この書は、おそらく私の有する古書の中で、もっとも値打ちのあるものであろう。と言っても、それはもっとも世俗的な意味で、古本屋に出せば、もっとも高価に売れるだろうということである。保存状態もそう悪くはないし、谷崎好みの、昔の贅沢本の面影を偲ばせるに十分な、風情を持っている。発行年月を見れば、昭和十八年四月で、あの、日本が断末魔に迫った昭和十九年とは、僅か一年の差で、まだ、出版界にもいくばくかの余裕があったことが判明する。のちに、例によって奥付の図示によって、そのあたりの事情も、精しくご覧に供しよう。 上図、左側は、上等の薄手の和紙に凝った文字と枠線の図案が印刷された、本の上に被せる折り込みカバーである。その下方に、意味ありげに透いて見える紋様があるので、もろい紙質のカバーをおそるおそる剥がしてみると、右側に掲げてあるような、小粋な図柄の本そのものの表紙があらわれた。左に茶色の短冊形の中に本の表題が書き込まれ、右下に、歌舞伎の小道具のような、書き物机、脇息、物入れ、それに座布団が描かれている。この書の表題は「初昔 きのふけふ」であるが、身辺雑記の随筆二篇である。取り急ぎ、この平仮名のほうの読みを説明しておくことが、当今の読者には必要であろうが、今様の書法に直すと、「きのうきょう」、つまり、漢字で書けば「昨日今日」である。著者にとって、比較的リアルタイム的な随筆で、谷崎さんにしては珍しい制作ジャンルに属する、日記風のエッセイである。 この古風な平仮名遣いは、戦前は普通であったが、今はすたれてしまった、というよりも、こんな書き方をすれば、学校で罰点が付く。しかし、現代人も、いわゆる「歴史的仮名遣い」なるものを知っていて、損にはなるまい。私たちは小学校で、蝶々は「てふてふ」と習った。今は当然、仮名書きすれば「ちょうちょう」である。しかし、学校の先生は言った。「てふてふ」とは、蝶が羽根をはたはたさせる様を模した語だと。だから、もともとは「テフテフ」と発音したのかも知れない。さて、現在の「きょう」はもともとどういう歴史的経緯を歩んだのか、とにかく、手もとにある二巻本の、細字がぎっしり詰め込まれた古い、平凡社の『国語大辞典』を見ると、発音は「キョー」、漢字は「今日」、その振り仮名は「けふ」である。漢字はもちろん当て字だから、そもそもは「ケフ」と読んだのか、聞いた人が現存しないから、だれにも分からない。 それにしても、前半部の「初昔」というのは、あながち古語とは言えず、以下に説くように、現在も機能しているが、なんとも、風情を匂わせる言葉ではないか。初春とか、初雪とか、初の字の付くものとの連想で、実はそんな意味ではないのだが、いま初めて訪れて来た昔、つまり、つい最近、昔の仲間入りをした時期のことを指すような気がするではないか。繰り返して言うが、そんな意味ではないのだが、谷崎さんには、そんな思いもちらりとあったのではないか、字に敏感な人は、この文字の魅力に耐えられないのではないか。そこで、その部分の見出しページを図示する。
辞典を引いて、この語の謂れを辿ってみると、昔の大辞典でも、現在の広辞苑などでも、ほぼ同じ記述で、「初昔」は上種の煎茶、抹茶の名称、極上の宇治茶、などとあり、つまりは茶の銘で、八十八夜から二十一日目に摘むものを言い、その後に摘むものを後昔(のちむかし)と言うそうである。そして、面白いのはいずれの辞典でも、これを「昔」というのは、古語体の「廿一日」の字謎、つまり、これを縦に並べて組み合わせると、「昔」という字になるということである。洒落たことを思いつくものだ。インターネットで調べてみると、「初昔」は俳諧のほうで季語に取り入れられ、また、全国に、銘酒「初昔」販売店があるそうである。私は日本人の遊び心のすばらしさに驚いたが、従前、こういう風流に接することの乏しかったのが、惜しかった。 ところで、ではその銘茶がこの谷崎さんの随筆とどういう関係があるのか。上図の下方に奇妙な和綴じ本を開いた形の挿絵がある。谷崎さんの謎はここにあった。以下にその文面を拡大して示す。これは地唄本の一節である。
まず、この変体仮名の行書体ではどうにも読めそうにないから、普通の平仮名に置き換える。 「茶おんど (三下り 常調 以降) ・・・・・・うさをはらしの初昔(ルビ:はつむかし)、むかしばなしの ぢゞばゞと、なるまで釜(ルビ:かま)の中(ルビ:なか)さめず、 えんはくさりのすへながく・・・・・・」 これでは、なお、何のことか分からないから、本文を適宜、漢字に置き換える。 「・・・・・・憂さを晴らしの初昔、昔話の爺婆(ぢぢばば)と、 なるまで釜の中冷めず、縁は鎖の末永く・・・・・・」 これで分かった。谷崎さんはこの随筆で、「初昔」に事寄せて、文中でみずからが「松女」と呼び習わしている、三度目の妻、旧姓森田松子との、愛というよりも、むしろ慈しみの、夫婦生活の思い出を書きしるしているのである。記述は昭和六年から太平洋戦争勃発の昭和十六年十二月までに及んでいるが、書き出しの部分を除いて、昭和十年の松女との結婚以降のこまごました家庭的出来事が、主軸を成している。まさに、近い過去の物語であって、思いは銘茶そのものにあるのではなく、それを種に夫婦のつながりを唄い込んだ「茶音頭」にあったのだ。谷崎さんの業の細かさには、今更ながら驚かされる。さすがに文芸の名手である。さて、ここで、この興味深い地唄の由来について、少しく説明する順序がめぐって来た。なお、この茶音頭のいっさいに関する説明は、インターネットの Wikipedia の検索に拠っている。 この唄は江戸時代に名人の誉れ高かった盲人音楽家、菊岡検校の手になるもので、茶の湯の事物になぞらえて男女の恋を述べたもので、歌詞は面白く、調子もよく出来ている名曲で、お茶のお手前にもよく演奏されるそうである。全文はかなり長く、演奏には約14分が必要との注記があるが、当論説で必要なのは、その最後の部分のみで、その前に、いろいろの掛詞を使って男女の心の食い違いをあれこれと愚痴ったあとに、「憂さを晴らしに初昔の茶を飲んで、やがて昔の若かった頃の思い出話をする爺婆となるまで、茶釜の湯の冷めないように、茶釜を吊った鎖のように、末永く縁の絶えないことを」祈ろうというのである。結びの文字は「千代万代へ」となっている。注釈によれば、語法上、「鎖」は「縁」との縁語だそうである。 谷崎さんの「松女物語」は、もはや初老の域に達した著者が、まだ若い松女を後妻にもらったことから来る、人生の甘辛劇を、潤いたっぷりの筆で描いた身辺雑録である。谷崎さんは、垢抜けのしたリアリスト的文筆家だから、身近な素材から絶妙の一篇の読物を編み上げる。松女というのは、名作『細雪』に出てくる三人姉妹の長女のモデルになった人であるが、良家のむすめに相応しく、無邪気で、優美で、身体もたおやかである。その彼女が妊娠して、やはり健康的に無理であるとの診断の元に中絶に至るまでの一部始終が、松女の喜怒哀楽、五十に近くなって孫に等しい我が子を抱くことになる父親の滑稽な戸惑いまでも込めて描かれるのが、この物語の中軸である。すべては、随伴する自己や他者の他の雑事も含めて、まるで川の流れのように、自然に流れて行く。驚異の文体であるが、書いてる谷崎さん自身は、書きながら微苦笑を漏らしているのではないかと、私にはそんな気がされる。 谷崎さんの女性関係については、後で触れるとおり、他にとんでもない有名な事件があるし、だいたい書いている作品が、淫蕩を辞さないものだから、ひょっとして一事が万事と思われる節があるかもしれないいが、この松女のことに関しては、文字どおり、初昔の茶音頭にあるとおりだと、信じて良さそうである。私などは文章の匂いから、人間的誠実さが感じられる思いがする。それに加えて、この作品が私に好感をあたえるのは、更に個人的な事情、つまり作品の中でしばしば述べられる魚崎、住吉、岡本などの町名、それに阪神電車が終着駅の三の宮に到着するまでの暫くのあいだ、地下を轟音を立てて走る話など、私の子供時代の思い出がからんでいるからである。思い出の証するとおり、そこに偽りの描写はない。魚崎は、私の生まれ故郷である。 ところで、とんでもない有名な事件とは何であろうか。あまりにも有名すぎるから、説明の必要はないかも知れないが、文士とはいかなる生き物であるかと、かつて敬愛するドイツの大作家、トーマス・マンが若い頃に悩んだとおり、ここに同じ悩みを悩むとすれば、それは次の「細君譲渡事件」である。 谷崎さんは、大正四年に石川千代子なる女性と結婚したが、大正十年頃、その妹のせい子に惹かれ、妻と不仲になった。そのいきさつは小説『痴人の愛』に反映されているとされる。それはとにかく、友人の詩人、佐藤春夫は、千代子の境遇に同情して、好意を寄せ、ここに千代子さんを挟んで、谷崎、佐藤両氏のあいだに、三角関係が発生した。やがて、和議が成立し、千代子は谷崎と離婚、佐藤と再婚した。それだけならまあいいのかもしれないけれども、この三人はどうしたことか、次のような声明文を連名で出した。「・・・・・・我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致すことと相成り、・・・・・・素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取りあえず寸楮を以って、御通知申し上げ候 ・・・・・・」 この声明文に関するご感想は、各位に任せよう。とにかく、常人のよく為し得ることではない。ドイツでも、ロマン派の巨匠二組の夫妻のあいだで、奥さんの取替えっこの事跡が残っているが、なるほど、トーマス・マンの言うとおり、文士は緑の幌馬車に乗ったジプシーさながらに、市民社会から乖離した、自由な天地の遊民であるかも知れない。と、いささかふざけて書いたが、この芸術家性の特殊性については、殊に近代市民文化が終末期を迎える二十世紀前半には、真剣に、また深刻に、論ぜられたものである。ともかくも、谷崎、佐藤両氏のその後の交友は、その声明文に謳うとおりに順調で、互いに文壇の良き友であった。ちなみに、詩人・佐藤春夫の代表作の一つとして広く世に親しまれている「秋刀魚の歌」は、かの三角関係をきつかけに、千代子夫人に対する佐藤の思慕の情から生まれたものとされる。一昔前の日本人には懐かしい歌であるので、本来、この記述とはなんら関係がないのではあるが、別サイトで紹介しておいたから、ご覧いただきたい。ここで、谷崎さんをも含めて、改めて当時の日本人のセンチメンタリズムを偲んでみるのも、一興であろう。 さて、本題にもどると、谷崎さんはその翌年、昭和六年に別の女性と結婚、その三年後に離婚、そして昭和十年に、芦屋の上流家庭の娘であった、いわゆる松女と結婚する次第である。叙述で見るかぎり、その結婚生活は平穏無事、きわめて尋常であったように思われるし、事実、そうであったろう。それには松女の巧まざる功績が大きかったのではないか。今の私には、どうも、そんな風に思える。ところで、私には、谷崎さんの文筆活動に関して、一つ、気になることがある。それはあの時代、あの検閲や思想弾圧の厳しかった時代に、谷崎さんのような軟弱な文学がよくぞ生き残れたな、ということである。もちろん、『細雪』は軍部の圧力により雑誌掲載禁止処分を受けたが、私家版で出版しているし、またその『源氏物語新訳』は、戦時中、一時、宮中の秘め事に関する部分は削除されたということがあったとしても、全体として、無難に執筆を終えている。例えば、これは私が始終思い出すことであるが、永井荷風さんのように、眦を決して軟文学に殉じた、というような気配がない。それは、谷崎文学の芸術性が群を抜いていたということも、大きな根拠であったかも知れないが、私は、今回、この随筆などを読み返してみて、谷崎さんの筆には、労せずして時局に即応し得る能力があったのではないか、という気がする。一歩を進めて論ずれば、時勢を越える、いや、更によく言えば、時勢を往なす(いなす)能力があったのではないか、そんな気がする。秀逸の文人である。 さて、いま一篇の随筆『きのふけふ』について述べる段階になった。その表紙絵は下図のとおり、素朴ながら、風流の伝統を漂わせている。ただし、茶色の染みは年月の所産である。銘茶「初昔」にちなんで、茶道具が置かれている。
しかし、前作『初昔』がもっぱら個人的な身のまわりの雑事を叙しているのに反し、この『きのふけふ』は、当時の文壇、それも隣国の中国を含めた、各種各様の人びととの出会いと、そして中国の人とは国際情勢の悪化に強いられた別れの思い出話が、多数の人名を挙げて語られる。時期は明確に記されていないが、大正末期の若い頃から、本書が発行された昭和十八年の直近までに及んでいるらしい。そして、そこに陸続と登場する名前のなんときらびやかなこと、文壇の名士ばかりである。別の面から見れば、したがって、我々にも馴染み深い人びとの噂話が聞けるわけである。ここにこまかく記す余裕がないのは残念ではあるが、それよりも私には、この書を読み返して、改めて思い知らされたことがある。それは中国、あるいは広く東洋文学と、日本文学との近くて、実は甚だしく遠い関係についてであった。私は、ドイツ文学専攻であるから、ドイツだけではないにしても、西欧文学との付き合いが深い。谷崎さんは東大国文科出身(すごい秀才だったそうである)だから、日本文学に精しいであろうが、更に漢文、また、当時日本語訳の出始めた中国の現代文学に関する知識が、豊富でもあり、かつそれらに対して、きわめて積極的な興味の持ち主である。以下に、この点に関する、重要な発言を引用しておきたい。 〈・・・・・・当時のわれわれは、日支双方同じ東洋の兄弟の国の文学よりも西洋の文学の方に余計気を取られていたので、紹介や翻訳をするに当たっても、そういう 遠い国々のものの方を先にした。これは必ずしもわれわれの過誤とは云えないかも知れない。当時に於いては確かに西洋はわれわれの先進国であったから、われわれに多く学ぶべきことを提供したに違いない。しかし正直に云って、西洋文学はどうしてもわれわれにピッタリ来ないものがあるのだ。私は近頃、自分とほぼ年齢を同じうする支那の現代作家のものを幾つか読んでみて、何と云ってもお隣の国の文学は古くからのお馴染みであるせいか、親しみもあり、分かりもよく、ほんとうに自分の身につくような気がし、なぜこういうものがもっと早く翻訳されていなかったかと、不思議に感じた次第であるが、此のことは作品について云えるばかりでなく、人間についても云えると思う。・・・・・・〉(地名等、原文のまま) これは、実は、夏目漱石の西欧コンプレックスを、谷崎さんは持ち前の文芸家肌で、柔らかな感覚として表現しているのだと、私は身に針をちくちく刺される思いで読んだ。谷崎さんの仲間はまた漢詩を良くし、この随筆中にも、例えば谷崎さんに贈られた永井荷風さんの七言絶句が、下図に示すように、嬉しげに紹介されている。みずからが老いて改宗したわけではないが、このような書が、友好の証しとして交わされるというのは、まことに羨ましい話である。またここには、細字で見えにくいが、幸田露伴の半切の話も記されている。これを、古き良き時代へのノスタルジャーと蔑むのは、心ない業であろう。
七言絶句の文言を機械文字で清書すれば、右記の如くになる。色紙のほうは書き下ろしである。学校で漢文は習ったけれども、正直、どういう意味か、正確には解しかねる。夏が過ぎ、秋が訪れた小庭の風情を歌ったものであろう。それにしても、漢字の並びは美しい。一つ一つが意味を持っている。味わいを持っている。このような文字を持つ国は、世界にも珍しいのではないか。 この書を読んで特に注目させられるのは、これら日本の文人との交友と並んで、かなりの数の中国人友人との交際が、懐かしげに語られることである。それらはたいてい、往時に日本に留学して、谷崎さんと友情を結んだ人たちであるらしいが、当然優秀な人材であった彼らは、本書が執筆された昭和十八年近くの年代では、日中戦争の最中で、敵陣営にあって、重要な役割を演じているはずであった。それらの人たちともっと親しく出来たら、時局の破綻にも幾分かの防壁になったのではないかと、これは谷崎さんが、あえて文芸家の純真さを装って、愚鈍な検閲の眼をくらましている要素であろう。真意は、旧友への懐かしさである。次のような文章が見える。 〈・・・・・・私の云わんと欲するのは、これ等の、現在は大概重慶政権下に奔っているのであろう人たちのことを想起する時、私は彼等が今や敵国人であるのだと思いながら、矢張り一種の懐かしさを覚えるのを禁じ得ないのであるが、彼等の方でも恐らく同様ではないであろうか、―― ということである。・・・・・・今の上海へ行ってもあの主な人達には殆ど誰にも会えないのだと思うと、うたた寂寞の感なきを得ない。〉 念のため申し添えると、当時、蒋介石率いる国民政府は、南京陥落後、奥地の重慶に首都を移転していた。別に軍事勢力としては毛沢東率いる共産軍があった。日中戦争のあいだ、彼らは内戦を中止して、いわゆる「国共合作」で、日本軍に抗したのである。日本軍が成敗されると、彼らは内紛を再開し、結果、国民政府軍側は台湾に追い落とされ、中国本土は、共産軍側の支配するところとなった。ご存知の通りである。 ところで、こういう中国の文人仲間で、日中間のみならず、第二次世界大戦中の錯綜した国際関係の中に立って、政治的に大いに活躍したり、更には政権筋の重責に任じられたりした人の消息が、谷崎さんの軽妙な書き方に助けられながら、かなり長々と語られることは、私には、注目すべきことであると思われる。日本の文人では、例のないことである。次に二人の重要人物について、谷崎さんの文章を、抜粋、引用する。はじめに郭沫若氏、次いで胡適氏である。 〈・・・・・・就中郭沫若氏は今では甚だ有名であるだけに、私などよりは政府当路の人々によく知られているのではないかと思う。私は郭氏には、前述の如く(注.上海の宴会で)酔っ払って世話を焼かしたことはあるけれども、その後はあまり交際がない。今にして思うと、いかにも親切で、当たりが柔らかで、おっとりしたところがあって、あの人が今日中国共産党の一方の旗頭であるとは不思議なような、表面には少しも鋭さの見えない人物であつたが、そう云えば何処か漠とした中に魅力を蔵していて、なるほど大物らしい感じはあった。私は郭氏の人となりや経歴については、いろいろ聞かされていたので、常に遠くから注意はしていたつもりであるが、最初は詩人であり、現今は中国共産党の有力な闘士である氏は、何と九州医大出の医学士で、奥さんは、氏の留学時代に病院の看護婦をしていた日本の婦人であるという。・・・・・・〉 〈私は胡適と云う人とは何等面識がない。しかし・・・・・・私とは僅か五歳下の、ほんとうの同時代人である。そして私とは面識のある郭沫若氏とは旧友の間柄であると云い、私とかなり可なり親しくしていた欧陽予倩氏とは、一緒に芝居をしていた仲間であると云うから、かたがた全然路傍の人と云う感じはしない。それにもともと此の人と周作人氏とは、最も早く日本にその名が知られていたようであるし、まして今日では、此の人は重慶政府の大使として現にワシントンに駐在しているのであってみれば、そういう意味でも此の人の著書はもっと注意されてよさそうに思う。・・・・・・新聞の伝えるところに依れば、ワシントンでは宋子文が幅を利かして大使の仕事の領分までも取ってしまうので、胡適氏とソリが合わないと云う話であるが、思うに胡適と云う人は純然たる学者であって、外交官などには、――それも泰平の世ならば兎に角、斯かる戦乱時代に一国を代表してアメリカの如き重要な国に使すると云うようなことには、不向きなのではあるまいか。・・・・・・〉 日本においても、文学における「政治関与」の問題は、殊に二十世紀に入ってから、大いに論議の対象となった。しかし、それらは純粋に著作の紙の上の問題であって、文学者が実際に政治に身を投ずる、実践的政治活動として考えられることは殆んどなかったし、ましてや実行されることはなかった、と言ってもよい。中国はそうではなかったようだ。かの国の文人は、論客として政治社会の問題を論じつつ、同時に、みずからの行動において、その実を示したのである。それは、あるいは国情の相違に基づくのかもしれない。日本は、戦時体制の強化とともにますます厳重な法規制により、行動の自由は、おそろしく制限されていたことは間違いない。これに反して中国は、すでに政体の改変は果たされており、共産党という新勢力の台頭著しきものもあって、政治活動にはかなりの自由の余地が残されていたのではなかろうか。私はよく思うのだが、それは若干、ヨーロッパでは、ドイツとフランスの差異に似ていると言えるのではないか。この種の問題を考えるとき、いつも私の念頭に浮かぶことがある。それはフランス・ロマン派の巨匠、ヴィクトル・ユーゴーのことである。あの『ノートル・ダムの背むし男』などを書いた有名作家だが、彼はいま、パリのパンテオンに祀られている。パンテオンとは、ご存知の如く、国家に功績のあった人びとを顕彰するための霊廟である。しかし、ユーゴーは、大文豪として祀られているのではない。彼は、別の活動領域で、政治的に共和党の闘将として、その功績を評価されたのである。これは、ドイツでは起こり得ないことだ。文学史上の面白い、注目すべき事柄であるのは間違いない。 ところで、私は今回この『きのふけふ』という随筆を読んでいて、とんでもない思い違いをしていたことに驚いた。それは、この書では、その前の『初昔』に引きつづき、少し時がすすんだ頃の、同種の家庭的・個人的エピソードが書かれているものとばかり思っていたのである。物資がますます乏しくなって、美食家の谷崎さんが稀に「まぐろのビフテキ(?)」を食して喜ぶこと、また次第に老いて体調を崩し、あるとき突然、「足が短くなった!」と感じた瞬間があって、それが軽い脳溢血の症状であること、を、たしかこの書で読んだように思い込んでいたのである。それらはどこにもなかった。とすれば、それらの特異な発言は明瞭に覚えているのだから、果たしてそれらをどこで読んだのであろう。もとより、私の古書本棚にはそれらしい物件は存在していない。小説類ならば他に揃っているが、このような随筆に関しては、インターネットでも、調べようがない。第一、この『初昔 きのふけふ』でさえ、検索ではヒットしない。食糧欠乏や発病の悲しげな物語であるにもかかわらず、それらは、私の記憶では、きわめて平静な文章で認められてあった。あれはどこへ行ったのであろう。しかし、古書物語の余談としては、いたずらに探求せず、私の思い出の中に留めておくのがよいであろう。そのほうが、他の幾つかのケースと同様に、まことに「古書の物語」に相応しいであろう。 最後に、慣例にならって、図書の奥付を図示しておく。
要点を機械文字で表示すれば、およそ、以下の通りであろう。 昭和十八年四月廿四日印刷 昭和十八年四月廿九日初版一萬部發行 著者谷崎潤一郎 配給元日本出版配給株式會社 出版元株式會社創元社 出文協承認あ四六○五九七 定價参圓五拾錢 最後に、裏表紙の見返しに、私の購入年月日と氏名の記入がある。 昭和十九年七月二拾参日求 義則孝夫 十九歳の私がそこに佇んでいる。 (2008.04.05 記) |
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