先生の申されていた事は「模倣でなく己の魂で創作していく事、古来先達の残した名作に絶え ず触れその魂を汲み取れ、駄作に幾ら接しても得ること無し・・・時あらば名作に常に接して いく様に、古い最高のものを研究し、それを踏まえて己の制作に打ち込め!それで出来なけれ ばやめろ!」
非常に激しい精神教育を受けた事が、白翁の記に残されております。
白翁が常々思考すべく全ての精髄は、尊敬信頼する先生からの直接激烈なる励ましが元となっ ておりました。そして自分が長年探求し続けていた藝術の基礎を、新たに見い出せて行けた事 に大いなる自信を得る様になっていくのでした。

白翁が乾漆による硯に挑戦を始め出すきっかけは、山本先生に連れられ犬養木堂邸を訪問した 時から始まりました。
犬養木堂先生も、古今東西数多い名作品をお持ちで、その一つ一つを実際に肌に接しさせてく ださり、白翁の心は正にときめき感動しました。その中でも一際目に付いた石の名硯と名墨に くぎ付けになりました。将来自分の業を持って、漆による「漆硯」造りに是非挑戦してみたい と心に留めたと申します。
この事以来、乾漆硯の研究にも着手、試作・失敗を重ね体験を積んでいきます。当時の記述に 「乾漆造りは麻布を芯として漆を塗り堆ねつつ造ることを原点として臨機応変、千変万化の秘 術を盡くす」と記されております。
藝大在学中、美術工藝展に苦心の傑作「乾漆花瓶」を出品。その事に関連した記述があります 。「私が美校に入った時、天平・奈良朝・鎌倉の作品群などを多数研究してみて知った事は、 桧を台としてそこに下地を施し作成していくのですが、ややもすると外国でストーブの前など に置かれた場合、剥げたり狂ったりという事が多く出てきた事実を踏まえ、それをなくする為 の研究をしていた折、一つの発見をしました。
漆は冬場、どうしても硬くなりますので火で漆を暖め使用します。
その段階で漆が火に落ちてじくじくと煙を出して焼けたのですが、よく観察してみると焼ける 直前で、完全に固まった結晶が出来上がった事が分かりました。その事を幾度と追求して遂に 「高温乾燥法」を捕らえたのでした。摂氏二〇〇℃の熱で漆を焼きますと、漆の中に含まれて いる不純物が、完全に燃焼して漆のみで固まり、その方法を用い乾漆壺を作ったのでした」と ・・・
工芸展の審査員投票で最高点になり、作品前に直立して貞明皇后を迎え立つ記録も残されてお ります。
乾漆壺制作で、一本の鉄棒より制作していく方法もある事を白翁より聞いたことがあります。 一本の鉄棒に各太さの幾通りの藁を駆使し、硬く強く巻き軽く叩きながら作者の希望する壺型 にと丁寧に仕上げていく。原型仕上がった後表面を糊で固め、乾燥させながら上部表面を更に 平らに整え、漆さび(砥の粉を水で硬く練った中に生漆を徐々によく混ぜ合わせ、使用する作 品に合わせて濃度を調節して作った物)を壺全体にへらで延ばし乾燥を待ち、更に漆さびを全 体均等に延ばしていく。この繰り返しで壺の厚さを作り、一通りこの行程が終わった後、次の 二通り何れかの方法で制作を進めていく。一つの方法は鉄棒が付いたまま水に浸しておくと糊 が溶け、藁がばらばらに解けて乾漆だけの壺原型が出来る。
他の一つの方法は鉄棒ごと窯に入れ、焼入れし巻いている藁を全て焼き尽くし、乾漆壺の原型 を取り出すという方法である。この原型の壺の上に漆を幾度も施し、焼入れを繰り返し乾漆壺 を完成していく。そしてよく墨研ぎをした後その表面に草花や模様を色彩漆で描き、ある時は 金・銀を使用して仕上げ更に焼き入れ乾燥後、砥ぎ出して完成させる。
当年美校三年の作品で「乾漆盆」は、横山大観先生が愛蔵品とされました。

昭和七年、美術協会展に出品し入選を果たしております。
白翁の記で「美校四年の夏、学校の休みを利用して数点の創作壺などを持参して、学費に替え たいと板谷波山先生に相談すると、快く長岡の井口庄蔵氏と山口健蔵氏と目黒十郎氏の三人に ご紹介くださる紹介状を頂く。それを持参して長岡駅に向かう」と記されてあります。
当時学資に苦労し自作を納める為先生方にお願いしておりました。

昭和八年、美術学校漆工科首席にて卒業。卒業制作品は最高点にて文部省買い上げとなります 。
この頃山本先生より、当時の廣田内閣で外務大臣でありました有田八郎先生(山本先生の実弟) を引き合わされ、それ以来有田先生からも絶大の信頼を頂き、個人秘書として先生の身辺に絶 えず影の様に付き添う事が多くなります。記述の中に白翁の信条である「藝術の根本精神は人 に在り、創作は歴史に挑戦であり秀れたる独創の藝術で勝負する」の銘に先生大いに共鳴さる と記されてあります。三人の息子の名前全て有田先生が名付け親となっております。
白翁の斬新なる作品類(金胎乾漆屏風・乾漆のみによる屏風・宝石箪笥・棗類・乾漆花瓶)は 有田先生ご推薦で芦屋や京都方面など、関西の政財界の人達や美術コレクターに紹介され、次 々納まって行きましたのはこの頃であります。
特に白翁苦心の宝石箪笥(総梨子地・菊高蒔絵)は当時としては本格的最高漆藝により檜良材を 素地として総布着せ下地二十五回を施し、人の手に頼らず全てが作者の手によるものでありま した。綿布で大成功を収めました京都の大野木秀次郎氏は、高価な屏風や宝石箪笥、蒔絵硯箱 などを、あれと此れとそっちを貰う・・・と数々の作品類を一度にお買い上げになられ、当時 は正にそんな世の中であったそうです。
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