昭和四十八年、月日は過ぎましても病床のベッドに在りて構想を練る事は変わりなく、多くの その構想の中より一つの画材に的を集約しておりました。
埼玉県春日部に樹齢千二百年、国の特別天然記念物に指定されております我が国最大の牛島の 藤です。根元の総周囲が約九メートル、木の枝の広がりが百坪以上、年々二メートルもある房 を下げ、甘美なる香りを充満する正に藤の怪物であります。比較的体調の宜しき日を見つけて は、息子を伴い春日部通いが始まりました。暑い夏の盛りでした。
現場に着き旧家の主人にスケッチを申し込む白翁に、主人は全く素気無く断わるのでした。老 木で弱っている上に、根本にうろうろされると枯れる恐れがあるというのが主な理由でした。 白翁は自分が漆藝家である事を明かし、熱心に言葉を進めました。「貴方はそうおっしゃるけ れど、樹齢千二百年も維持したこの生命が、この先何時まで持ちこ堪えるかお考えになられた 事がありますか。
更に数千年の生命を維持する漆をもってして、この藤を永代に亙り私が生かして見せましょう 」と力説を続け説得した甲斐があり、遂に承諾を取りつける事が出来ました。
藤は酒が好きとの事で、スケッチ前に一升の酒を根の周りに撒いて「白翁の漆画でお前と勝負 をするから霊気を現せ!」ともう物に憑いたようにスケッチを続け始めたのです。この場所に 何回となく酒を持って通い、納得の行くまで徹底的にスケッチ、観察、研究の繰り返しが始ま ります。
この藤の巨木を囲むように周りに淀んだ小川があり、殆ど流れなく底には汚水や雨水、そして 泥が分厚く溜まっておりました。その小川中にぼうふらが幾千幾万となく、底と水面とを上昇 下降を繰り返し、水面はまるで雨が降っているかの様に、小川全体がぽつぽつぽつと動いてお りました。
現場に着くと同時に白翁の伴をしてきた私の顔といわず足といわず蚊がとまりだし、慌てて足 腕を動かしながら白翁を見ると、既にスケッチを繰り返しているその両腕には、蚊が気味悪い ほど付いておりました。それを払うでもなく無我夢中でスケッチを繰り返す姿には、呆れ果て る事より、寧ろ神々しく神威さえ感じてきたのでした。

四十九年に百号二枚連作・二百号の「藤の巨木」が遂に完成したのでした。
当然の事に制作の途中で何回もの発作に見舞われ、貫徹させるのは到底不可能ではないかと、 珍しく弱気の姿も見せたりしておりました。
病弱、非力である者が難しい漆という画材を使用駆使して、この様な大作を完成させるという 事に、感激を示した多くの記事がこの頃掲載されました。

後日の白翁の記に「富士・波涛・渦と挑戦して久し。日々植物とも語る。昨年壱千年以上を生 き抜きし藤の霊樹巨木と出会う。その生気霊感に打たる。この辺り一面に霊気が漂う。壱千二 百年の永きを、この世に生まれたる歴史の事実を知る。彼との問答して思う事は、人間より遥 か以上の霊波を発する、神秘の力あることの事実を知った。相対し心静かに観察する時、魂の 触れ合いを覚ゆ。一枝一花に至るまでその生命力に魅了されて、その姿のスケッチを繰り返し 大作漆画にと完成す・・・」とあります。
美術評論家の三宅正太郎氏は白翁を評して「日本の景観、日本の花木を愛着して止まぬこの藝 術家は、また仏典に座右名を探って円転滑脱の文字を刻む。
独往の作家であり伝統の継承にあえて造反する異色の作家である」と紹介されておりました。

昭和五十年 通産省・運輸省・文化庁などの主催で沖縄国際海洋博覧会を記念して「海を描く 現代絵画コンクール展」が、名誉総裁に高松宮殿下を、そして会長に中曽根康弘氏を迎え開催 されました。多くの出品の中で白翁の百号漆画「渦潮」が入選。百号という大画面一杯に怒涛 を逆巻き飛沫をあげる大渦、底知れぬエネルギーの躍動が漆の藝術によって見事に表現された 、白翁の力作でもありました。
白翁藝術の歩みは緩やかではありましたが賛同者、愛蔵者も確実に増え、名ある美術評論家達 の応援も多くなっておりました。しかしその反面、矢張り時代は変わりましても、何時の世に も必ず存在する人を陥れたり、嫌がらせや妬みそねみの数々は依然として、白翁の前に立ちは だかっておりました。
白翁は団体に属せぬ一匹狼的存在であるが故に、後ろ盾がなく弱い立場でありましたが、ひる む事なく黙々と創案創作を続けておりました。
ある評曰く「作品ごとに生命を懸け続ける姿勢は、実に純粋にして雄美なる姿であり頭の下が る思いであります。それら全てが作品の中に確実に伝わっていく筈・・・」と白翁を称える世 評もありました。

この沖縄国際海洋博に出品した「渦潮」作品になぞらえた白翁記に「人生とは何か・・・波涛 ・逆波・渦の中にあるが如し。時代の波に押し流され、波底に沈み二度と立ち上がれなければ それまでである。常に努力し波頭に立ち自己を主張する事は、制作に生きる者の宿命であり誇 りでもある。波涛と渦・・・闘争の中の挑戦、激しい力と力のぶつかり合って起こる波涛と渦 の現象は、現代社会の如し。
右に巻くか左に走るかは、その力の当たり方によって定まる。独創の藝術は歴史に挑戦する激 動の世界。人生に在りて、勝利を得たる者が正しいと主張する現代社会も、自然現象も似たり 」とあります。
また別の記に「秀れた独創の藝術を見出し、これを愛し育てて下さる人によって新しい文化は 育つ。藝術に国境はなく夢は世界を駆け巡る。文化国家を論じ口は調法大法螺吹けど裾からボ ロの垂れ下がる。あきめくら千萬居るとも問題にあらず。心眼を開きて心の技による秀れた独 創の藝術を見出し、これを愛し育ててくださる目明き三人居ればよい 目明きを求めて・・・ 」とあります。
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