邂逅



 ─────────崑崙山・瑤池。

 崑崙玄圃にある桃園にしか育たない蟠桃の実る頃、西王母の手によって開催される蟠桃会。
この時ばかりは男子禁制の瑤池も開放される。故に、天・仙界に籍を置く成人が全て集まる、天・仙界でも重要な宴である。





「はーくーよぉっ」
「何?扶揺?」
 大人ばかりのこの宴に、不釣合いとも言える程に幼い少年が隣に立つ伯陽の裾を引っ張る。先刻から好奇の目に晒され続けている所為か、利発そうな顔が不機嫌に歪んでいるのを内心苦笑しながら見つめると柔らかい微笑を相手に向けた。
「東華は?」
「舜と一緒だよ。言ったでしょ?」
 朝早くに妹と引き離されていた不満もあるらしい。
「どこにいるんだよ」
「…さぁ?聞いてないし。子供には割と不似合いな場だから、どこか離れた所にいるかも」
 問い詰めるように妹の居場所を聞くのを首を傾げて躱す。もっとも、どれほど問われようと知らないものは答えようがないのは事実なのだが。
「じゃあ、何で俺がいなきゃいけないんだよ。大人の場なんだろ?」
「…だって、仕方ないだろ?今日はお前のお披露目も兼ねているんだから。ね?扶桑大帝?」
 自分は子供だと、言わんばかりに口を尖らせる相手を諭すように告げる。
 確かに、扶揺は子供である。だが、天帝への謁見式を間近に控えている。つまり、近日中に子供から大人の立場になってしまう。そうなれば、今回の蟠桃会を始めとする『大人の諸行事』への出席が義務付けられてしまうのだ。今回の蟠桃会への出席は、謁見を前に皆へ披露しておく事に加え、本人を雰囲気に慣らすという意図がある。故に伯陽としては、多少、場の居心地が悪くても、我慢させなければならなかった。
 …実際は多少なんてものではなかったのではあるが。
「…じゃあ、扶桑って呼べよ」
「え?」
 ぼそりと呟かれた言葉を聞き返す。
「…扶桑大帝の名前は扶桑だろ。謁見が終わればそれが名前になるって言ったの、伯陽じゃないか」
「…あ。うん。そうだね」
 謁見式直後から、幼名は使われなくなる。そうなれば子供という言い訳は効かない。大人の場にいる事を強要するなら、大人扱いしろ。そう、言っているのだ。
「そしたら、我慢してやる」
「──────うん。ごめんね、扶桑」
 その態度に謝罪し、人の多いその場からさり気なく外していく。


「…伯陽?」
 人もまばらな方に連れて行かれるのに、訝しげな表情を見せる。
「少し、息抜きしよう?俺も疲れちゃった」
 適当な木陰に腰を下ろし、立ったままの扶桑を見上げる。首を傾げたまま見下ろす相手に肩を竦め、悪戯でもした時のような笑顔を向けると、どこからか果物を取り出した。
「何?桃?」
「蟠桃。一つくすねて来たんだ。食べてみる?」
「食べる」
 伯陽の隣に座ると、一般的な桃と比べて風合いの違うそれに手を伸ばし、何の疑いもなく口をつける。
「…酔わない程度に食べなね」
「酔うのか?」
「ま、一応」
 桃の薬効は『破邪』『多産』『回春』が主である。それが蟠桃ともなれば、その効果は数百倍に膨れ上がる。それを口にした者が『酔う』のも、当然の事である。それ故、蟠桃会は『大人の宴』と言われているのだ。
「…一個位じゃ大した事ないよ。せいぜい眠くなる程度かな」
「なんだ」
 一瞬不審の目を向けたものの、伯陽の言葉に納得すると、再び蟠桃に齧りつく。器用に半分だけ食べると伯陽に渡した。
「もう良いの?」
「うん。味見だし。伯陽、朝から何も食べてないじゃないか。だから半分」
「ありがと」
 らしい気遣いに自然表情が和らぐ。扶桑は、ぶっきらぼうに見えて、その実、とても細やかな気配りをするのだ。照れ隠しに伯陽の膝に頭を乗せ、そのままの体勢で伸びをする扶桑を眺めつつ、蟠桃を口にした。


「────────おや。これは太主殿」
 幾分ゆっくりと桃を食べ終え、指に残る果汁を舐め取る伯陽に上から声がかかる。声のした方に視線を上げると、大型の真っ黒い獣が伯陽を見下ろしていた。
 艶を含むその体毛は長く、風になびいている。凍る程に冷たい双眸が、この獣の知性を物語っていた。
「…風伯。君も蟠桃会に?」
 冷たい声音に対する警戒からか、ぴくりと動く膝の上の頭を軽く撫で、いつも通りの声を出す。
「えぇ。三清である貴方様とは違い、私は出席を義務付けられておりますから」
「あぁ、そうだったね」
 三清の一人でもあり、太上でもある伯陽は他の神仙とは立場が全く違う。道の体得者は、たとえ天帝主催の行事であろうとも出席義務を持たない。
「…でも、その姿は良くないと思うけど?」
 穏やかに指摘する。西王母主催の宴に、獣の姿は許されない。天・仙界の重鎮の揃う蟠桃会に獣の姿と言うのは、西王母に対して叛意があると取られても、文句は言えない。
「…あぁ。気付きませんでした」
 頷くと、その場で姿を変える。黒く大きい長毛の獣から、痩身の青年に。獰猛にすら見えた獣の姿からは想像出来ない程優美な姿を表す。この青年が武神であるなど、一見しただけでは判りはすまい。ただ、その視線だけが冷徹に扶桑を見ていた。
「これで宜しいでしょうか?」
「…俺に聞いても仕方がないと思うけど」
「いえいえ。やはり太主殿のご意見は尊重いたしたく…─────おや?そちらの少年はどなたです?」
 今、始めて気付いたという風を装って、伯陽の膝枕で寝ている扶桑を示す。
「あぁ、扶桑?」
「扶桑と仰いますと…。近く扶桑大帝の名を受けるという…?」
「そうだよ」
「何でも、結構な実力をお持ちで、太主殿が寵愛されている稚児と伺っておりますが」
 多分に嗤いを含む声に、伯陽が眉を顰める。刹那、今の今まで閉じられていた扶桑の目が開いた。
「…伯陽に無礼な口聞いてんじゃねぇよ」
 そのまま体勢を変えずに風伯を睨みあげると、吐き捨てるように言い放つ。
「…おや。狸寝入りとは…。礼儀というものをご存知ではないようで」
「ほっとけ」
 風伯の口端が歪むのを捕らえつつ、起き上がると伯陽を庇うように立つ。
「…それでいっぱしの護りのつもりですか」
「─────風伯。扶桑を甘く見ない方が良い。いずれは誰より強くなるから」
 喉の奥で嗤う風伯に、ゆるりと立ち上がった伯陽が静かに告げる。
「…それはそれは。では、彼が貴方様の認めた唯一の護り手ですか。…かの、霊宝天尊ですら認められなかったと言うのに」
「…霊宝天尊?何?伯陽」
 初めて聞く単語に扶桑が伯陽を振り返る。その頭に優しく手を添えると柔和な表情を崩す事なく、半歩前に進む。
「後で教えてあげる。…霊宝なら、解任した。近日中に後任選考の武術大会を開く予定でね」
 警戒心を隠そうともせず、一歩も退こうとしない扶桑をあえて背に隠し、向き直る。
「あの方が承諾されたのですか?誰よりも霊宝たる事を望んでいたのに」
 嘲笑。否、どこか含みのある笑み。伯陽に対してか、それとも、この場にはいない霊宝天尊に対してか。その対象の確定は出来なかった。
「…確たる資格があると言うのなら、それを証明してみせれば良い。誰も、異は唱えない。いずれにせよ、現職を倒した者が霊宝だ」
 逆を言えば、現在の霊宝天尊を倒す者がいなければ、現行のままと言う事になる。
「成程。では、私にも機会はあるという事ですね?」
「そういう事になるね。…悪いけれど、これで失礼するよ。行こう、扶桑」
 伯陽にしては珍しく、冷ややかな眼で相手を一瞥し、背を向ける。後ろを振り返ろうとする扶桑をやんわりと促しながらその場を後にした。


「伯陽、伯陽、伯陽」
「何?」
「霊宝天尊って、何?」
 扶桑が伯陽の裾を引っ張り、先刻、初めて聞いた単語を尋ねる。
「…三清の1人の事」
「三清って?三清境と関係あるのか?」
 扶桑や伯陽の住む太清境や両親の住む玉清境、そして扶桑は未だ訪れたことのない上清境を総称して三清境と言う事は知っていた。もしかしてそれに関わりがあるのだろうか。
「元始天尊は知ってるでしょ?」
「親父」
「道徳天尊は?」
「伯陽」
「うん。で、それに霊宝天尊を足して、三清。要するに、三清境の主宰の事」
「じゃ、偉いのか?」
 三清境に住むのは、下界(普通の天・仙界)に住む事が出来ない程に神格が高い筈である。体質もあるだろうが、そういう場所を主宰しているとなれば、一般の神仙よりも遥かに高い位置にいると考えるのが普通である。
 現実に、伯陽は天・仙界全ての者から敬意を払われている。
「さぁね。偉いかどうかは知らない。でも、霊宝は護り手だからね。心身ともに強くないとなれない」
 霊宝天尊の役目は、世界の『霊宝』を護る事にある。『霊宝』とは『道』の事であり、それ即ち、『太上』の事である。言い換えれば伯陽を護る者に与えられる称号に近い。
「今のは強くない?だから変えるのか?」
「どうかな。…確かめてみたら?」
「え?」
 扶桑の問いに苦笑を浮かべる。今の霊宝天尊が弱いとは決して言えないので。強さだけで全てが量れるのなら、それ程簡単な事はない。
 もっとも、現在の霊宝天尊を解任する、その意図を扶桑に明かす気はなかったのだが。
「先刻、聞いてたでしょ。霊宝の後任選考をするって」
「うん」
「扶桑にも権利はある。自分の目で、確かめれば良い」
 力量も真意も自身の目で確かめれば良い。
「それって、俺でも霊宝天尊になれるって事?」
「…お前が望むなら、試してみれば良い」
「…なれると思う?」
「なってみせたら?」
「…そうする」






「はーくーようっ」
「あ、はい」
 太清境、八景宮の庭に一本だけ生えている桃の木をぼんやり眺めていた伯陽に後ろから声がかかる。その怒りを交えた低音の声に振り返ると、不機嫌な顔の扶桑が立っていた。
「寝台抜け出して、何やってんだよ」
 険しい表情のまま顔を寄せ、額を合わせる。額の熱さに眉を寄せると、上着を脱ぎ、寝着のままの伯陽に羽織らせる。
「…桃見てた」
「…食いたいのか?」
「そういう訳じゃないんだけど」
 気が抜けたように見下ろす扶桑に笑いかける。
「じゃ、何だよ」
「先刻、蟠桃会の夢見ててね。それで桃が見たくなったんだよ」
 今より遥かに昔の夢。目の前に立つ、霊宝天尊と尊称される長身の青年が未だ幼く、扶桑大帝の名を得る直前の頃の夢。
「桃が生るにはまだ早いだろ。戻れよ。まだ、本調子じゃないんだから」
 枝に触れ、桃の木が葉だけなのを確認する。
「…もう、大丈夫なんだけどねぇ」
「伯陽の大丈夫はアテにならない」
 言いながら伯陽を軽く抱き上げる。口で言っても聞かない相手に対し、長い間に身についてしまった行動。
「…扶桑」
「何だよ」
「…ん。別に…」
 正面で睨まれ、抗議の言葉を飲み込む。こういう時の抗議が聞き入れられた事はないのだ。
「戻るぞ。まだ熱もあるくせに」
「もう少し…駄目かな」
 後少しで良いからと懇願する伯陽に扶桑が小さく息を吐く。
「─────…少しだけ、だぞ。こんな事で気を消耗して、また北斗のおっさんに襲われたら元も子もないんだからな」
「そしたら、また護ってくれるんじゃないの?」
「…それは、役目だから」
 くすくす笑う伯陽に憮然とした口調が返ってくる。その不機嫌さが照れ隠しなのは、傍目からでは全く判らない。もっとも、伯陽だけが判っていれば十分なのだろうが。
「うん」
「…譲る気ないし」
「うん。─────…ねぇ」
「ん?」
 何かを思いついたような伯陽に視線を合わせる。
「今度の蟠桃会、一緒に行こうか」
「蟠桃会嫌い」
 楽しそうな伯陽と正反対に顔を顰める。結局は頷いてしまうのが内心判っているだけに尚更嫌そうな顔をしてみせる。
「駄目?」
「─────────────…わかった…」












黄帝演武外伝 ─ 邂逅 ─
平成十三年皐月二日脱稿



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