Al−Kahira





 西暦一一八七年、夏 
 その人物は、簡単な戦装束を身につけ、顔には苛立ちの色を浮かべながら、アル・カーヒラ城を足早に歩いていた。後ろには慌てた様子でついて来る者が数人。
「カリフ!」
「教主ユースフ!」
 背後から複数の声に呼ばれ、漸くと立ち止まる。
「何だ」
 カリフと呼ばれた者はゆるりと後ろを振り向き、不快そうに応じた。
「何をなさるおつもりです。戦装束なぞ身につけられ…」
「今更何を言うか。聖地イェルサレム奪回を勧めたのはそなたらだろう!」
 この小柄な体のどこから威厳が出てくるのか。カリフの厳しい口調に、追いかけて来た臣下たちは一様に息を飲む。未だ若いカリフに、逆らうはおろか、反論すら出来る者はこの場にいる筈がなかった。
「─────そう、脅えなくとも良い。帰城の度にこれでは困る」
 萎縮した臣下たちに、先刻と打って変わって、ふわりと柔らかい笑みをこぼす。おそらく、彼らにしてみれば西の野蛮な国々との戦闘で留守がちの主を離したくないだけなのだろう。しかし、民を守り、兵を統べるカリフの身としては、安全な所で戦を見ている訳にもいかない。皆もそれは知っている。だが、それでも。
「   判った。出立を遅らせれば良いのだろう?…一度、部屋に戻るから…」
 臣下たちのすがるような眼に根負けしたのか、小さく息をつく。軽く手を振って臣下たちを去らせると、ゆっくりと来た道を戻った。
 そして、後宮の寝室で寝台に倒れ込んだ時、ふと、その口から紡がれた言葉を聴いた者は、呟いた本人以外には、誰もいなかったのだった。
「…教主アーディド…」





 西暦一一六九年 
      イスラム教シーア派を信仰するファーティマ朝に、新しい宰相が誕生した。名は、サラーフ・ディーン・ユースフ。後に、アイユーブ朝を建て、海岸地帯を除く、パレスチナ全域を支配し、また、第3次十字軍においてイギリスのリチャード獅子心王と休戦協定を結ぶ、『サラディン』の事である。
 しかし、この頃は周囲も、史上最年少の宰相が加わったとしか考えておらず、本人すらも新しい環境に未だ慣れてはいなかったのだった。

「─────不機嫌そうだな、宰相殿は」
「そう、見えますか?」
 4回目の礼拝の直後の時だった。ユースフのかなり前を歩いていた長身の男は、新しい宰相が人に紛れて追い付くのを待って、話しかけた。口元には人の悪い笑みが見え隠れしている。
「見える。─────年若の宰相殿はじいさま方が苦手らしい」
「怒りますよ、カリフ」
 実際の年齢より遥かに若く見える宰相は、くすくす笑う背の高い教主を軽く睨んだ。図星を言い当てられたから、という訳ではないが、不機嫌な事を指摘されて喜ぶ人間はまずいないだろう。しかも、それがわざとだと判るなら尚更。
「まぁ、それはともかく。話がしたい。…夜半に」
「…承知致しました」
 最後の、呟くように告げられた言葉に微かに眉をひそめたが、断る理由もなく小さく頷く。それを聞いてカリフは安心したように息をつき、そのまま足早に立ち去った。ユースフはカリフが後宮に入るのを見届けてから、礼をして屋敷へと足を向ける。おそらく、カリフは今日はもう後宮を出ることはないだろう。『話がしたい』というカリフの言葉に頷いたものの、これからその方法を考えなければならなかった。





 深夜。上限の蒼い月が城と砂漠を静かに照らす頃。後宮で、カリフの寝室のカーテンが妖しく揺れた。そして室内に、華奢な影が伸びる。その影は、特に何をするでなく、窓の縁に軽く腰掛け、降り注ぐ月の光を静かに浴びていた。
「…そこにいるのは、ジンニーヤか、それともイフリータか?」
 どのくらい経っただろうか。不意に寝台から低い声がして、その場の静寂を破った。笑いを含んだその声は、聞く者の耳に心地よく響く。
「…私は魔物ですか?」
 影が緩く動き、困ったような声が応じる。時々影が揺れるのは、笑っている為だろうか。
「もっとタチが悪いかもな」
「教主」
 楽しげな声に、咎めるような声が重なる。
「怒るな。褒めている」
「どこがです?」
 窓から一歩も動かず、呆れたような声を出す。月の逆光で顔も表情も判らない。もっとも、顔の方は衣で隠されていて、陽の下でもあまり判らないだろう。しかし、カリフには相手が判っているようだった。
「女よりも遥かに美しい男なぞそうはいないからな」
「ご冗談を」
「冗談じゃないが   本当によく似合うぞ。ディーン」
 寝台を降りると、足音も立てず窓に寄って、相手の全身を被うような衣を外してしまう。衣の下から、女性の衣装を身につけたサラーフ・ディーン・ユースフが現れた。
「仕方ないでしょう。後宮に男の身で入る訳には参りませんから」
「そうだな。それにしても…」
 改めて見直してこみ上がる笑いに肩を震わせる。カリフの科白ではないが、ユースフは見事に女に化けていた。しかも、本物の女性であれば、完全に美人の内に入るだろう。それは、元から背も少し高めの女性くらいと低く、体つきもかなり華奢な所為もある。だが、それ以上に、顔立ちが柔和で、綺麗なのだ。柔らかい髪は月明かりに映え、その薫りすらも女性のものと変わらない…。
「…そういえば、この薫りはどうした?」
「…女性は、薫りに敏感ですから…。それよりカリフ、お話があるのでは?」
「あぁ、すっかり忘れていた。まぁ、他愛もないことなんだがな。それから、アーディドで良い。私用だ」
「はい」
 堅苦しい呼び名を断ってからカリフは話し始めた。とりあえず、国のこと、民のこと、何より政治のこと。そして、『十字軍』とか名乗る、西の蛮族との戦いこと。これは、彼らがこの世に生を受ける前からの戦いであり、既に2回の進攻があった。しかも今は聖地イェルサレムに勝手に国を造るなどという暴挙に出ている。
「…何故あのような無益な事をするんだ?彼らは『イエス』の説いた教えを守っているのではないのか?いくら、ムハンマドの偉大さには敵わぬとて、重要な予言者には違いあるまい」
「さぁ…」
 どうも理解し難い、といった風情で話すカリフに曖昧な返事をする。かのアダムから始まる数々の預言者の中でも最も偉大なムハンマドと、それに対抗するイエス・キリスト。二人の説く教え自体に差異は少ないものの、信者の確執は大きい。
「しかも、預言者を神の子だなどと、神を冒涜するにも程がある」
「しかしアーディド。彼らはそれを正しい事だと信じています。我々がイスラムを唯一絶対に正しいと信じているのと同様に」
 静かに、注意深く、西側の弁護とも取れるような科白を吐く。
「イスラムは正しいに決まってるだろう?コーランにも書いてある」
「聖書にも似たようなことは書いてあるでしょうね」
 にっこり微笑して頷く。同じ系列を組む預言者の説いた教えならば、その教典の内容が似ていて当然。更に、向こうが新しくも偉大なムハンマドを認めていないなら、古いイエスを最高に正しいと信じていてもおかしくはないのだ。
「─────成程な。奴らから見ればこちらが間違っている訳だ。それでは、聖地を自分達の手に奪いたくなるのも道理だな」
「えぇ。そして、我々がそれを防ぐ道理もです」
 カリフが感心したように『西の正義』を推察すると、変わらぬ笑顔で今度は自分達の正義を言ってのける。
「イェルサレムは奪われた」
「奪い返してはいけませんか?それに、あんな所に変な国を造られて、とても邪魔です」
「─────…お前は時々凄いことを言う。それではハムラビ王だ。いや、もっと非道い」
 くすくすと笑う。カリフは楽しんでいた。これでユースフという人間は、その温和な外見と違い、かなり強い性格をしている。目的の為なら、どんな手段も厭わないような、そんなところがあるのだ。もっとも、その強い部分が顔を見せるのは、いつでも政治か民の為の時のみで、カリフはそこが気にいっていた。
「…ではディーン。話は変わるが、この国が…いや、俺がお前にとって邪魔になったらどうする?」
「国なら滅ぼします。あなたなら…」
 言い切った後、一瞬言い澱む。そこに、カリフが促すように言葉を添えた。
「俺なら?」
「─────…多分…殺すでしょうね」
「正直な事だ」
 怒るでなく、笑う。たとえ不敬罪として殺されても仕方のないことをユースフは言ったのに。そして、眩しげにカリフを見上げる。彼のこの強さに、ユースフはいつも勝てない。
「…でも、そうしたくはありません」
「…そうか。だがディーン。俺はお前になら殺されてやる。お前にだけだ。覚えておけ」
 全く表情を変えず、と言うよりも更に楽しそうに告げる。
「お前はきっと、泣きながら俺を殺すんだろうな…」
「アーディド!」
 うっとりと続けるカリフに、ユースフは叫んだ。





「アーディド!」
 自分の上げた悲鳴に、はた、と気付く。倒れ込んだまま、いつしか眠っていたらしい。夢に見たのは、この部屋を自分の前に使っていた者。自ら滅ぼした、大事な教主。そして、一番幸せだった日々。全ては、自身の手で壊したもの。
「アーディド…」
 寝台に水滴が落ちた。だからこそ、戻りたくなかった部屋。たった一言の恨み言すら言わずに逝った人間は、いつでも彼のそばにいた。そして、夢の中ですら、恨み言を言わない。言ってくれない。怨嗟の言葉でも吐いてくれた方が楽になれるのに。
「カリフ─────」









 一一六九年:サラーフ・ディーン・ユースフ、宰相就任
 一一七一年:ファーティマ朝カリフ・アーディド没
 一一八七年:イェルサレム奪回



END



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