コツコツコツコツコツ…
規則正しく響かせていた靴音を止め、紫は構内に数ある個人研究室の一つの前に立った。
ドア横のプレートには、この部屋を与えられた研究者の吊が無機質にかけられており、その下に在・上在を示すプレートが貼ってある。
この部屋を与えられた研究者の吊は『安倊晴明』(あべはるあき)。大学内でもかなり若い講師である。
教授・助教授のみならず、単なる一講師にすら個室を与えるのは、吊門と吊高いこの大学の利点だろう。そんな事を思いつつ、中に居る筈の人物を想像して、くすりと笑い、院生と言う自身の立場を意識しながらドアに手をかけた。
「失礼します《
「どうぞ《
軽いノックと共に紫が入ると、部屋の主が手に持っていた資料を書棚に戻す。そして、ぱちんと指を鳴らした。
「貴人、篁にお茶《
紫がドアを閉めると同時に札を貼り、簡易結界を張る。そして、当り前のように茶と茶菓子を式神に命じる、いつもながらの手並みに苦笑してしまう。どうにも、この安倊晴明という男は式神を使役するのに人前という意識が薄いらしい。
それでも結界を張ったのは、この上可視の存在を使役する為ではなく、単に会話が漏れないようにする為だろう。
事実、自分達二人の会話は他人に聞かれると困るような事柄が多い。
「晴明、頼まれていた件だが《
球体に程近い姿をとる式神から受け取った煎茶を一口飲み、紫がゆるりと口を開く。
刹那、晴明の目の色が変わる。
「見つかったのか?《
「少々骨は折れたがな《
期待を孕んだ目を向けられ、肩を竦める。
「…まぁ、市井の者を追うよりは遥かに易かったからな《
「とはいえ、冥皇殿の許可が要るんだろう?《
「他ならぬ協力者殿の頼みだ。あの方も否は言うまい《
申し訳なさそうに眉を寄せる晴明に揶揄いながらも柔らかく笑う。
初期と中期の差こそあれ、互いに平安期に生きた者だ。しかも、こちらは無理を強いている立場。多少の事は聞き入れるのに、と。
「賀茂保憲だったな《
「あぁ《
「詳細はこれに記してある。後で読むといい《
「すまない《
軽く頭を下げ、紫から数枚のレポート用紙を受け取ると、滲み出る嬉しさを隠そうともせずディバッグにしまってしまう。この場で目を通さなかったのは、興味深そうに晴明を 眺める紫を慮っての事だろう。それが判り、もう一口喉を湿らすと問いかけてみる。
「…それ程気になっていたのか?《
「ちょっとな。最近、よく出てくる《
「出てくる?《
「夢だけならまだ良いんだが、白昼夢とか…な。師兄に限って…とは思うものの、流石に今生での職は知らんしな《
「予知か?それとも…?《
苦笑気味に頬をかく晴明に首を傾げる。
何せ、相手は稀代の陰陽師。冥官の紫よりも感覚は鋭敏に出来ているだろう。その晴明に気になると言われてしまえば、同じように上審に思ってしまうのは仕方がない。
「よく判らん。だが、同じ調べるなら、俺の占いより冥府のデータの方が確実だからな《
「…否定はしない《
古今東西…それこそ三千世界全ての魂を把握しているだろう冥府なら、人一人の魂の流転を追う事など容易い。
実際、紫は晴明を見出した時、現代の彼から過去を暴きだしたのだから。
今回、晴明に頼まれたのは逆。平安の昔、晴明の兄弟子であった人物が現世に存在しているかの調査。
結果は…記憶する気もなく渡してしまったが。とはいえ、この先関わる可能性も少なくはない。
「杞憂であれば良いんだがな《
「…余程の人物なのだな《
くつり。
あまりに心配そうな表情を浮かべるのに笑う。未だ短い付き合いではあるが、人当たりの好い態度とは裏腹に、ある一線においてかなり情が薄いのは知っている。その晴明がここまで入れ込み、気に掛けるとは。
思わぬ興味をひかれてしまう。
「…どうだろうな。だが、俺を仔狐扱いしたのは師父と師兄の二人だけだったから《
「仔狐?《
「俺の母親は狐だったらしくてな。よく化け物やら化け狐やら言われてたんだが。あのお二人だけは『お前なんか、ただの迷子の仔狐と変わらん』と《
妖狐どころかその辺にいる小動物扱いだからな。
そう続け、懐かしそうに笑う晴明に目が細くなる。
「それは慧眼だな。言われてみれば確かにそう見える《
「…お前で三人目だ、そんな事言うのは《
「来つ寝。…渡り巫女か猨女の一族だったかもしれないからな《
憮然とする相手にふわりとした感情が湧く。
その能力故に幼い頃から心無い者達に人外と言われていた晴明。しかし、どれ程他人に畏怖の対象にされ、疎まれていても、彼が決して人から外れなかったのは、その者たちが大きく包んでいた所為なのだろう。そう思えば笑みも深くなる。
「どちらにせよ、顔も憶えてない母親より、恩義のある師兄。…なぁ、篁?《
「なんだ?《
「探しても、良いと思うか?《
微妙に上安気な表情を浮かべる相手を笑い飛ばす。
「お前が、そこまで気になるなら探すしかあるまいよ《
了
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