2度目の発作 (2000年11月)
初めての痛風発作以来、1年半以上発作は出なかった。
生活改善の効果だと言いたいところだが、そうも言い切れない。一応は、以前よりも食べ物に気をつけて、モツや甲殻類などの要注意食物は、極力食べないようにしてきた。野菜もよく採った。ビールも以前に比べると控えめにした。しかし、それはあくまでも以前と比べた相対的な話であり、基本的に「○○を食べていけない」というタブーは設けずに、結構大らかにやってきた。そして、それはそれで良いのだろうと思う・・・のだが、それでも時間が経過するにつれて、次第に気が弛んできて、ガードが甘くなっていたことは否めない。
それと、基本的に痛風というのは、症状・状態そのものを指す言葉であり、病因の除去というのはできない。つまり、完治というのはあり得ないのである。このため、体質改善ができない限り、薬は一生飲み続けなければならない。しかしある日、痛風薬に激症肝炎を引き起こす副作用があるという新聞記事が出て、それが私の使用薬(病院ではなくて薬局処方であった)と一緒だったこと、そして生活改善に一定の自信があったことから、半年ぐらいで薬を飲むのを止めてしまったのである。
それでも、それから1年間は発症しなかったのだが、そうした安心感をあざ笑うかのように、やはりその日はやってきた。
2000年11月14日〜16日
どうしても旅行がらみで発症するのが、私と痛風の相性らしい。17日からの飛騨旅行を控えて、右足の親指がシクッときたときは驚いた。
それまでも何度かシクッとくるときはあったが、その都度気をつけて、しばらく禁酒したりすると、元どおり痛みが無くなっていた。この時も、特に要注意食物を食べていた覚えもないので、病院にいくことなど考えずに、禁酒をはじめた。加えて、水分を大量にとって、尿を増やすことによる尿酸の対外放出の促進に努めた。
しかし、今回の痛みはなかな根強い。旅行のために仕事を片づける必要があるので、どうしても休暇は取れない。したがって、効果があることを信じて、禁酒と水分摂取を続けた。ありがたいことに、旅行前日の16日になると、親指の痛みは和らいできた。ほっとひと安心である。
ところが、その日の晩のことだ。いつもと違う場所が痺れるように痛み始めた。驚いたことに、腫れと痛みが親指から中指と足甲に移動してきたのである。痛みはグングンと増していき、出発の段階では最高潮に達していた。計ったようなバッドタイミングであった。
2000年11月17日
激痛に涙目になりながら、東京駅に移動。楽しみにしていた旅行だから、中止するわけにはいかない。
しかし、親指の痛みであれば、小指側の足縁から踏み出すことにより、なんとか誤魔化して歩くことができる。しかし、中指と足甲の場合は、足の真ん中であるがゆえにそうはいかない。腫れた足裏を地面に付ける度に、逃れようもなく激痛が走るのである。
精一杯頑張ったのだが、歩く速度は大きく落ちて、なんと高山行きの特急電車を逃してしまうという事態となった。そして、単に歩行能力の低下のみならず、常に激痛に晒されることによる神経的疲労、そして苦痛による発汗とそれが冷えることによる体力の喪失。そんなことで、私は困憊してしまった。
2000年11月18日〜20日
何よりも辛かったのは、旅を通じて、思い通りの飲食ができなかったことだ。旅行をして、その地方の美味を味わえないなんて、そんな無惨なことがあるだろうか。名古屋では、モツや産前卵も入ったコーチン鍋を食べたかったのに・・・。と、そんなことを考えていたこと自体が、痛風持ちの自覚に欠けていたと言われればそれまでである。
いずれにせよ、大変な苦闘の末帰宅したときには、もう痛みはかなり下火になってきていた。病院に行っても、薬をもらうだけだろうから、食事療法で再発防止に努めることにした。痛みが無くなるととたんに甘く見始める。痛風とは、本当に人間性を試される病気なのだ。
【参照】 「HIDEPARKの旅歩き」の「飛騨旅行」へジャンプ! (苦痛と涙の痛風旅行顛末)