豪徳寺とその周辺

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小田急線の豪徳寺駅近辺にはまねき猫で有名な豪徳寺を始め梅林、吉田松陰を祭った松陰神社などが有ります。豪徳寺は井伊家の菩提寺でも あり、安政の大獄でしられる井伊大老の墓も有ります。明治維新に、相対する立場で生きた井伊直弼と吉田松陰がごく近くに眠っている、 というのもおもしろい事実です。

豪徳寺山門

豪徳寺

小田急線豪徳寺駅から歩いて数分のところに有る豪徳寺には幕末の人物井伊直弼の墓が有ります。またこの寺が 井伊家の菩提寺になったいきさつには猫が絡んでいた、と言うことで「招き猫」の寺としても知られています。


ここの招き猫は右手を上げているのが特徴

役目を終えた招き猫の奉納所

招き猫縁起

豪徳寺で招き猫を買うとついて来る「縁起記」には:

鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗り捨てゝ入り来り和尚に向い請えるよう

『我等今当寺の前を通行せんとするに、門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまの あまりに不審ければ訪ね入るなり。暫らく休息致させよ』

とありければ、和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内、天忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加りしが、 和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば、武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむ。

やがて『我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり。猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預ること 是れ偏へに仏の因縁ならん。以来更に心安く頼み参らす』とて立帰られける。

と有ります。貧しい寺だった豪徳寺は猫のおかげで以後井伊家の菩提寺として繁栄したと言うことで、これにあやかって家内安全、 家業繁盛の招き猫 が今でも人気なのです。



井伊直弼の墓

井伊直弼

江戸幕府の井伊大老は日米和親条約を朝廷の勅許無く調印するほど積極的な開国論者でした。また倒幕運動を弾圧 、勤皇派を次々 に殺害しました。いわゆる安政の大獄です。このため 1860年3月3日水戸・薩摩浪士により桜田門外にて暗殺されました。(桜田門外の変) 享年46歳でした。

井伊直弼の墓は豪徳寺にありますが、どう言うわけか回りには女性の墓ばかりです。



松蔭神社入り口

松蔭神社

幕末の思想化、教育家吉田松陰を祀る神社は彼の主に活躍した地、萩にしかないと思っていたら 世田谷区にも有りました。 豪徳寺駅から 徒歩10分くらいです。

萩の松蔭神社と何が違うか、と言うと、萩の神社には「本物の松下村塾」がある、と言う事でした。 松蔭は毛利藩・萩の人で有り、その大部分の活動を萩で行いました。

江戸の牢で処刑され、獄死したことから江戸に葬られ、その後この地、世田谷に改葬されたとの記録がありますのでここが本物の墓、と思いたいのですが、司馬遼太郎によれば(世に棲む日日)、萩にも松蔭の墓があるそうです。はて、どちらが本物?

 

吉田松陰

幕末の思想家・教育者吉田松陰は 1830年現在の山口県萩市に生まれ、長じて九州へ旅し見聞を広めました。日本の今後のためには外国の 状況を知らねばと、長崎にロシア船隊を訪ねたのですが松蔭が長崎に着いた時には既にロシア艦隊は出港していました。そこで松蔭は浦和 に来ていたペリー提督の艦隊を目指して上京、密航を企てますが失敗、自首します。(1854年)

その後萩の野山獄に移され、1855年には出獄して萩の杉家へ幽閉されます。幽閉中に松蔭はあの有名な松下村塾を開き 後進の指導にあたりました。「自非読萬巻書寧得為千秋人−萬巻の書を読むにあらざるよりはいずくんぞ千秋の人たる を得ん−」(多くの諸を読み勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人になれようか)、これは松下村塾に掲げてあった松蔭の言葉です。 松下村塾からは伊藤博文高杉晋作山県有朋ら明治維新の原動力となった志士を傑出しています。

1859年幕府は再び松蔭を捕らえ江戸へ護送します。そして安政の大獄に連座して処刑されます。享年若干30歳でした。

 


吉田松蔭像

吉田松陰墓

松下村塾(複製)

門下生・縁故者から寄進の32基の石灯篭
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