団員のひとりごと 第17回

「人生とは何か、と考える」ことを考える

 人生とは何か?人生において何をすべきなのか?
このような問いかけ、疑問を抱かない人はいないであろう。それほど普遍的な答えのない質問なのである。今回はどうしたんですか?なんだか真面目くさってますね。そうなんですよ。最近気付いたことがあって、ちょっと嬉しくて、皆さんにもおすそ分けをしたいのです。

 一つのエピソードを紹介する。次男が3歳のころの話。この次男は、言葉が若干遅れていて、言葉の教室にも通ったことがある。ある朝、食卓にイチゴが10個ほど一皿に盛られて出た。次男はイチゴが大好きである。しかし遅れて起きてきた5歳の長男もイチゴが好きであり、次男はこの強力なライバルの出現のために、3個しか食べられなくて、悔し泣きをした。

 翌朝、次男が起きてくると、やはりイチゴが一皿盛られていた。次男は、イチゴをサッと取り、その頭をチョビッとかじったのである。10個ほどのイチゴをそのようにした頃、長男登場。どうするか見ていると、長男はお構いなしに食べ始めた。次男悔し泣き。次の朝、次男が起きてくるとやはりイチゴが一皿あった。すると次男は皿のイチゴに真っ直ぐ手を伸ばして、一つつかむとギューと口の中に押し込み、左右の手にイチゴをつかんだのである。

 小生は、この3日間の次男の行動を見ていて面白いと思ったが、このような戦略を誰も教えていないし、家族が見ているテレビやビデオにもないと知って大変驚いたのである。ある先生のおっしゃるには、このような行動は、動物の本能というか脳に刷り込まれている筋書きなのだそうだ。その時は「へええ、そんなものですか」と単純に驚いていた。

 「合目的」という言葉がある。ある現象を、何故そうなるかと考えるより、そういう行動をした種族だけが生き残ったと考えたほうが理解しやすい、という考え方である。例えば、人(特に子供)は眠くなると体温が高くなり、眠る前に体温が上がれば、原始時代(現代でも良いが)、我が子の手を引いている親は、子供が眠くなってきたことを察知して、狩や作業を中止し、外敵を防ぎつつ、眠る準備を始めたであろう。ぐずることにより、親は子供が眠るまで離れないため、安全に眠れるであろう。朝、目が覚めて泣き出すと、先に起きていた親は、急いで子供の傍らに行くので、子供が勝手に歩き出して起こる事故を未然に防いだであろう。どうです、このように考えると、子供の不思議な行動や現象の大部分が、生存に適するためのものであることが納得できるでしょう。

 今年の2月、あるお年寄りが、脳梗塞後、食事が摂れなくなってしまった。顔を見ると、少しポーとしているが、幸せそうである。これは、たぶん、血中にケトン体という(皮下)脂肪の代謝産物が増えて、そのために、意識が少し低下しポーとしているのだと思う。ケトン体は食欲をなくし、かつ意識を低下させる物質である。3歳前後の子供に良くみられる自家中毒の主犯である。

 なぜ、こんな物質を神様は残したものかと常々疑問であったが、その解釈ができた。それは、このような場合、わずか100年前であれば、点滴も何もしようがなくて、家族は、死に行く親を黙って見ていなければならない。その時に、苦しそうではなく、幸せそうな表情になるように、見ている家族が辛くならないように、ケトン体を体に作らせたのである。何と神様は玄妙なことをなさるのだろうか。神様は、生まれてから死ぬまで、全て合目的に作りたもうたのである。ただし、ここまでに至るのに、さすがの神様も200万年かかりましたが。

 そこで、最近気付いたことというのは、動物(人間)の生理現象が合目的に考えられるのであれば、心理現象も合目的に考えられる!のではないか、ということである。ここで、表題の登場であるが、「人生とは何か」という疑問は、体に刷り込まれているものであり、必要な人には誰にでも発生するようになっているのではないだろうか?よく哲学的であるとか何とかいうが、そうではなくて、単に人が老いていく上で必要な遺伝情報なのだと思われる。

 発生する時期は、多分、身体(脳も含めて)の発育が頂点に達した時であろう。だいたい高校生あたりですか?身体は、あとは衰えていくだけであるが、「衰え」を支える重要なメカニズムの一つなのであろう。つまり、衰えて死に至る過程で、将来を悲観し過ぎたり、自暴自棄になって身勝手な振る舞いに走ったりしないための、すなわち社会性を持たせるブレーキの役目をしているのではないだろうか。そして、もはや、暴走する力がなくなるまで老いると、人生とは何かが分かるか、または、考えなくても良いような状態になって、ブレーキの役目を終えるのであろう。

 この説が正しければ、巷にある思想も、大概の物は単に遺伝子に組み込まれたもの(情報)が出ているにすぎず、新発見・新説のようでも実は元々あるものが表面に出たに過ぎないという事になる。そういう目で眺めると、デカルトの「我思うゆえに我あり」という有名な言葉も、単に生物として「生きたいという本能」を肯定したに過ぎないという気がする。そして、『そこに山があるからさ』という言葉と大筋で同じ内容である気がしている。是は、小生にとっては、大発見なのです。ウ〜ン、この発見も刷り込みずみのものかな?
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担当: チェロ 大塚