永久夢


…逢いたい人がいた。
それは、焦がれる程に。
人と積極的に関わるのを辞めていた自分が、あの人にだけは…と切望したのだ…。
今は昔の…話だが。



















「…はぁ…」
溜息を吐き、道場に仰向けに寝転がる。不作法…と言うより不謹慎な行為ではあったが、どうにもやる気が起きない。神棚には後程謝る事にして、ぼんやりと中空を見遣る。ひんやり冷え切った床が心地良かった。
「…夢見が悪い」
柳眉を寄せ、誰もいない道場で呟く。ここ数日、同じ夢を繰り返し見ている。お陰で、似合わぬ寝不足になってしまっていた。




…あれは、夢。
見果てぬ夢。
自ら断ち切った、叶わぬ夢。




「…えぇい…。今頃夢見た所で遅すぎると言うに…」
軽くぼやいてみても、意識は簡単に飛んでいく。
今は遠い、古えの頃に。
それを回避する為に、夢見の悪さを払拭する為に、わざわざ人を避けて弓道場に足を運んだにも関わらず、だ。
仕方なく、不機嫌なまま瞳を閉じる。
何をしても払えないなら、捕らわれたままでも構わない…と。









「…風邪ひくぞ」
どれだけ経ったのだろうか。呆れた声音に意識が浮上する。
ゆっくり瞼を押し上げると、既に見慣れた青年に覗き込まれていた。
「晴(せい)…明(めい)」
「…安倍先生と呼べ…と言っても、他人がいないのは承知してるか」
苦笑を浮かべ、真横に座る青年に口元を緩ませる。
「何の用だ?」
「…授業熱心な小野女史の顔色が優れなかったようなので見にきた」
「それはどうも」
見にきた…と言う割に問い質したりしない相手に内心苦笑する。
この、現世唯一の共犯者は下手に自分に介入して来ないので楽だった。
「…夢占でもしてやろうか?」
「占い?」
「お前…俺の本業忘れた訳じゃないだろう?」
「安倍晴明(あべはるあき)。白陽学園大学、宗教民俗学講師」
「…おい」
問われ、間違ってはいないものの、実際求められた物とは違う解答をしてみる。
嫌そうな視線に、初めて口が明確に笑みの形を作る。
「違うのか?」
「違いませんよ、院生の小野紫(おのゆかり)女史」
拗ねたような声に吹き出す。
全く何と感情に正直な男なのだろう。これでいて日本史上最高の陰陽師の子孫にして本人だと言うのだから。
噂やイメージと言うものは全くもって役に立たない。…もっとも、現世においては性別すら変わってしまった自分に何かを言う権利はないのだろうが。
遥かなる昔。紫自身は平安初期の官僚、小野篁として。隣の男は平安中期の陰陽師、安部晴明(あべのせいめい)として。生きてきた記憶に間違いはない。そして、現し身の社会的身分とは別に、古えの役を負っているのもまた…事実。紫は現世でも冥官であるし、晴明は稀代の陰陽師のままだ。
それは、独りよりも随分と気を軽くする。それ故、紫は晴明を自らの役に巻き込んだのだから。
「晴明」
「…篁?」
ゆっくりと起き上がると晴明に向き直る。夢を占って貰おうとは思わないが、話を聞かせても良いかもしれない。
どうせ、詮ない遠い記憶なのだから。
「…夢を…見る」
 静かに口を開くと、相手が居住まいを正す。それにひっそりと笑うと、言葉を続けた。
「まぁ…お前も知っているだろう?私が遣唐副使を返上したのを」
「あぁ。正使の船と交換された事件な?」
「その頃の事をな、夢に見るんだ」
小野妹子から始まった、遣隋使に遣唐使。大陸の文化を手に入れる為、命がけで行った官僚や学生たち。その中の一人になる筈だった、篁。
「…命がけで行った割に実りも少ないし、惰性の部分もあったからな。私自身は元々反対ではあったんだ」
「…へぇ」
 気のないように返事をしつつ、納得する。無駄を嫌う性質の篁なら、無益に等しい行為には反対を唱えるのは道理。
「しかし…な。遣唐使に行くなら、選ばれるだろう事も判っていたしな、まして唐には逢いたい方も居た故な」
「…知り合いがいたのか?」
「まさか。一方的に知っていただけだ。お前も知っているだろう?当時の有名な詩人を」
「…詩人?お前関係の?………白楽天か?」
「そうだ」
くすりと笑って肯く。
唐代の詩人、白楽天。平安期の貴族たちに最も愛されたとされる人物である。中でも篁は、その才も並ぶとまで言われていたのだ。思い入れも人一倍あったのだろう。
「逢いたくて…まぁ、せめてその空気だけでも感じたくてな。決まった時にはかなり期待したんだが」
うっとりと笑う紫に、晴明が一瞬見とれる。
「自ら蹴ってしまった…のだろうな、あれは」
自嘲気味に続けるのに頷く。
篁が副使当時、遣唐正使の船が腐っていたらしい。それを正使が手を廻し、副使の篁の船と交換してしまったそうだ。その事に反発した篁は、嵯峨天皇に抗議の文を送り、時の遣唐使は中止、篁自身は隠岐に流罪となった…という事件。
「あの後…結果的に遣唐使は廃止され、唐に渡る事も機会も失ったが…。さて、良かったのか悪かったのか」
「…さぁ、な」
「今なら…簡単に中国大陸には行けるだろう。だが、それは私の望んだ唐ではないし…」
「白楽天も、玄宗皇帝も楊貴妃も居る訳ではないな。…それ程焦がれたか?」
「さて。どうだろうな。長恨歌なら未だに諳んじられるがな」
「…流石」



















…逢いたい人がいた。
それは、焦がれる程に。
人と積極的に関わるのを辞めていた自分が、あの人にだけは…と切望したのだ…。
今は昔の…話で、叶わぬからこそ焦がれる夢…なのだろう。





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