団員のひとりごと 第19回

疑惑の霊感

担当 : チェロ 大塚
情景その1

 アントニオは軽やかに駆け上がってくる階段の音に物憂い眠りから目がさめたところである。ドアがおずおずと開きかわいい可憐な顔がのぞいた。「アントニオおじさん、元気?」。彼はこの下宿屋の娘が好きである。「ああ、元気だよ」。「新しい曲はもうできたの?」。彼は、ベッドのそばのピアノに置かれている楽譜を見た。できたことはできたが、会心の作とはいえないようだ。宮廷楽長という職を捨てて作曲の旅に出たが、永年、御用曲を書き続けたために、彼の輝かしい才能は無残にも衰えていた。

 「できたよ、聞きたいかい」。肯く顔に応えて、痛む足をおろした。都から隣国に向かう田舎道で骨折し難渋していたが、この下宿屋の亭主に救われたのである。3ヶ月前の事であるが、そのことにも老いを自覚せざるを得なかった。第1楽章のテーマを弾き始めたが、次第に指に熱い血が通う快感に酔いしれた。第2楽章から第3楽章のAllegroに入った。何という素晴らしい日だ・・・・・彼は最後の音を弾き終わっていた。娘の存在さえ忘れていた。

 ふと我に返り、傍らを見ると娘の複雑な顔色が見えた。「いい曲なんだけど、難しくてわかんない。私はもっとわかりやすい曲がいいな」。そうだ、そのとおりだ。いつもの自分のスタイルを思いっきり捨てて、斬新な曲を、と考えていたのに・・・昨日からくすぶり続けていた憂鬱な気持ちの原因はこれだったのだ。どうやったら明快な曲が作れるのだ、神に近づけるような曲が。

 「私はね、今、春の踊りを考えていたの。見てちょうだい?」。将来のプリマドンナを夢見ている伸びやかな肢体が、軽やかに舞う。窓から差し込む朝日に、頬の産毛が金色に輝いている。「ここは双葉が成長するところ」。   ♪トウラタッタッタッター タリタッタッタッタッター♪   おお!これだ! 「エミリー、おじさんは新しい曲が作れそうだ。もっと踊って見せておくれ」。二人一組の作曲は熱心に続けられ、数ヵ月後に完成した。その、第1曲目は「春」と名付けられた。


情景その2

 アントニオはゆっくり上がってくる階段の音に物憂い眠りから目がさめたところである。ドアが静かに開き、どっしりとした顔がのぞいた。「アン兄ー、どう、元気?」。見知らぬ男はベッドに近づきそう言った。「あんにーだって?はて、私を兄と呼ぶ人がこの世の中にいただろうか」。彼は、男の顔をもう一度良く見た。意思をはっきり持った太い眉、がっしりとした顎、視線をそらさぬ澄んだ眼。

 「おお!ヨハン、ヨハン君だね?」。思わず名前が口をついて出ていた。彼が以前宮廷楽長をしていた頃、同じ境遇のヨハン君と何度か文通をしていた。ヨハンは当時新進の作曲家であった。アントニオは彼の作品に見る天才を尊敬し、そして羨ましく思った。ヨハンはアントニオを先輩としてばかりではなく、パトロンの趣味や演奏者の技量に合わせて無理なく柔軟に曲を作る手腕を評価していたのだ。ただ・・・最近は往年の輝きが失われつつあるようで寂しいな・・。

 二人はそっと握手をした。アントニオの手は、乾いていて熱があった。世間話の後に、ふと、ピアノを見ると楽譜が置かれている。「昨日、出来上がったばかりなんだ。みてくれたまえ」。ヨハンは、曲を見ていたが、ため息をこらえるのがやっとだった。「私も老いたな。若い頃は、何世紀も残る曲などいくらでも書けると思えたのに、今はその力がなくなったのだ」。

 ヨハンは黙ってこの痛ましい老人を見ていた。そして、「アン兄ー、ピアノを借りていいかい?」。肯く顔に応えて弾き始めた。窓の外に広がる田園の緑と光を鍵盤の上に載せていく。さわやかな風、若い緑、暑い日差し、入道雲と雷雨。ピクニックと紅葉。霜柱と雪。吹雪。わずか30分ぐらいだが、見事な即興演奏であった。

 しばらくして、ヨハンは帰っていった。アントニオはぐったりとベッドに横になった。やがて、先ほどの演奏が頭の中で始まったと思ったら、くるくると渦を巻きながら、頭を飛び出して部屋の中をゴーゴーと吹き荒れた。その勢いは部屋を突き破り、青い空を満たした。彼は、天を割く光の中に神を見ていた。「これだ!」。彼はペンを取り、一心不乱に紙に書きつけた。そうして、出来上がった曲は、ヨハンに敬意を表して、冒頭の4曲に据えられた。

(以上の情景は、全くのフィクションであり、モデルはありません。)
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