百年目にあたる当日、日本の会場で盛大なる式典が行われ、アメリカ大使として選ばれたお 方はマッカーサー大使であった。当年の五月から一年間に亙り記念行事が行われた。各界の 名士多数出席の元、感謝状と共に記念作品の贈呈式が東京會舘で行われた。この作品の愛蔵 者は、アメリカ人のみ二百九十八名と、日本人では吉田茂氏と日本貿易会会長の稲垣平太郎 氏二人であった。
漆絵版画は入山白翁の創作であり、過去の歴史にはない独創なる技法によるもの・・・」と あります。

昭和四十年三月四日 有田八郎氏逝去。
港区芝愛宕・青松寺で葬儀が行われました。有田先生の体調が崩れ始めてからも暇ある毎、 先生の身辺に通い続けておりましたけれど、遂に帰らぬ人と成ってしまいました。
激しい精神的打撃を受け、白翁の体調も合わせた様に崩れ初めてしまい、夜中によく発作を 起し病院通いが頻繁となり始めました。家族皆も神経質になり、
難しい話や心配事など一切遮断して、白翁の耳に入れず静養に専念させたのでした。
その昭和四十年代(白翁六十才)、以前より相変わらずの喘息発作、呼吸困難で入退院繰り返 しの中でも、体調を見ながら制作続行でありましたが、矢張り大黒柱を失ったという精神的 打撃と連日の過労の積み重ねで、肺気腫の合併症が再悪化、真夜中に呼吸困難、血行障害を 起し救急車で、緊急入院を余儀なくされます。全く突如の出来事でしたが数日後急変し、危 篤状態に陥り家族が呼ばれました。
二日間は意識が戻りませんでしたが、皆の見守る中でこれぞ正しく奇跡の生還とも言うべき 蘇りで記憶がはっきりと戻り、私達をじっと見つめるまでに回復をみせました。必死で処置 を続けていた医師達も正に奇跡以外なにものでもない・・・といたく感激したのでした。そ の模様の記を次の様に残しております。

「白翁は一旦死す。病と自己との闘争に勝ち抜き闘魂逞しゅうして生還す」と実に白翁記す る通りの生還でありました。数日後、ベッドより家族に向かい静かにねぎらいの言葉と詫び を述べるのでした。
退院後は数ヶ月ベッド中心での休養を重ねておりましたが小悟得た後、可成りの期間ベッド で思考を重ね続けておりました。様々の案の中より次期制作を絞り富士山の制作に挑み挑戦 を続けていく事になるのです。
後日の記に「富士は日本人の心の拠り所であり、霊峰にして世界に誇りを持ちて紹介すべき である。昭和十年頃、山中湖畔籠坂峠近くの有田八郎氏の山荘に、毎年訪れ富士を描くこと 久し。過去現在に至る富士を主としたる作品多し。心に触れて山の霊感と作者の霊感と一と 成りたる時、漆にて表現せんと苦心して今日に至る。
然れども三十有余年、富士を漆画として試作制作数十点に及ぶも今だ自信作少なし。昭和四 十一年の春、小悟を得て意を決っして山中湖から望む「暁の富士」・漆画八十号に着手。病 後であれど苦心の結果完成す。快哉 快哉 昭和四十一年吉日」とあります。
この富士は後に建設会社会長宅に収まります。

昭和四十二年、長年の構想であった、福井県北部にある東尋坊を漆画として完成させる為、 是非当地へ出向きたく、普段の白翁にない行動をとり始めました。身心静養の意味を兼ね、 制作の合間を見ては自宅療養を静かに重ね続けていたのですが、次期制作構想は次から次へ と重なり、ついつい又夜中まで起きての準備が始まり出し、その事で家族との衝突も頻繁で ありました。
白翁の健康維持として、色々の注意事項を担当医から受けている家族としては、また当然の 姿勢でもあったのです。他の面では家族に心配させる様な事をあまりした事がないのですが 、こと藝術に関する内容になりますと、全く聞く耳を持たず身を捨てて没頭続けてしまうの が常でした。
そして遂に行動開始、福井県に長期滞在し膨大な資料、スケッチと共に帰京します。その後 はアトリエに篭り制作三昧を重ねるのでした。
この頃から白翁はさび漆をこねる体力がなくなっており、息子が力仕事を代わってする様に なっておりました。
白翁の記に『漆画に表現する事多し、一枚毎に心新たなり。見る所によりその時々によって 、変化は千変萬化の感あり。漆という材質と相俟って、愈々神秘に表現する事に楽しみを得 る。上野美術学校・漆工科卒の翌年、昭和九年に漆藝の古典研究と漢時代の遺品、そして朝 鮮楽浪の研究に平壌に渡り、続いて慶洲佛国寺、金剛山に遊ぶ。その山肌の奇岩を漆画に表 現せんとするも、力及ばず。三十有余年後にして昭和四十二年、同系の岩肌岩盤を持つ福井 県東尋坊を訪れ、スケッチを繰り返しこれを各号の漆画に完成せり。
続いて翌四十三年三月、淡路島に渡り大渦との挑戦を開始する事が出来た。
漆画各号の「大渦」「波涛」「怒涛」などを次々に完成。然れどもその活躍の間にも呼吸困 難、血行障害で病院自宅療養の反復であった』とあります。
この後、可成りの月日を要し静養せざるを得なくなりますが、相も変わらず少し小康得ます と制作を始め、そして発作が頻繁に現れる・・・との繰り返しはいつもの通りでありました 。
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