幼少より佛心を生じ信仰心を深めながら、次々と自分の生み出す制作品の中に魂を打ち込める 姿勢が、平太郎の中に徐々に育っていきました。十五才の頃より漆の芸術を愛する心は増すば かりで、根本から学びたいと常に念じ、本格的に漆の芸術を目指し修行に入り、技術を身に付 けて行こうと決心致しました。
丁度その十五才の時、漆藝家の所へ小僧として入ります。その頃に「白翁浄隆居士」と言う法 名を生存中に持つ祖父から、白翁の称号を授かりました。
法禅哲理の識者であった祖父は、平太郎にこれからも藝術を真剣に学び、邁進する様にと諭し たとの事でありました。
この時から平太郎は「白翁」名を雅号とする事を決めたのでした。
大正九年より十三年まで新潟市高橋に竹塗・変塗などの指導を受け、新たなる技術を磨き技能 を積み重ねつつ修得に励みました。朝は誰よりも早く夜遅くまで、一心不乱に仕え技を盗み、 自分なりに工夫を加え研究努力を重ねておりました。前々からの考え通り田舎や県内で留まっ ていたのなら、これ以上の技術を身に付け発展する事は望めぬのでは・・・との不安は年を重 ねるにつれ多くなり、物真似でない独自の藝術を切り開き、制作して行きたいとの願望が高ま っていきました。そして遂に両親を懇々と説得して一人東京に旅立ちます。こうと決めた意志 の強さは並みのものではなかったのでした。
白翁が幼き頃から父や祖父よりよく聞いていた曹洞宗の僧・良寛がとても好きでした。諸国を 行脚し生涯寺を持たず後年故郷の五合庵に隠居、俗世を離れ独自の枯淡なる境地に生きた、良 寛の生き様を子供心に何か惹かれるものを感じていたのでしょうか。良寛はこの中ノ口川を生 涯愛し、川の堤防に咲く桃の花を多くの漢詩で詠んでもおります。
その様な環境の中で何処かに通じ合えるものを持っていたのでしょう。

一応の乾漆造り技法を修得し大正十五年上京、親戚近くの牛込弁天町に下宿を探し、そこを本 拠としていよいよ長年の夢であり、そして永遠の目標でもあった究極の藝術へと歩み始めるの でした。小僧以外専門の先生についたという記録は、新潟の高橋以外はなく全て暗中模索、試 行錯誤の繰り返しでした。
その中より独学による独自の研究から全ての出発が始まっていたのでした。
専門的の知識を得る為、各方面に研究努力を重ね続け、遂に昭和三年上野東京美術学校(現、 東京芸術大学)漆工科に入学を果たします。在学中も斬新なる藝術を追求、同期生と共に永遠 なる藝術、文化そして美の本質、伝統の美へと、話題が尽きる事なく大いに論議し呑み語り、 生き甲斐を感じていた時代でもありました。
思い返せば十五〜十六才の頃、既に従来の漆藝に対しある疑問を抱き続けておりました。それ は「漆藝」に於いて生地を作る専門家がいて、下地を施す専門家、そして塗りの専門家にと渡 り完成させていきますが更にその上に、蒔絵を施す作家がいるという行程が、どうにも理解納 得出来なかったのでした。名を残す作家となるべきは、全て自身の手による制作でなくて何で あろう・・・と所謂職人芸で終わりたくなく、自分自身が全て体得し纏めていかねばならぬと の考えのもと、僅か十五〜十六才にしては可成りの創作品を完成して周囲を吃驚させておりま した。そういう意味合いの自己主張も、このとき大いに論じたのでした。
この頃の記に「昭和三年美術学生の時は、牛込弁天町の下宿から都電に乗り上野東照宮下で下 車し、公園を抜けて学校に通っていた。正木直彦校長のお宅は矢来町下にあり、時々対問指導 を受ける。上野池之端に横山大観先生のお宅あり。そこに竹越眞三夫君(白翁とは大の友人) が書生をしていたが、時々学校の帰りに立ち寄り色々の話を先生より聞いていた。
岡倉天心先生の事など良く聞かされた。また陶工で板谷波山先生にもよく指導を受ける。私は ずっと苦学が続いたが、上京するまで十五才の時より漆藝家に入門し、一応の「漆藝」を修得 していたので、自由なる創作小品は纏められていた。それら多くを日本橋三越美術部に委託し ていたのだが、良く売れるので私の学費は出た。珍しい創作漆藝であるというので実に良く売 れた。しかも高値であった」とあります。
今までの自分の考え、行動にまだ納得のいかぬ不安を感じていた折、当時の農林大臣・山本悌 二郎氏の生き方に以前より尊敬憧れを抱いていた白翁は、先生に直接ご指導を仰ぎたく、意を 決っして官邸に押しかけたのでした。秘書官より当然のごとく門前払いをされたのですが、自 分の描く理念理想をとうとうと述べ、長き押し問答を繰り返し一歩も引きませんでした。やが てその事が先生の耳に入り、遂には直接山本大臣と対問が叶えられる事となるのでした。秘書 官が精も根も疲れ果て、先生に直接お伺いを立てたのでした。秘書より色々伝えられた事を聞 き、筋の通った少し変わった人間が来たと思い、面会を許したとの事でした。
山本大臣は開口一番「白翁というのは君の親父の事か」と尋ねられ、白翁は即座胸を張り「い え、私です」との気迫ある返答が大いに大臣に気に入られ「面白い奴だ!来い」と自室に招か れました。
それ以来木戸御免のお付き合いをさせていただく事になり、目黒五本木にあった私邸にも自由 に出入り出来る様になりました。以後先生より奥深い藝術、そして深淵なる精神を、直接のご 指導で受け続けられる様になるのでした。
山本氏の美術コレクションは当時としてはそれは大変なもので、中でも中国の名品が数多く占 めておりました。
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