がなくもない)みずからが見なしている考え方へみちびこうとして、ヒッピアスが話して聞かせる弁論に関するものである。健康な目でまともに前を見すえる人たちは、警告されずとも、この作品の全体の関連と、作中であらゆる機会をとらえてこのソフィストとそれが説く原理について語られる、その語り方から、筆者がこの男とこの学説に共鳴するところがいかに乏しいか、いとも明瞭に見抜いてしまうことであろう。割のいい聖職禄をせしめようと枢機卿会議に自分を売りこむべく、若い候補者が躍起となって、イギリスの自由思想家ティンダルやボリングブロークの徒輩6) を向こうにまわして論戦を挑むときの勢いよろしく、我武者羅にこの男をののしったりすれば、この本の調子ならびに意図にとって絶対にふさわしくはなかったであろうと思って控えたが、それでも筆者は、理知的で几帳面な読者にあっては露ほどの疑念も残さずに、筆者がヒッピアスを邪悪で危険な男と見なし、その学説を(それが宗教と正義の真の原則に反するかぎりは)、もしも人類の過半数がそれに巻き込まれるようなことが道義的に見て可能であるならば、人間社会全体を潰滅させてしまいかねない虚偽のかたまりであると見なしていることがここに明らかにされたと、そのように念じている。したがって筆者は、この点に関しては、いっさいの嫌疑を免れているものと信じている。しかしながら、この本の読者の中には、少なくとも慎重さが欠けるとして筆者をなじり、このヒッピアスを全然作中に導入しないか、もしも作品のプランがどうしてもそれを要求したのであるならば、少なくともその教理を徹底的に論破すべきであったと、ひょっとするとそのように考える人が、少しはいるかもしれない。そこで、その人たちに、なぜはじめに述べたことが起こり、あとに述べたことが行われなかったのか、その理由を告げるのが、至当と思われるのである。


  プランによれば、アガトンの性格はいろいろの試練にかけられて、それによってその考え方と徳とが純化され、その中にあって不純だったものは、次第次第に純金から分離されることになっていたから、ヒッピアス7) は歴史上実在の人物であって、同時代の他のソフィスト連中とともに、ギリシア人のあいだで倫理の腐敗にすこぶる大きく寄与しただけに、アガトンをこの試練にも耐えさせることが、いっそう必要だったのである。おまけにヒッピアスは、主人公の性格と原理とを、主人公とのあいだに作り出すコントラストによって、いっそう明白な光に当てることに役立っている。そして、いわゆる大きな世界を形作っている者の大部分が、ヒッピアスのように考えるか、あるいは少なくとも彼の原理にしたがって行動することは、確かすぎるほど確かなことと思われるので、世の中の実際との然るべきつながりをあたえられるとこの原理がどういう効力を発揮するのか、それを示すことは、この作品の道徳的な意図に即していたのである。


 ヒッピアスの原理において間違いであり、危険であるものを、(というのも、実際にその説くところはいつも正しくないとは言えないからであるが)、徹底的に論破することは、この作品のプランからすればほんのお添えものにすぎなかったであろうし、読者のことを顧慮してさえも、蛇足にすぎぬと思われたのである。ヒッピアスにアガトンがあたえる返答が、実際にそれに対して言いうる最善のことを含んでいるのみならず、本全体がまた、それの論破と見なされうるからである。 アガトンはヒッピアスを、ちょうど運動が存在することを否定した形而上学者をディオゲネス8) がやり込めたのに近い方法で、やり込める。形而上学者は概念弁別と結論をつらねて証明してみせた。ディオゲネスは一言も喋らず、さっさと立ち去ることで、相手をやり込めたのである。これこそはまぎれもなく、変わり者のディオゲネスがあたえるのにふさわしい、唯一の返答だったのである。
 





1) ヘロドトス Herodotos (ca.424 B.C.没 ) ギリシアの歴史家。世に〈歴史の父〉と言われる。 紀元49年までのギリシア史を記した彼の著書は9巻に分かれ、その各巻には9人のミュ ーズの女神の名が冠せられてる。 --- リウィウス Titus Livius (59 B.C.-A.D.17)  ローマの 歴史家。 --- ダニエル Gabriel Daniel (1649-1728) フランスの歴史家。 主著『フランス 史』Histoire de France(1713)



2) プルタルコス Plutarcos (ca.A.D.50-120) ギリシアのプラトン派の哲人、伝記作者、 随筆家。 その邦訳『英雄伝』によりわが国にもよく知られているが、この著はもともと、 主としてギリシアとローマの偉人の伝記を対にして対照させたもので、原題は『対比列伝』Vitae Paralleraeと呼ばれる。


3) アリストテレス Aristoteles (384-322 B.C.) その『詩学』Poietice 13,5 にこれに関する記述がある。


4) テレンティウス Publius Terentius (159 B.C.没) ローマの喜劇作者。その作品『宦官』 EunuchusV,6, 36ff.で、主人公の青年ケレアは、ダナエがゼウスに魅惑されるのを見て、 自分もゼウスと同じように、どこかの家に忍び込んで、むすめを誘惑してもよいと、勘違いする。


5) テレンティウスの上記作品からの引用。


6) ティンダル Mattew Tindal (1657-1733)--- ボーリングブロック Henry St.John, Graf Bolingbroke (1678-1751)  いずれもイギリスの政治家、著述家、自由思想家


7) ヒッピアス Hippias 前5世紀 生没年不祥、エリス出身。 抜群の博識と、文学や音律の豊かな才があった。 万能的ソフィストとして、後述のとおり、プラトンの対話編『プロタゴラス』Protagoras および『ヒッピアス(大・小2編)』Hippiasで登場する。 外交使節としても手腕を発揮した。


8) ディオゲネス Diogenes (ca.412-323 B.C.) シノーペ出身、変わり者の哲学者として知られる。 この逸話は、ヴィーラントが好んで引用した、フランスの多才な批評家で博学者であるベル Pierre Bayle (1647-1706) の『歴史批判事典』Dictionnaire historique et critique (1697) に拠っている。





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