この頃になりますと、療養所で完全の医療器具を揃え、また頓服を服用しましてもどうに もならぬ発作が、突然襲い掛かる様になっておりました。息苦しくもがく姿で最早これが 最後かと慌てふためき、付き添い人に緊急で病院連絡させたりしながらも、気が転倒して しまいどう処置を取り急場を凌ぐか、普段練習していた事などすっかり忘れ、気の抜けた ようにへたってしまう事も度々でした。急な症状があまりに頻繁に続き担当医の計らいで 、病室を優先的に空けてくださり、療養所から病室へと移動しました。
私は一日の仕事を終えると、毎日白翁の元へ行くのが日課でしたが、付添い人から「息子 さんの来るのを子供の様に、まだかまだかと何回もお尋ねされます」という事を幾度も聞 かされる度、人恋しがる姿なぞ一度たりとも見せなかった白翁の姿が、とてもいとおしく 思えてくるのでした。最早そこには白翁でなく本来の父の姿、そのものとなってきており ました。
ある日ベッドの中より父が初めて私に言った言葉があります。
「皆に世話を掛けたな・・・感謝をしている・・・お母さんを頼むぞ・・・」と伝える父 の言葉が、まさかこれが最後の言葉になってしまう事なぞとは思いたくなく、まともに言 葉も受け取る事が出来ませんでした。
「何を言っているの・・・まだまだやり残している事が多いと言っているくせ余計な事を 考えずに早く良くなる努力を続け、次期創案を練り上げなければ・・・」と言えたのが精 一杯でありました。
その後暫く病院生活が続き一時的にもどうにかこうにか小康状態を保つ事が出来ておりま した。
その頃の記に「我この世から消え去るとも、白翁は死ぬ事無し。独創の漆画の中に生き続 け、萬人の心の糧となる。漆芸術三千年 不変の誇りあり。君が死んだら墓へは埋めぬ、 焼いて粉(こ)にしてお茶で飲む。私死んだら墓へは行かぬ、独創の自作の中で生き抜いて 、萬人の心の糧となる。激しき修行の道を八十余年、悟りの道の一端。誇りと自信、漆藝 に喜びを感じ、歴史の一ページを飾る。 悔いなき人生に幸あり。佛陀の絶対慈悲あり、 我が藝を愛す」と乱れた書体で残されておりました。
その後発作や小康を続けていきましたが、この頃になりますと書き上げる書は全てミミズ の這っている文字であり、あれ程の名筆と仰がれた筆致はもう何処にもありませんでした 。それでも自分の藝道に関して、哲学に通づる思想は同じ文章でしっかりと綴ってありま した。

平成三年、病室住まいが続いておりましたが、日増しに衰退が激しくなっていきました。 ある日突然、様態が悪化して集中治療室へ夜中運ばれました。父の体中パイプで繋がれ、 静かに横たわっている姿にどうしようもなく声も出ませんでした。数日経ちそれでもその 状態のまま病室に戻れる事が出来ました。しかし只、小さく呼吸しているのみで身動き一 つなくベッドに横臥しているというだけの状態で、身体じゅうのパイプはそのまま、意識 は依然として戻る事はありませんでした。付き添い人と家族が絶えず言葉を掛けるも、と うとう返答は見られませんでした。あの気迫に満ちた語り口で時間経過すら忘れ、藝道を 語り続けていた父は、何処へ行ってしまったか・・・数日間は点滴のみで生命を繋いでい る身となっておりました。枕元の硯も筆もペンもノートも手付かずのまま残されており、 儚い人生の無情さに言葉なく俯くのみでした。

平成三年十一月十一日 昨晩からの急変で医師達が寝ずの治療を繰り返していた甲斐もな く、早朝静かに息を引き取りました。
享年八十七歳でありました。望み多き半ばで次から次へと消える事のなかった白翁の夢、 そして願望は本日を持って永遠に打ち消されてしまいました。多くの患いの中で白翁藝道 に邁進続けた父に心から崇拝の念を持ち、静かに合掌を致しました。

でも私は、白翁の申していた通り、白翁は永遠に自作の中に生き続けていくものと確信を していたのでした。
19/19P



1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
17 18 # 20