書庫



天之道
其猶張弓與
高者抑之
下者學之
有餘者損之
不足者補之
天之道
損有餘而補不足
人之道
則不然
損不足以奉有餘
孰能有餘以奉天下
唯有道者
是以聖人
爲而不恃
功成而不所
其不欲見賢。
           『老子 第七十七章』










「…暑い」
「…そりゃ、夏だから」
 じわりと肌が熱を持つ暑さに、伯陽が呟く。
 日の差さない、こんな奥の部屋でもこれ程の暑さなら、もっと薄着にすれば良かったと、軽く胸元を扇ぐと、後ろから声。
「人界の夏がこんなに暑いなんて、計算外だったよ。幾度過ごしても慣れない」
「…俺は、忠告はした」
 音もなく増えた気配に、驚いた風もなく応じた伯陽に溜息が届く。
 少し華奢に見える線を隠す為か、裾をひくような衣の伯陽と違い、動き易さを重視した、武人の平服を着た丈夫。
 書庫という特異な場所に現れた割に、書物を閲覧する素振りも見せず、ゆるりと伯陽の腕を掴むと、涼しげな表情の奥に見える汗を拭う。
 そして、更に溜息を一つ。
 体質に合わないものは、隠し切れるものでもないのだから、諦めれば良いのに。
「下界は合わないって言ったろ」
「…ひ弱って言ってる?」
「さぁ」
 不機嫌な忠告を揶揄われ、更に拗ねた表情を見せてしまう。内心までも見通してくれる相手はそれに小さく笑い、中断していた作業を再開した。
 人界の、国家の、書庫整理。
 膨大な量の書物に囲まれ、紐を解いて内容を検めては戻すと言う作業を、それは楽しげに続けていく。
 その姿に、呆れ半分頭を振ると、邪魔にならない位置の書棚に寄り掛かる。
 清浄を以って旨とする、三清に住まう太上老君が、人界においそれと降ってきて良い筈もない。にもかかわらず、人界の、それも清浄とは最もかけ離れた場所に居るのだから。
 全く酔狂としか言いようがない。
「…伯陽」
「何、扶桑」
「…面白い?」
「うん。凄くね」
 上から見ていたのとは違う、人の目を通した史書は特にね。
 そう続けると、幾つかの書物を扶桑に手渡す。
「結構、好きに改竄されてる。事実の、都合の良い所だけ残してね」
 歴史の改竄は、人の世の常…になってきているらしい。それは、書く者乃至、書かせる者の主観が反映されるのだから当然と言えば当然の現象なのだろう。
 それ自体が悪いとは言わないが、自身の覗いていた事象と書物に書かれている内容の差異が、かなり興味深いのだろう。
「…だからって、正式に書記官なんぞになる必要がどこにあるんだよ」
 ただ、読み解きたいだけなら、何時でも入り込む事は可能なクセに、わざわざ人間として正式に就職する気持ちはいまひとつ理解出来ない。
 そんな事をすれば、一定期間、人界に滞在する事になるのだから。
 更に言えば、世界の重鎮たる太上老君が、人界で他者(それが王であっても)に仕えるなぞ、聞く者が聞けば卒倒しかねない事実だ。
 当人の書物好きをよく知る身内からすれば、この行動自体は、納得出来る話なのだが。
 …それでも問題がない訳では、ない。
「ん〜。夢中になって、侵入者扱いされたくなかったから?」
「…帰って来ないって、駄々捏ねてるのが多数、存在してるんですが?」
 最愛の妹に、箱入り小娘。
 更に、東王父まで。
 伯陽が居ないのに耐え切れない甘えた達からの苦情は、直接間接を問わず、全て扶桑に集中するのだ。
「多数って…、精々二、三人でしょ」
「…威力だけなら数万だ」
 疲れた声に伯陽が笑う。
「大変だね」
「…他人事にするな」
 日々繰り返される遣り取りに辟易して、伯陽の後を追うように降りて来たのは否定出来ないのだ。
 その要因に、他人の振りをされては堪らない。
「でも、あの子達は来ないよ?イイコにしてると思うけど」
「…伯陽の言う事だけは聞くんだよ。あいつ等は」
 甘やかし放題に見えて、躾は行き届いているのか、伯陽の養い子(既に子と言う存在ではない者も居るが)達は、伯陽の言葉にだけは素直に従う。
 その分、文句は全部、扶桑に廻るのがどうにも理不尽に感じるのだが。
「そんな事ないよ。でもまぁ、それ程長くは待たせないよ」
「…へぇ?」
 伯陽の読書速度を考えれば、既に目を通し終えたと言われても納得いくが、それでも、この量の書物を前に切り上げる言葉が聞けるとは思っていなかったのだ。
「…宮殿、見てきた?」
「降りて来る時に目に入れた程度」
「搾取の結果…なんだよ、あれ」
「…あ〜。税制ってヤツか」
 困ったように苦笑する伯陽に、人界で広まった制度を思い出す。
 天・仙界にはない制度の為、咄嗟にピンとこなかったのだ。
「そう。…本来、税制って言うのは、生活する上で余剰になった分を回収し、不足している者に分配するモノと理解してるんだけど」
「ん」
「…今はね。強者がより、贅を尽くす為に弱者から必要以上に搾取してるんだ」
「欲に際限はないからな」
 人に限らず。知性の高い生物の欲に限りはない。それは、伯陽や扶桑といった神仙でも同じ。
 ただ、神仙は人より理性が強いだけである。
「…まぁ、そうなんだけど」
「で?それとこれとどう関係するんだ?」
 それはそれで、人の選択した『道』である。
 それをとやかく言うつもりは伯陽にもないだろう。その件と、伯陽が人界を後にする事が繋がらない。
「…革命が、起きるよ」
「…あぁ」
 革命。
 天命を革め、新たな天命が下る。
 人の考えの一つだ。
 原則として、天は人に干渉しない。
 だが、人は。
 人が人を裁く事に躊躇する。
 故に天命。
 よく出来ていると感心する。
「乱に邪気は付きものか」
 伯陽は邪気に弱い。だから、人の乱れる空間に長居は出来ない。どれ程惜しくとも、この地を離れない訳にはいかないのだ。
「…既に邪気は増えてるんだ。…ちょっと、失敗したしね」
「失敗?」
 軽く頭をかく仕草に首を傾げる。伯陽が失敗なぞ、そうそうあり得る話ではない。
「…人の速度に合わせて、外見を年取るの、忘れててさ」
「…バカ」
 深く、息を吐く。
 神仙はほぼ、不老。
 不死と言う訳ではないが、年を取る速度は極めて遅い。扶桑ですら、物心つく前より伯陽の容貌が自然に変わったのを見た事がない。
「人界、何年居た?」
「…二十年くらい」
「…不老不死確定、だな」
「ん〜。最近、王に呼ばれる回数が増えてるんだよね。まだ、本題には入ってないみたいだけど」
 栄華を極めた権力者が、最終的に行きつく欲望の一つに不死がある。
 それを体現している(ように見える)存在が間近に居れば、食指も動くと言うものだろう。
「だから、頃合を見て帰ろうかなって」
「…ま、東華達が喜ぶなら何でも良い」
「おや。扶桑は喜んでくれないのかな?」
 呆れた声音に悪戯っぽい声が重なる。
 わざわざ迎えに来たとしか取れない行動を示しているのに、一切言葉のない相手に不服を申し立てているのだ。
「…目の届く範囲内に居て貰った方が助かる」
「…素直じゃない」
「どう言えと」
「だから…」




「老子!いらっしゃるのですか?」
 言い募ろうとした刹那にかけられた声に言葉が止まる。
「仲尼?」
「あぁ。こちらにおいででしたか。お声が聞こえたので間違いはないと思っておりましたが…」
 声の主にあたりをつけて応じると、飛びつくように青年が現れる。
「何か?」
「いえ。さしたる用はないのですが…」
「また何か、解釈の問題でもあったかと思ったよ」
「そちらの方は、今宵、伺おうと…」
「今じゃダメなのかな?」
「貴方と語らうと時間がいくらあっても足りません。ですから、こんな、いつ邪魔が入るかという時には勿体無くて」
「そう?」
 伯陽相手に、頬を紅潮させて嬉しそうに話し続ける仲尼と呼ばれた青年を、扶桑が品定めの要領で眺める。
 根っからの文人らしいその青年は、気配を隠した扶桑には気付く様子もない。姿まで消している訳ではないのにこれでは、苦笑を通り越して呆れてしまう。
 礼儀は、よくしているのに。
「…今夜か。ねぇ、扶桑。今日、仲尼が来るそうだから」
「…え?」
「…ご随意に」
 当たり前に話を振る伯陽に苦笑が洩れる。意識していない分、これは罪作りだ。
「うん。じゃあ、仲尼。今日は我が家で夕食でもどう?何を読んだか、教えて?」
「よ、宜しいのですか?お客様では…」
「客ではないよ。久し振りではあるけど。気にしなくて良いから、おいで」
「あ、はい。では、ご好意に甘えて」
「うん。待ってるよ。では、職務に戻りなさい」
「はい!」




「…タラシ」
「人聞きの悪い」
「…伯陽が一番、性質が悪い」
「酷いな。扶桑が悪いんでしょ」
「何で」
「…ここに来た、本当の用件、言ってないから」
「…」
「扶桑」


「…迎えに来た。帰って来い」
「…よく言えました」










天下莫柔弱於水
而攻堅強者
莫之能勝
以其無以易之
弱之勝強
柔之勝剛
天下莫不知
莫能行
是以聖人云
受國之垢
是謂社稷主
受國不祥
是謂天下王
正言若反
            『老子 第七十八章』




平成十九年夏コミ発行。