月見スペシャル
第一話 関ヶ原ふたたび2007


 ……高校の遠足が、関ヶ原ってのは、まぁいいわよ

 秋空、晴れ、まだ暑い9月の半ば、
 日本にまだこんな原っぱが残っていたんだ、と感じ入ってしまう
ほどの雄大な緑の丘が、少女の眼前に広がっている。

 ……でもね、でもね、アタイはね、

 関ヶ原を吹く秋風が、少女の紺色のセーラー服の、白い後ろ襟を
ハタハタとはためかせている。
 関ヶ原に、風に吹かれて直立する少女。
 彼女が見下ろす丘の下では、級友たちが座って話をしたり、男子
は走り回ったりしていた。
 ――していたはずだった。

 ……あぁ、空が眩しいよ。

 秋の太陽は薄っすらであることに趣がある。秋光、秋影、という
言葉がぴったりする。だが、今はまだ9月。夏だといったほうがよ
烈火のようなお天道様が、彼女が立つ関ヶ原の野を照らしている。
 
 ……あの日も、あの日も、

 少女の、うなじのすぐ後ろで束ねている肩に届く程度の髪が風に
なぶられるのを振り払うように、首をブルブルと振って、目を丘の
下に転じた。

 ……確かあの日も……えっ? あの日って……なに?

 紺色のセーラー服から伸びる少女のしなやかな両腕、その和歌山
の浜で焼かれた蜜柑色の肌が、快晴の関ヶ原の野に映える。彼女の
茶色い瞳は、その関ヶ原の野に「あったはず」のものが「あったは
ず」の場所を、じっと見つめていた。

 ……ああっ、やっぱり誰もいない。

 彼女と同じ高校の女子制服姿――胸に黄色いリボンタイを付けた
紺色のセーラー服――で草の原に座って談笑していたはずの級友た
ち。
 ――みんな、消えてしまった。

 緑の丘を走り回っていた男子たち。その中で一番はしゃぎ回って
いた高校生のくせに恥ずかしい奴、小柄なアイツの姿。
 ――みんな、消えてしまった。

 ……どうして、いつの間に? アタイだけ? 関ヶ原にひとり?

 青い天が彼女の立つ世界の上半球をすっぽりと包みこみ、
 緑の原が彼女の立つ世界の下半球にずっと、ずっと広がっている。
 遙か遙か天空まで、
 遠く遠く彼方まで、
 そこは関ヶ原、日本・戦国・特別保存地区。

「どこっ!? 先生っ! みんなっ! 青葉っ!」

 担任の先生、友人、そして彼女が丘の上から、その眼鏡無用の視
力を全開させて眺め続けていた小柄な男子の名を呼ぶ少女。

「これは夢よ、夢っ! アタイの夢よっ……ねっ、青葉っ!」

 少女の呼ばわりは関ヶ原の風に乗り、丘を抜け、彼方へと、彼方
へと流されていく。

「夢よっ! 関ヶ原の、関ヶ原の夢よっ!」

 ポンっ、と空気が揺れた。
 三百六十度、視界のすべてが揺れたような気がして、叫び続けて
いた少女の身体がふわりと舞った。
 ひとり、関ヶ原の世界にひとりのセーラー服の少女。

 その少女の肩に、ポンと大きな手が置かれた。

「ひゃっ!」
 びくり、とする少女。振り向く。

 そこには、ひとりの武者が立っていた。
 関ヶ原の野に、ひとりの武者が立っていた。

『お、おのれ……』

 喉の奥から絞り出すようなその声の主は、赤い甲冑に身を固めた
戦国の武将の姿にて、具足に包んだ大きな右手を少女の肩にむんず
と置いている。
 その武将の手がぎり、ぎり、ぎりと力を増すのを感じた少女は、
驚きで硬直していたその身体を翻らせて肩に置かれた武者の手を振
り払った。少女がタンっと一歩前に踏みだして、クルリと回って武
将と相対する。
 ――武将は、ずーーーっと視界の先にいた。 

「い、一歩しか離れなかったはずなのに、アタイ……」

 ずーーーっと視界の先へとワープしたかのような赤い甲冑の武将
は、点のように小さく見えるほど彼方に離れてしまっていた。しか
し、少女の2.0の視力は、同年代の友人ではできないであろうほ
ど正確に、今の状況を把握していた――武者は馬に乗っていた。そ
してひとりではなかった。
 戦国武者の群れ、軍団! 
 背に旗を背負っている武者もいる。少女は武者の背の旗をじっと
目を凝らして眺めた。その旗指物のいくつかは、横長の菱形の模様
を描いていた。また他にも何か漢字が書かれているものもあった。

「……風……わかんない漢字が多いわ……火……林……山?」

 少女はその文字を読み切ることはできなかった。旗が大きく上下
に揺れたからだ。
 ドシッドシッドシッダダダドシドシドシドシドドドドド!
 武者の群れを乗せた馬が、動き出したのだ。少女の立つ丘へと向
かって、騎馬軍団が、猛然と走り出した!

「く、来る、来る、に、逃げなきゃ……!」

 青い空、照りつける太陽、緑の関ヶ原の野原、少女の茶色の瞳、
揺れる、とまどうように、恐怖で、青空の下、赤い鎧の軍団が迫っ
てくる!
 ――なぜ! どうして! 
 紺色のセーラー服、胸の前に結ばれている鮮やかな黄色のリボン
タイ。その下の少女の胸の動悸、はげしく、
 ドキドキ。
 はげしく、焦り、来る来る槍をもった騎馬武者の軍団が、
「あ、青葉っ、アタイ、アタイっ……」
 日焼けた少女の蜜柑色の肌に汗が浮かんだ。
 少女は感じた、透明の珠のような汗が腕を伝う感触を。
 暦では秋とはいえ、紺色の冬のセーラー服はまだ暑い、暑い、

「暑すぎるっ!」
 少女は叫んだ。汗の感触を振り払うように。自分を落ち着かせる
ように!
 
 さーーーーーーーーーーーっ!
 まるで少女の叫びに反応したかのように――、
 風が、青い風が、緑の野を揺らした。草々が流れる、波のように、
少女が立つ『関ヶ原』の丘を。

 その風が、少女の薄橙色の小袖をさらっと舞わせた。
 小袖の裾から少女の健康的な日に焼けた脚がすらっと伸びている。
膝小僧が丸見えになるほどの可愛い小袖――まるで短めのファッショ
ナブルな浴衣のような――その少女の脚が関ヶ原の丘を踏みしめてい
る。

「……へ?」

 ドドドドドドドドドドドド!
 騎馬軍団が彼女に迫ってくる。

「ど、どうして、この服? なんでアタイ、浴衣になってんの?」

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドド!
 さらに迫る騎馬軍団。彼女めがけて関ヶ原を突き進んで、来るっ!

 ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド!
 すでに彼女の視力でなくても、馬の目鼻のカタチまでしっかりと
見えるほどに迫ってくる、怒り狂い、照りつける太陽を呪うかのよう
な騎馬武者の群れが、上下して、上下して、ドシッドシッと。
 
『撃てええええええええーーーーーーーーーっ!』

 ダダダダダダダダダダダダダダダン!

 煙、硫黄の匂い、煙、火薬の臭い、煙!

 鉄砲――いや、火縄銃の一斉射撃が突如おこり、それが生んだ轟音
と幕煙が彼女の周囲を包み込む。
「げ、げほっ、けほっ……」
 咽せた彼女は、小袖の裾で口を拭おうとした。
 ――そのとき、彼女は気付いた。口を拭おうとした左手が何かを持っ
ていることを。長くて重くて、木製のような……

『第二陣、撃てええええええええーーーーーーーーーっ!』

 彼女の右側からまた大音声が響いた。命令、下知っ?!

 ダーーーーーン!

 彼女はとっさに、左手にもっていたものを左右の腕で支え、引金を
引いていた――反射的に!
 そして彼女の目は捉えていた、騎馬武者のひとりが肩を打ち抜か
れて壮絶に落馬したことを、後から来る馬の駆ける前足に巻き込まれ
て踏まれ蹴られしたことを!
 
(し、死んだ……かも、死んだかな、大丈夫かな……)

 いや、少女は確信していた。彼女の心は否定しても、その眼はその
武者討ち死に確信していた。その2.0の視力は、その武者の頸が重
量級の武者を乗せた馬の前足に引っかけられていたことを確実に捉え
ていた。
 
「アタシ、アタシ……」
 ドキドキ。  

「アタシ、どうして鉄砲なんて持ってるの? アタシ……」
 ドキドキ。

「殺しちゃった、どうして、どうして……」

 ――なぜ! どうして! 

 なぜ、どうして、
 アタシはこんなに……ときめいているの!?

(アタイ、首討ち取ったりーーーーっ!)

 叫びたかった! なぜ? どうして? なぜ?

「アタイ……帰ってきたの?」

 少女は、草原に仰向けに、ふさーっと、倒れ込んだ。
 太陽が、彼女の茶色い瞳を直射した。
 関ヶ原の天空は、熱かった。
 あの日のように、あの日……青葉脱兎と駆けたように。

     ※

 ……風が吹いている。

「雑賀、さいがっ!」
「七夕ちゃん、大丈夫っ? 七夕ちゃん」

 ……目を開けた。太陽が眩しかった。背中に草の感触。

 太陽の光が影にさっと遮られた。人の影。
 あ、ネクタイ姿の担任の先生。
 そしてアタシのクラスのお友達たち。
「あ、目ぇ開いたよ」
「おいっ、雑賀っ! 大丈夫か?」
「……あ、涎たらしてるぅ」
 みんなの心配そうな顔が、急にホッとしたような、呆れたような、
そんな表情へと急速に変化するのを、少女――雑賀七夕――は草む
らに寝ころんだまま、ぼんやりと下から眺めていた。

「ひょっとして、七夕ちゃん、爆睡してたでしょ?」
 関ヶ原の緑の丘に吹く風が、少女の薄い蜜柑色の肌と紺色のセー
ラー服のスカートを撫でる。
「う、うん。そうかも。アタイ、なんだか気持ちよくて」
 級友に向かって照れ笑いをする少女。
 その顔は、彼女の立つ世界の上半球をすっぽりと包みこむ青空を
見上げていた。
 ――そして、その茶色の瞳は、遙か遠くの世界を見つめていた。

(アタイ、思い出したよ。アタイは、アタイは……帰ってきたんだっ
て!)

「ねぇ?」
 少女は級友に向かってともとれないような、まるで草原に語りか
けるような声で呟いた。
「ん? どうしたの、七夕ちゃん?」

 少女は、うんっと深呼吸して、その戦の野の空気をすーっと吸い
込んだ。その顔は、懐かしさが混じったような喜びで輝いている。

「アタイね、関ヶ原に来るのが夢だったんだ!」

 キョトンとしている級友たちを尻目に、彼女の茶色い瞳は、輝い
て、遙か、遠く、時代を超えた戦場の野をじっと、じっと、頬を緩
めながら見つめ続けていた。
 ――そのとき、雑賀七夕は、ときめいていた!