暑い…な。 ぼんやりと考えて瞼を開ける。既に見慣れてしまった、病室の天井。 起き上がろうとして、ままならない身体に忌々しげに歯噛みする。 ここは個室だから。誰かに見られる訳でもないから、比較的素直に感情が出てしまう。 不覚をとったのは自身の責任。それを自覚しているから、尚のこと苛立たしい。 油断が招いた、怪我。傷が残るのは構わない。この職業に就いた時点で覚悟はしている。 しかし、である。 それは庇護するべきの者の顔を曇らせる為のものじゃあ、ない。特に、あの真っ直ぐで感情に素直な少年を苦しませるなんて、自尊心が許さない。輝く太陽を曇らせるなど、誰が望もうか。勿論、聡明な彼はすぐに気づいたろう。自分が生きていたことを。それは心の雲をはらすのに十分な働きをしたろう。それは簡単に予測がつく。 推理する必要もない程の確信。 腐れ縁にも似た付き合いは、理性ではなく感情の方からそれを訴えてくる。それは決して嫌なものではないけれど。 「情けないですね…」 「何がです?」 不意の応えに、一瞬身体が強張る。誰もいないと思っていた。独りだと思っていたからこその呟きだった筈なのに。 「なんて表情してんです。らしくもない」 「すみませんね」 声で相手を識別し、微かに安堵の息を漏らす。取りあえずは弱みを見せても支障のない人間。 「いえいえ。天下の明智警視の百面相が見られるなんてそうはないでしょう」 百面相と言われる程表情を動かした気はない。ちろりと横目で睨むと、相手の顔に常にはない余裕が伺えるのがまた、癪に障る。 「…まぁ、熱もないようだし、疲れただけのようですな。病み上がりで無茶するからですよ」 「…早く彼に無事を見せたかったんですよ。それと…彼は少々抜けたところがあるので」 額に当てられた手の平を払う代わりに息を吐き、答える。その無造作な行動は許容範囲内でありながら、それでも許容範囲外でもあるから。 「確かに。金田一は抜けてますな。もっとも、警視位なんでも出来る人と比べるもんじゃあ、ないでしょうが」 「…彼はあれでいいんですよ。本物の天才なんて結構抜けているものです」 興味の対象にしか動かない食指。「学校」の成績と反比例するような完璧な推理能力。あのムラっ気すら、天才の証明。 「私のはただの器用貧乏ですよ」 負け惜しみでも、嫌味でもなく、素直にそう思う。ただ、それを本人の前で言うことは決してないだろうが。 「どんな事件も、彼に影を落とすことは出来ない。輝く若い太陽に翳りを作るなど、誰にも出来ない。私などは露払いに過ぎない」 全ては、彼を輝かせる為にある。そう思う事すら、自然。それを態度に出すことはない。ありえない。 魅かれている事をわざわざ、気取らせるような行動はしない。 評価するだけで充分。 「…あれが太陽なら、あんたはさしずめ月でしょうな」 「え?」 「白い月。冷たく冴えて、闇を照らす…ね」 続けられる言葉に、天井に向いていた顔を始めてベッドサイドの相手に向ける。 「太陽の光は強すぎて、たまに前を見失う。濃い影を落としかねない。それを月が和らげるんですよ。太陽と月は表裏一体みたいなもんですからね。あんたらには丁度良い例えでしょう」 「…」 「まぁ、無精髭で無骨な凡人に言われても嬉しかないでしょうが」 「…そんな事…ないですよ。ただ…」 過大に評価されることも、批判される事にも慣れている。騒がれることにも、疎ましがられる事にすら、慣らされてしまった。 ここにいる相手は、自分を疎ましく思っているのではなかったのだろうか。 「…たまにゃあ、年長者の言う事を素直に聞いておくもんですよ。希には役に立つかもしれない」 「そういう訳では…」 「泣きそうな、信じられないって顔で否定する事もないでしょう。…そういうのも悪くないが、あんたは高い所から人を小馬鹿にしてる方が良い」 「…失礼ですね」 くすり…。 ガラにもない言葉を、笑みを浮かべながら続ける相手に苦笑が漏れる。 これでは慰められているのか、貶されているのか判らない。それでも、先刻より遥かに気持ちは軽くなっている。 「…たまには逆襲したくなるんでね。それより、これあげますからとっとと寝たらどうです」 どこに持っていたのか、一冊の雑誌を顔の上に置かれる。 「何ですか?」 目を細めて雑誌を見遣る。中国漢字で書かれたそれは…。 「…クロスワードパズル、て奴です。本屋に、わざわざ一番難解なのを用意させたんです。まだ、全問正解者は出てないそうですし、あんたの暇つぶしにはぴったりでしょうが」 相手の顔と雑誌を見比べ、今度は苦笑ではない笑顔を作り出す。 「中国語で、しかも難解な代物を解け、とそう言うんですね?」 「無理なら別に構わないですよ。多少は賞品をアテにしてたんですがねぇ」 「何ですか?」 「…中国皇帝料理フルコース。ペア券」 「…食べたいんですか?」 つい、誰と、と聞きたくなるが、それはおくびにも出さない。 「…別に無理なら構わないですよ」 小さな掛け声と共に、無表情に立ち上がる相手を目で追う。 「帰ります。また明日来ますよ」 背を向け、返事を聞く事もなく退室しようとする相手に、口が勝手に言葉を紡ぐ。 「剣持警部。…賞品、期待してなさい」 平成十二年霜月 脱稿 |