純水







上善水如。
水善利万物而不争、居衆人之所悪。
故幾于道矣。
居善地、心善淵、予善仁、言善信、政善治、事善良能、動善時。
夫唯不争、故無尤。










「水飲むか?」
「…飲みたい気持ちは多々あるんだけど」
 動くのが面倒。
 掠れた声でそう続ける伯陽に北斗は苦笑し、ゆっくりと向きを変えさせる。気怠るく眉を寄せると、汗で張り付いた髪を柔らかく払われた。
 顎に添えられた指の圧力に、薄く口を開ければ、間髪入れずに長兄によく似た顔が近付いてくる。それを無表情に眺め、黙って瞼を落とす。
 今の伯陽には、彼に抵抗する術がない。
───────────…甘い」
「ただの水だ」
「知ってる」
 口移しに渡された、冷たい液体。
 その、ただの水が甘く感じる程に渇えていたと苦情を言っているだけである。
 もっとも、相変わらず効果はないようだが。
 ちろりと睨んで、もう一口水を貰うと、再びうつ伏せに枕へと沈む。その体勢が楽なのだ。
「起きなくて良いのか?」
「そんな気力ありません。煉丹中」
 揶揄の口調をすげなく切り捨てる。この相手には、今更丁重に応対する義理はない。
 とはいえ、特に嘘を言っている訳でもないのだ。
 ほぼ無理矢理与えられ、取り込まざるを得なかった気を自身の気へと煉丹するのに、起き上がるだけの体力がどこにも見当たらないだけの事。
 ともあれ、この男の手によって今日及びこの先暫くの予定は全て奪われたのだ。
 今更、起きる必要もない。と、なれば、焦って逃れる算段をする必要もない。
 出来る事と言えば、体力回復を期待して眠る事くらいである。
「つれないな」
「…楽しそうに言う科白じゃないと思うよ」
「お前との会話はどれも愉しい」
 喉の奥で笑うのを枕の隙間から呆れた顔で眺め、深く息を吐く。
 愉悦の表情を浮かべ、伯陽の頬を指先で弄る武神には、おそらく何を言っても無駄。
 このまま無視を決め込もうとしても、邪魔をされるのは見えている。
 この、北斗星君というのはそう言う人物なのである。暫しの安眠の為には、早急に興味を別に移さないといけない。
 三度、枕に伏すと軽く考え込む。
 いつもなら素早く動く脳が、今は霞がかっていて上手く働かない。他愛のない言葉遊びですら、実はかなり面倒臭い。
 それでも何か、と思案に沈む。




───────────…水の概念」
「…あ?」
「水の概念をね、定義して。暇潰しにはなるよ」
 時間にして数秒もない黙考の後、ふと、論題を思い付く。
 答えに窮する程のモノではないが、精神世界を追って、思考の淵を彷徨いがちの自分ならではの問いかけには違いない。
 また、それ故に相手が無視出来ないモノでもある。
 何故なら、自分も相手も身を置く世界の理想とも言える事なのだから。
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「人の睡眠を妨害する暇人」
 傍目には半睡状態に見える伯陽へ、噛み付くように顔を寄せるのを手で払う。
 どうせ、気にもすまい。
 それに、会話は面倒とはいえ、実際は眠い訳ではないのだ。身体を動かすのが非常に億劫なだけ。
「…おい」
「じゃなきゃ、誘拐拉致犯」
「随分だな。否定はしないが」
 今、この状態を引き起こした、無理強いとしか言い様のない行為を思い出したのだろう。
 くつくつ笑う声が癇に触る。
「仮にも太上老君を監禁してるんだから、それ位答えてみせて」
 仮にも道の体得者を、半合意とは言え、力尽くで捕らえているのだから。
 それくらいは示せ。
 視線だけでそう主張し、殊更に欠伸を噛み殺す。無駄に脳は回転している所為か、酸素が足りないらしい。
「…軟禁だ。拘束はしていない」
「動けないから同じ」
 たとえ寝台から出て行けと言われても、腕一つ満足には動かせない。
 これでは、監禁されていると言っても過言ではない。ふわりと、もう一度欠伸をするとそのまま目を閉じる。
 目を開けているのも、口を開くのもかったるい。




「…水は水だと思うが」
「…」
 暫くの沈黙の後、漸くと落ちてきた声に、薄く、目を開ける。もしかしたら、微睡んででいる間は黙って見ていてくれたのかもしれない。
「お前の…太上の言葉じゃないがな。
 如何に形を変えても水は水、だろう。
 器により、流れにより、水の見え方は変わる。
 温度でも…だな。
 だが、気化しようと固化しようと、何も変わらない」
「…まぁ、そうだね」
 緩く身動ぎすると引き寄せられる。
「他の元素と比べても仕様がないが、水の本質だけはどうしても変化しない」
 水・蒸気・氷。
 どの形態を取ろうと物質的には何一つ変わらない。下へ落ちようとする性質すらも。
 それが水。
 そして、それこそが、道。
 確かに自分はそう説くけれど。
 それが真実と知るけれど。
 それでも。
「それ故、最も弱く見えながら、最も強いと言える」
「…何で?」
 論理の性質上、その結論は当然の帰結であるのだが。それでも敢えて問う。
「その身を他者の手に因って変えられるのは一見、弱く見えるだろう。
 だが、その質は決して変わらない。
 …否。
 変える事が出来ない。
 他者は支配しているようで全てを与えられ、逆に支配される。
 外観がどうあれ、不変である水は、強弱で言えば強いだろう」
 言いながら、上目に見上げる伯陽の半身を起こす。力が入らないので寄り掛かる体勢にはなるが、その辺は譲歩する。
「…まるで、お前だな、月華」
 くつり。
 まるで猫をあやす様に、伯陽の顎の下辺りを弄りつつ笑う。
「如何に染めようと、汚そうと、その質が変わる事はない。水、そのものだ」
「…どうだろうね。簡単に濁る辺りは、認め様もあるけど。まだ、その境地に居るとは思わないな」
 理は語れる。
 他者と比べて、自身がそれに近いと思われているのも知っている。
 けれどそれだけ。
 全てを受け入れ、全てを育てるには卑小と知る。
「心静かなんて、我ながらよく説くと思うよ」
 自嘲。
 如何に理を知り、道を知ろうと、生物である以上、情動からは簡単には逃れられない。
 それが本当の真理である。
 知らず、眉を寄せるのを見て、北斗が聞こえない程度に舌打ちをした。
「…それでも、お前こそが道で水だ」
 不意に伯陽を支えていた身体をするりと外すと、つい先刻起こしたばかりの躯を再び寝台へと沈める。
「ちょっ…」
「最下の海とて水面は荒れる」
 伯陽の、思うように動かせない躯を易々と押さえつけ、上に被さる。
 意図を持って手を這わせば、条件反射的に躯が震えるのが判る。
「や…」
「俺は、真実お前が揺らいだ所なぞ見た事がない」
 言いながら唇を寄せ、無防備な首筋に甘く噛み付く。刹那、掠れた声が上がるのに薄く笑った。




「あ、あ、あ…。も、やめ…」
「やめない。お前こそ、もっと啼けよ」
 触れれば触れる程に甘い声で啼く伯陽に煽られる。
 酷く、より酷く溺れさせたくなる。喰らい尽くされる事に歓喜し、総ての思考を消し去り、自分だけ感じていれば良いと、そう思うのだ。
 そうして、己を縛る、あらゆる柵を忘れてしまえば良いと。
 そう、思う。
「…そういえば、霊宝を解任したと聞いた。何かあったか?」
 不意に耳に挟んだ情報を舌に乗せる。
 太上老君が、守護者を退けたと言う噂。
 それ故、名だたる武神が空いた座を狙い、牙を研いでいると。
「…ぁ…。な、何…も」
 喘ぐ息の中、俄かに瞳に生気が戻りかける。それを赦さず攻め立てると、逃げるように頭を振る。
「嘘つけ。何の理由もなく解任なんかしないだろうに。言え」
 耳朶に噛みつく程近くで囁き、逃れようとするのを押さえ込む。
「…言わ…な…い」
「強情者。…どうせ襲われでもしたんだろ」
「な…で」
 図星を射されたのか、軽く目を瞠る相手に唇を落とすと、人の悪い笑みを浮かべる。
「簡単だ。放置するにも値しなくなったんだろう」
 太上を守護する霊宝天尊。
 それは武神にとって、最高の栄誉だ。
 故に、自らそれを放棄する事はない。
 太上自身が拒絶しない限り、その座に留まりたいと願うだろう。既に前代となったと目されている霊宝天尊は、その傾向が殊に強かった。
 だが、守護されるべき当人は、相手に対して何ら興味を示していなかったのだ。
 今回、解任の噂が出るまで。
 自己に然程の価値を見出さず、守護者に背を向け続けた麗人は、守護者が誰であれ、気にもしていなかった筈だ。
 そこまで知っていれば充分。
 自ずから答は導かれる。
「次は誰だ?」
「さ、あ…───────────…んんっ」
 離れかけた躯を引き寄せ、空いた隙間を減らす。
 耐え切れず、息を詰める姿に喉を鳴らし、腕を導いて背に回させる。
 縋り付く腕が心地いい。
「あの子供は?次の蟠桃会で扶桑大帝を戴く」
 記憶の端に引っかかる子供。
 ほんの赤子の頃から伯陽が傍に置き、慈しんでいた子供。
 あの子供ならば、今は兎も角も近い将来、誰もが納得する武神になるだろうに。
「…だ…め」
「何が?」
「しば…る」
 何を。誰を。何に。
 問う必要のない問いに息を吐く。
「それでも望めば許すんだろう?」
 低く囁く。
 どれほど自身を忌避していようと、嫌悪していようと、愛し子が望めば全てを許してしまうのに。
 そしてあの子供がそれを…武神の高みを、麗人の守護を望むのは自明の理なのに。
 それは、火を見るよりも猶、明らかなのに。
 それでも手放そうとするのか。
「…北…斗」
 吐息に煽られたか、はたまたこれ以上話題を引き摺りたくなかったのか、強請るように見上げる相手に、改めて全てを融かす行為を再開した。




「…お前が水でなければ、なんだと言うんだ…?」
 意識のない相手の髪を梳きながら囁く。
「周囲の思惑で濁らそうと、汚そうと、姿性別を変えようと、何一つ変わらないクセに」
 腕の中の存在が水である証左。
 いつだって、変化するのは表面だけ。
 本質は常に一つ。
 汚されず、濁らず、流動的で柔和。
 稀に異物が混入された時には『染まり』『荒れる』事はあるものの。
 それも一時。
 異物を排除すれば、元に戻ってしまう。
 決して、何モノにも同化しない。それを無意識に体現しているにも関わらず、自身の求める理想などに振り回されている。
 その理不尽さにまた、無理を強いてしまった訳だが。
 それに何より。
「無理を強いる俺を、結局は受け入れ、許すクセに」
 抵抗も拒絶も最初だけ。
 最後には溜息一つで受け入れる。尚且つ、渇えた北斗を潤してしまう。
 そんな存在が水以外のモノである訳がないのだ。
「月華」
 身動ぎ一つせず、硬く目を閉じる相手に甘く囁く。
「その身に溶けたいと言ったらどうする?」
 最高の媒介。
 でも、決して雑じりえない事も知っている。
 他者の望むままの姿を見せるのも、他者の望み通りの行いをするのも、それは水の理なのだ。
 流れに逆らわない…ではなく、流れを作るモノなのだから。
「…ん…」
 小さく吐き出される吐息を絡めとり、苦笑する。
「月華」
 今一度呼ぶ。
 応えがないのに安堵し、常に見せない笑みを浮かべる。
「…あの子供が名乗りを上げなかったら、俺がなってやるよ」
 代わりに、二度と誰の目にも触れさせないが。
 思いついた悪戯は、なんとも甘美な響きを持った。
「…お前自身が、何を望むかは知らないが、な」




平成十八年冬コミ発行。