痛風うんちく・体験編
なお、この欄は、医学的知識に基づく事実の記載ではなく、その時点時点での、私なりの理解・解釈を基にした感想をそのまま記載したものであることを、お断りしておきます。
痛風の足での歩き方
痛風というのは、風が吹いただけでも痛いというのが、病名の由来だという。しかしやはり、最も辛いのは、その足で歩かなければならない時である。以下、私が体験の中で気付いた、痛風の足での歩き方を説明してみる。専門的な医学的知識ではなく、あくまでも私の個人的な理解であることを、改めてお断りしておく。
痛風というのは、血液中の尿酸塩が、関節部分に溜まって結晶化し、それが剥がれる時に神経を強く刺激するのだとされている。つまり、痛覚的には捻挫等と似たところがあり、ついつい同じような意識を持ってしまいがちなのだが、痛風はあくまで血流に係る症状であり、外科的障害である捻挫等とは根本的に異なるのである。
具体的にいうと、血が動く時に神経を刺激するのだから、血の動きを穏やかにすることを考えればいい。つまり、どうしても歩かなければならない場合には、痛む足を地面につけて、単純に「痛いっ」といって元に引っ込めてはいけない。それでは、状況は永遠に変わらないのである。
ではどうすればよいか。痛む足を地面につけた瞬間、痛みを感じた瞬間に少し足を戻す。そして、すっと痛みが下がった瞬間、また足を下ろす。痛みが来たらまた僅かに戻す。これを繰り返していくうちに、血流の押し引きが次第に均衡してくる。そうなれば、最後に足を完全に下ろしたときの痛みが少なくなるのである。
体重をかけられて圧迫された箇所から、血液がドッと逃げていき、その体重から解放された時には、またそこに血液がドッと流れ込む。こういうドラスティックな血液の移動が、痛風による痛覚の最大の原因なのである。・・・と思う!?
※追記注
後々になって勉強してみると、「間接に溜まった結晶が剥がれる時に神経を刺激する」のではなく、「剥がれた結晶が異物として認識され、白血球の攻撃を受けた結果、当該部位が腫れ上がる」のであった。つまり、痛風は「血流」の症状ではない。謹んで訂正いたします。
しかし、腫れた足が痛むのは、物理的な刺激が加えられた時であり、身体部位の動きに伴う血液の動きも、あながち無関係ではないのだろうと思う。けだし、血圧も物理的な力に違いないからである。上の記載は、欄注にあるとおり、その時点における実感的かつリニアな私の理解・解釈なので、あえて記載を残しておくこととする。
痛風が最も痛いタイミング
外部から物理的刺激が加えられたケースは除くが、痛風がもっとも痛いのは、起床時である。
なぜか。人が朝起きると、身長が数cm伸びていることはよく知られている。それは、水平になった背骨が重力から解放され、縦に伸びるからだと言われている。普段意識しないが、それほどまでに、重力というものは人体に強く働いているのである。ここまで書けば、明らかであろう。そう、寝かせたペットボトルを立てた時を想像すれば良いのである。
起床して立ち上がった人間の体内では、水平になった身体中に広がっていた血液が重力の影響を受けて、一気に最下方の足先に向けて殺到してくる。まあ、現実にはそこまで極端ではないが、文字通り足先まで血液が行き渡るのである。そのドラスティックな血液の動きは、痛風持ちの痛覚を派手に奏でずにはいられない。
私の体験上でも、起床時には、直接刺激が加わらなくても、足先が強く痺れるような痛みを感じる。長時間正座してなる足の痺れを激しくしたものと言えるだろうか。したがって、起床するときには、まず上体から、そして屈み姿勢に移り、徐々に立ち上がっていくという過程が望ましい。
これは、夜中にトイレに起きあがった時にも全く同じである。早くトイレに行きたいのだが、立ち上がった姿勢で悶絶し、先鋭化した痛覚に足を踏み出すことができない、という事態に陥る。こうした背反の事態は、痛風持ちにとってまさに切ない状況であると言える。
発症後の節制の効果
結論からいうと、発症後の節制は、ほとんど痛風の症状に影響を与えない。
実際、私も発症を自覚してから、あわてて節制したり、禁酒したり、水分摂取したりしたが、まあほとんど事態が好転することは無かった。
つまり、痛風というのは、徐々に、次第に症状が推移していくものではない。ある日ある時、突然完全な発症状態に陥るのである。それがゆえに、「発作」という言葉が使われるのだ。裏か表か、100か0か、all
or nothingなのである。そして、いったん非発症から発症への境界を越えた以上は、段階的に非発症に復帰していくということもまたない。
逆に言えば、なってしまってからあれこれ考えても仕方がないのだ。一度にあらゆる苦行を実行する必要もないということである。もっと的確に言えば、発症前にその何分の1ずつかを日常生活に組み込んでいれば良いのだが、残念ながらそれは、事後の後悔という形でしか表現され得ないのである。