痛風コラム
当ホームページをみて、色々な感想やご自分の体験をメールで送って下さる方がいました。本当にありがとうございます。そんな声を聞きながら、また新聞等メディアでの痛風関連記事などを見ながら、つらつらと思ったことをコラム風に書いてみました。
最近よく本屋で目にする「痛風はビールを飲みながらでも治る!」という本を買って読んだ。
内科医師である納光弘さんが著して、小学館文庫から出版されている。
正直にいって、最初の印象としては、「キワモノではないか?」と思った。これは、キャッチ的なタイトルによるもので、出版側の意図かもしれないが、少々誤解されるタイトルではないかと思う。
しかし、内容はしごく真っ当。非常に論理的であり、私がこれまで体験し、考えてきたこととも符合している。特段新しい知見ではないと思うが、それを実験データを示しながら整理して見せたところが新鮮で、読後にすっきりと胸の痞えが取れた気分がした。
また、マニアックな統計魔と思われる著者が、実に楽しげに実験データの収集に取り組む姿がよく描写されており、似た傾向のある(?)私は思わずほくそ笑みながら読んでしまった。
痛風患者必読の本だと思う。あまり特定の本をあげて書評などしたくはなかったのだが、思わず二の足を踏むタイトルと、楽しくて有益な内容とのギャップがあまりにも印象的だったので、思わず筆をとりました。
「痛み」というものは、極めて強烈な体験であり、一種の強迫観念として心に残ってしまう。犬に噛まれて以来、犬が怖くなってしまったというような例である。
痛風というのは、やはり痛い。とてつもなく痛い!!。それが人の心に何ら影響を残さないわけがないのである。肉を食べないとか、ビールを飲まないとか、痛風持ちがことさらに節制して見せるのも、自分で「何か対策を講じている」ことを確認する必要があるからである。
肉を食べないことによる効果など、それほど大したことはない。無論ゼロではないだろうが、それをもって痛風が完治するわけではない。何といっても、尿酸プールのうち食物由来のものは3割程度であり、他の7割は生体内の核酸代謝により必然的に発生しているものなのである。
しかし、客観的に計測しがたい生体内代謝に任せているのでは、人間は不安に耐えられない。そこで、肉禁止とか、ビール禁止とか、「分かりやすい」代償行為を自ら進んで設定し、行うのである。これは一種の強迫観念といっても良いが、人間として自然な心の動きであり、無理もないことだと言えよう。
ところが最近、「プリン体カット」をウリにする飲料が大々的に発売されている。痛風患者の増大と、プリン体という言葉・知識の浸透が、その背景となっているのだろう。ある新聞記事によると、プリン体という言葉を知っている3〜40代男性の約4割がその影響を気にしている・・・という調査結果があるそうだ。
まあ、漠然と一般的に気をつけて、バランスの良い食生活を心がけるようにする・・・というならば、実に良いことだと思う。しかし、プリン体という、少し前まではそれこそ痛風持ちしか知らなかった言葉を気にして、「プリン体カット」を心がける(?)・・・ということは、より悪しき強迫観念ではないか。
先に書いたとおり、生体内のプリン体代謝は、随意にコントロールできるものではない。「生きる」活動そのものだからである。それが過剰となった時の害悪を抽象的に強調して、そのカットが必要だとする強迫観念を育てることは問題ではないか。
食と健康をイメージで結びつけて往々に陥りやすいのは、どうしても極論につながってしまうことである。「塩分の取り過ぎは良くない」ということと「塩分は取らないほど良い」ということは全く別ものである。同様に、「ニンニクは身体に良い」ということと「ニンニクを多く食べるほど良い」ということは論理的に無縁なのである。
まあ、究極的には消費者が自ら選択する話であり、需要があって商品開発することは別に悪いことでもないのだが・・・。そういう商品そのものを否定する気持ちは毛頭ない。しかし私は、ブリン体カットだからといって喜んで手を出すこともない。要は味である。美味しいと思うから飲んでいるのであって、わざわざプリン体のことなんぞ考えたくもない。
こと痛風は、その強烈な痛みゆえに、強迫観念を育みやすいと言える。「プリン体」に関する瑣末な知識を発揚させることにより、痛風や生活習慣病一般に対する本質的な認識を阻害してはならないと思うのだが、如何であろうか。
先日、痛風とは全く関係ない本を読んでいて、オッ!?と驚いた。文春新書の「遺伝子組換え食品」(川口啓明・菊地昌子共著)という本である。
この本は、遺伝子組換え食品について解説するために、生物学的基礎まで遡って、論理的な検証をしていこうという、全くもって硬派な書物である。私は、元来興味ある分野なので、たまたま読んでいただけなのだ。
その基礎編で、「牛肉を食べてもなぜウシにならないか」などという分かりやすい生物学的解説を読んでいるうちに、突然話が痛風のこととなった。
具体的にいえば、「DNAはどうとり込まれるか」というタイトルで、55ページから73ページにかけて痛風関係の記載がある。大々的な取扱いである。う〜ん、痛風もメジャーになったものだ。(笑)
しかし、こうした生物学・生理学的見地から論述されると、なるほど痛風を客観的に見ることができるから不思議だ。目からウロコ、体系的かつ簡潔に痛風の本質を説明していると思われるので、本屋で気がついた方は立ち読みでもされたい購入を検討されたい。
著作権の関係があるだろうから、引用はしない。しかしまあ、私なりに噛み砕いて要約すると、以下のような感じだろうか。
○ 全ての動物は、他の動物の細胞を取り込むことにより生きている。
○ 細胞には、核酸(DNA・RNA)が含まれており、私たちは毎日核酸を一定量摂取している。
○ 摂取した核酸は、臓器各部でヌクレオチド>ヌクレオシド>塩基・糖に分解・吸収される。(ヌクレオチド単位まで分解されると、全ての動物で違いはない。人間と牛のDNAの違いはその組み合わせの違いである。したがって、牛の核酸=DNAを食べても人間はウシにならない。)
○ 塩基には、代謝により二酸化炭素・尿素に変化するピリミジン塩基と、尿酸に変化するプリン塩基がある。(そう、このプリン塩基を含むヌクレオチドを総称して「プリン体」というのだ!)
○ したがって、プリン体を含む核酸を摂取することにより、その最終的代謝産物としての尿酸が生成される。
・・・ここまでが、「食物由来の尿酸生成の巻」。
○ 一方、もともと自分の肉体を構成している細胞にも当然、核酸は含まれている。そして、核酸にはプリン塩基が含まれている。
○ 自分の肉体を構成する細胞は、日々、分解・生成を繰り返している。これは生物の必然である。
○ 自家細胞に含まれる核酸>プリン塩基の分解=代謝により、当然のごとく尿酸が生成されている。さらに、全体としての代謝の過程で生体内で新たにプリン塩基が組成され、これも最終的には尿酸に行きつく。
・・・これが、いわば「生体内由来の尿酸生成の巻」。
ここまで論述したうえで、この本は、次のように話を進めている。
@ 最近では、痛風患者に対して厳重な食事由来のプリン体の摂取制限は行われない。それにより、血中尿酸濃度が100mlあたり1〜2mg程度しか下がらないためである。これは、食物由来のプリン体よりも生体内由来のブリン体の方が圧倒的に多い(比率にして2:7程度=推定値)からである。
A むしろ、尿酸の生体内生成を増大させる要素として、アルコールと果物の摂取を制限する必要がある。アルコールを摂取すると、その分解にエネルギーを必要とし、それは生体内のプリン塩基であるATPを分解することにより得られる。その結果、生体内の尿酸生成が増大するのである。(果物もおおむね同じ)
B さらにいえば、摂取した食物の成分代謝に必要なエネルギー確保にもATPが使われており、ありていに言えば沢山食べるほど生体内の尿酸生成が多くなる。
C 話は逸れるが、こうした意味で、核酸を多く含む食物にはプリン体が多い寸法となる。生命の源である精巣(白子)やビール原料である麦芽(細胞分裂が盛んに行われている)などにプリン体が多いのも納得!
・・・ハアハア、ゼイゼイ。
人様の著書を使ってここまで書いたのはなぜかというと、以下の結論を導くためである。
【学習その1】
やっぱり酒はアカン!焼酎だろうがなんだろうが、アルコールを含んでいる以上は良くない!!
まあ少し冷静に考えれば、生体内由来のプリン体の代謝需要は、アルコール成分の絶対量に比例すると思われるため、ダブル1杯とシングル2杯は同じと論理的に考えて良い。さらにシングルの半分の濃さで4杯飲んでも同じと考えて良い。
すなわち、アルコール度数の薄いものを飲むよう努めるべし。水割りはできるだけ薄く作るべし。う〜む、焼酎をガブ飲みしていたのは逆効果だったのだ。
【学習その2】
大食いは慎むべし。
しかしながら、食べないのが良い訳ではないので、バランスに気をつけながら普通に摂取すべし。いずれにせよ、生体内生成に比べると、食物由来の優先順位は低いと知ること。
あ〜あ、勉強になりました。
学術的に細かいところで間違っていたらゴメンナサイ。ご指摘をお願いします。
あと1週間ほどで、このホームページを開設して1周年を迎える。
なんと、カウンターは8万数千回のヒットを数えている。当初、発作中で歩けない状態で、ヒマにまかせて作り始めたホームページとしては、全く予想外ともいえる多くの愛読者を得て、本当に驚いている。
逆にいえば、それだけ多くの痛風患者が社会に潜在しており、また今もさらに増え続けているということでもある。いやぁ、恐ろしい事実ですなぁ・・・。
今後とも、痛風に対する社会の認識・理解の向上、いや、何よりも突然痛風発作に陥った人々の不安緩和を目的として、本年もがんばっていきたいと思う。
でも、自らの身を挺して痛風発症例を追加するのはカンベン願いたい。よく考えたら、私は評論家や専門家などではなく、純然たる患者なのである。エラソーなことを言う立場ではない!
今年こそは発作をおこさないよう、節制に努めていきたい・・・と思ったりする。
痛風には、単純に分けて、排出不全型と合成過剰型の2通りがある。通説では、日本人には前者が多いようだ。
当然ながら、双方により注意点も治療法も異なる訳で、それが痛風への取り組みを複雑にしている面もあるだろう。
痛風は「因果」の病気ではなくて、「収支」の病気である。
単純に、ある原因となる行為(ビールを飲む、カニを食べる)を行ったら、すぐさま結果(発作がおきる)が出るという訳ではない。
例えば、ある会社が赤字経営だとすれば、それについては、資金調達・コスト管理・売上などの問題が複合的に絡み合っている訳である。
いや、イメージ的には「黒字」の方が分かりやすいか・・・。株式会社HIDEの尿酸収支には、合成という収入面と、排出という支出面が、それぞれ複雑な内訳のもとに構成されている。合成の内訳項目には、確かに「食事」とか「運動」とか「飲酒」とかが含まれているが、それはあくまでも内訳の話。必ずしも無関係ではないけれど、基本的には、収入と支出間の「収支」によって、尿酸決算が出されるのである。
そして、長年にわたり黒字決算を続けると(営利会社なら喜ばしい限りだが)、痛風発作を起こすのである。その治療は、黒字体質(=高尿酸血症)を直すしかない。ビールを減らして収入内訳を少しいじったからといって、必ずしも収支が改善されるとは限らない。まあ、間違いではないが、それが全てではない。
私は、素人なりに、そういう風に理解をしている。
そういったところが、痛風という病気の難しさであり、また、私のようなこじつけ屋にとっては、不摂生を続ける言い訳にもなっているのである。(←確信犯)
2001.8.18 痛風と飲酒
痛風にはビールが悪いということは、つとに有名である。一方で、焼酎にはプリン体がほとんど含まれていないので、問題がないと言われることもある。結論からいうと、含有ブリン体の影響だけではなく、アルコールは肝臓での尿酸合成を促進する働きがあるそうで、焼酎なら大丈夫という訳ではない。
まあ、そんなことが話題になるほど、痛風患者にとって重大関心事である飲酒の問題。私個人的には、ビールは最初の1杯だけ。続きは、焼酎かウイスキーということにしている。
特に、仕事帰りに飲むとき等は、すっかり焼酎水割り主体になって久しいのだが、どうもここ半年位、酒の酔い方が変わったような気がして不安であった。飲んで帰宅後、昏倒するようにそのまま寝てしまうことが多くなったのである。何か、体調の変化でもあったのでは・・・と思うと心配であった。
しかし、最近突然に謎が解けた(と思う)。どういうことか。
「飲酒の実感は時間経過に比例する」。決して、アルコール摂取量に比例するのではない。
例えば、野球大会の打上げ等のシチュエーションにおいて、短時間にグイグイと杯を重ねたりすると、飲酒実感よりもアルコール摂取量が先行してしまうため、前後不覚まで酔っ払ってしまったりするのである。
何が言いたいのかというと、自分の頭では、酔い加減を客観的に判断することはできない。「酔い加減は常に酔った頭で判断される」のである。だから、酒飲みは自分なりの「決まったペース」というのを作り上げる。早い話が、「身体で覚える」のだ。
つまり、最近の酒の酔い方の変化は、ビールをやめて焼酎に変えたことにより、私が「身体で覚えた」「決まったペース」が適応不良をおこしているということなのである。
焼酎にしてアルコール度数が上がった分だけ杯数が減ったとか、チビチビ飲むようになったということはない。嚥下する液体の質が変わっただけの話で、従来と同じペースで、同じ調子で、焼酎の水割りをグイグイと飲んでいるのである。
これでは、深酔いするのも無理はない。
焼酎転向組の皆さん、どうぞ深酒にはお気を付けを。私だけか・・・(^
^;ゞ
2001.4.13 素朴な疑問
唐突な一発ネタで恐縮です。
この頃、寝ても醒めても考えていることがあって、それは、洋式トイレのなかった時代には、痛風持ちはどうやって用をたしていたのだろうか・・・ということである。
痛風発作中に、例の和式トイレを使う。ちょっと私には、恐ろしくてイメージすることすらできない。
先人の痛苦を偲びつつ、洋式トイレの発明者に心からの謝意を表したい。m(_
_)m
2001.4.3 不安に思う心
先頃より、お誘いがあって某医療機関系のメーリングリストに参加している。
そこで圧倒されたのは、投稿メールの深刻さである。内容というより、そこから窺える心理状況のことだ。私自身は、もう発作もおさまり、持続的監視期に入っているため、あまり生々しい心理はどこかへ消え去ってしまっている(←痛風の特性)。それが、投稿者は今闘病中の方であり、入院するなどかなり深刻な症状に陥っている方なのである。
その文面は生々しく、不安な心持ちがリアルに表れている。行間からは、助けを求めて訴えかけている気持ちがビンビン伝わってくる。相手が医者だということもあるのだろうが・・・。
いずれにせよ、結構気軽に参加してしまったのだが、軽々しく口を差し挟むような状況ではない。極端な話、命がかかっていると思しき状況にある人間に、「豊かな食生活が大事だと思います」などと聞かせるのは、たちの悪い冗談になってしまう。
そうした方からすれば、「ついレバーを食べてしまった」とか「ほどほどが大事」とか放言している本ホームページは、腹立たしい代物だろう。まあ、私は私のレベルでやっているものなので、別に間違っているとは思わないが、いろいろな人がいて、その病状もいろいろで、安易に他になぞらえることはできないのだと、改めて思い至った。
一喜一憂という言葉があるが、もう一方的にひたすら悩みとおしてしまう状況の方もいる。あるひとつの事柄をあらゆる角度から検証・解釈し、その全ての結果に思い悩むのである。ある意味、見る人によっては滑稽にすら見えるかもしれない。私にはとても痛々しく見える。
もう、連鎖的に不安感が高じてしまって、追いつめられてしまうのである。もう少し肩の力を抜いた方が良いのは分かっているし、そう言ってやりたい気持ちはやまやまなのだが、現にそういう状況にある人間に、正論をぶっても無意味であるし、かえって有害になる可能性もある。さじ加減が難しいことは容易に想像でき、初めて医者の仕事を心から尊敬した。
このホームページに投稿された皆さんが、もちろん私も含めて、かなり前向きな精神状況を保っているのは喜ばしい限りだ。しかし、節制という意味での自己制御はというと、反比例している面がなくもない・・・かな?
精神的な萎縮と細心の自己管理、ポジティブな精神とややルーズな自己管理、どちらの組み合わせが良いのだろうか。結論、これもやはり程度の問題。状況により人により、可でも不可でもなく、ということですか。
う〜む、痛風ってむずかしい。
2001.2.22 開設1か月を迎えて
ホームページ開設から、1か月が経過した。アクセスは、約2700件弱といったところである。
正直、いままで細々と趣味のホームページを続けてきた経験上、1日あたり100件近いアクセスがあるとは、予想していなかった。「医療と健康」という地味なカテゴリーだし・・・。何というか、恐るべしyahoo!、と言うよりない。
先にも書いたのだが、日々沢山の感想メールをいただいている。色々な年齢・職業の方が、本当に色々な症状に苦しみ、それぞれの考えをもって、それぞれに適応しようとしている。やはり生活の病気だから、態様も一通りではないのだ。
こうなると、頂いた情報を独り占めしておくのも何だし、せっかくだからBBSでも・・・なんて調子に乗って考えたりもしたが、しかしやっぱり、痛風患者が寄ってたかって書き込む掲示板というのも、なんとも自虐的なので(笑)、やめることにした。
これだけ若年層にまで蔓延しつつある痛風なのに、専門外来をもつ病院がないのはおかしな話である。整形外科にかかるのでは、やっぱり心細いものである。
それと、岩波新書を始めとする新書本では、様々な病気・病理を題材に取り上げていて、とても興味深くて好きなのだが、私の知る限り痛風を扱った簡易な読み本は存在しない。一般的な病気であるという観点から、そういう本が出たら、買う人も大勢いると思うのだが・・・。どんなものでしょう。
ともかくも、今後とも、当ホームページをご愛顧のほど、お願い申しあげます。
2001.2.11 妻からのメール
ホームページ公開後、思いの外、沢山の感想メールをいただいた。驚いたのは、数日内に痛風が発症したという現在進行形のメールが非常に多かったことである。あまり社会の表面には出ていないが、かなり蔓延しているのだなぁ・・・という思いを新たにした。
中でも印象的だったのは、ご主人が発症したという女性の方からのメールを結構いただいたことである。実は、痛風発症者はほとんど男性だという意識もあって、少し意外な反響だったのだ。
共通している内容は、ご主人の発症にショックと責任を感じている、といったかなり深刻なもの。確かに、家庭での食生活はほとんど主婦が管理している面もあるので、そう考えるのも無理はないかもしれない。
しかし、私としては、社会で働いている人間の食事を完全に管理することは不可能であると思う。仕事で飲むこともあるし、仲間と別に毎日ひとりでランチに行く訳にもいかない。
したがって、気持ちは十分理解できるのだが、過度に自責の念にかられる必要はないと思う。逆に言えば、極端な食生活管理に走っても無駄だということである。パーフェクトな食生活管理を目標に掲げ、「仕事で仕方がない」、「たまにはいいだろう」と次第になし崩しになり、まるっきり元通りになってしまうという例が多くあるそうだ。
大事なのは、「ほどほどに」ということなのである。痛風によって、家庭の食生活をまるで粗食に堕してしまうのではなく、「工夫」をアピールして楽しむことが、長い目でみて有効な食生活改善だと思う。
でもまあ、激痛に苦しむダンナ様を見ていて、その場ではそんな悠長に考える余裕はないとは思うのだが・・・
2001.2.1 痛風と人生
痛風の発症時にいつも実感するのは、肉体的苦痛と精神力のせめぎ合いである。
いつ終わるか分からない激痛との闘い。もう10分間も1歩も踏み出せない状況から、何度も試みては失敗している最初の1歩にもう一度挑む。そのために費やされる精神力は、計り知れないものである。
私は、長く剣道をやっていたため、肉体的苦痛に対する訓練はできているつもりだ。疲労困憊してもう1歩も身体が動かない状態から、さらに1本の打ち込みを絞り出す感じ。そのような鍛錬が、私の肉体と精神に二重三重の底を作り出した。
しかし、大人になり社会人となるにしたがい、そのような肉体的苦痛を忍ぶ機会というのは、ほとんど皆無になっている。ストレスならいざしらず、現代日本社会の大人は、そこまで肉体を酷使する状況にはほとんど置かれることがない。
そのほとんど忘れかけた状況に、痛風により突然陥ってしまうのである。
身体というのは正直だ。苦痛を加え続けられると、どうしても萎縮してしまう。それは精神が弱いのだと笑う人がいれば、いちど重度の痛風にかかってみればいい。本音ではもう苦痛との闘いに倦み疲れ、全てを投げ出したくなっている。そんな気力をふり絞ってさらなる1歩を踏み出すことは、普段使わない筋肉を酷使するにも似た効果を、大人の精神に与えるのである。
痛風により、20年近く過去に置き去りにした感覚が甦る。肉体的苦痛と精神力との相克の中で、私が踏みこたえていられるのも、かつてそうした面の鍛錬を行っていたからなのである。かえって、それを思い起こすことにより、人生におけるより基礎的な力といったものを、改めて強く実感することができた。
肉体に依存しない精神は存在しない。肉体的な苦痛を十分に味わうことなしに、それをねじ伏せる意志力は得ることができない。過保護にされ、肉体的苦痛をろくに知らずに育ったガキどもは、痛風になったらどんな振る舞いを示すのであろうか。・・・もっとも、痛風なんかにならないよ、と言われればそれまでなのだが。
2001.1.22 痛風とバリアフリー
痛風が発症している間は、歩くことや日常の挙措にも差し障りが出る。いってみれば、臨時的な身体障害者であるといっても良い。
そんなとき、バリアフリーという福祉用語が身にしみて実感できる。
町中の段差は、足をひっかけたり体重移動のバランスを崩したりで、激痛を呼ぶ超危険地帯である。歩道のない道路では、自動車や自転車がものすごい勢いで突っ込んできて、本当に心胆寒からしめる。電車の駅では、乗り換えのための階段上下がひどく苦痛である。特にラッシュ時では、正面から突っ込んでくる人や背後から突き飛ばしてくる人が本当に恐ろしい。エスカレーターやエレベーターの有難味を痛感する。
私も日頃、あまりきめ細かな配慮をしている方ではないのだが、こうして弱者の立場に身を置くと、社会の「やさしさ」というものの必要性が心底理解できる。痛風そのものは、歓迎されざる客であるが、自分の視野や物事の捉え方を広げる方向に活かしていければ、まんざら無駄にはならないというところであろうか。