父、入山白翁(本名、平太郎)は新潟県白根町(白根町から白根市となり二〇〇五年に新潟 市に編入されて消滅)に明治三十七年一月に生まれました。
一子で兄弟はありません。白根町は、信濃川と中ノ口川に囲まれる中州の大部分を占め、 当時から穀物のほか果樹などの農業が盛んであった。
白根町は大凧合戦でも有名なる地で、町に流れる中ノ口川を挟み両岸の各町内ごとに、そ れぞれの武将や絵文字などを描いた大凧を揚げ、上空で絡ませ両岸より大勢の勇士達が、 引き合いぶち切り競う壮絶なるその行事を、平太郎は子供の頃から心待ち楽しみながら待 っておりました。
その中ノ口川は江戸時代に掘られた運河で、白根町の北に向かって直進し、新潟市を還流 して日本海に流れ込む川で、平太郎が幼少の頃より泳ぎ遊んだ、切っても切れぬ縁ある川 でもあります。大凧合戦が始まる六月になると、天候や風向などでその日の合戦が始まる 合図として、朝方花火が打ち鳴らされ学校は休校となります。その花火音で勉強中の生徒 達が、一斉に歓声を上げ校舎を我れ先に走り出たものと、思い出し話によく語っておりま した。
平太郎は白根小学校に明治四十三年四月に入学、大正五年三月に卒業しております。
(この凧合戦は江戸時代の中頃、中ノ口川の堤防改修工事の完成祝いに、白根側の人が凧 を揚げたところ、対岸の西白根側に凧が落ち、田畑を荒らした事に腹を立てた西白根側の 人が、対抗して凧を白根側に叩きつけた事が起源と伝えられております。このため凧が相 手側に向かって揚がるように工夫されており、更に改良を加え現在に至っております)

米処の新潟に位置する白根町は、当然回りは畑や田んぼ、畔道や堀などに囲まれ、町の外 輪は青々樹木のこんもり生い茂る森や林が点在しておりました。その環境の中で幼き頃よ りこの自然と一体となり、夢中になって友と遊んでおりました。また当時の平太郎は近所 の子らと共に、堀や川に魚釣りに興じ(鮒・鯉・どじょうなどをバケツに一杯に取り)又 小川や沼でめだか・田螺・鯰取りに、夏や秋は蝉取りに興じ鬼ヤンマ・しおから・赤蜻蛉 そして、昆虫採集に夢中にと過す田舎ならではの生活に明け暮れ育ちました。
白根町は昔から白根仏壇が有名で、漆を扱う職人達も多くおりました。
「塗師屋・ヌシヤ」といわれる漆器を製造販売する人、塗りを専門とする人などの家も多 くありました。平太郎の父も又漆に携わる仕事をしている人で、実に誠実な正直者であっ たとの事でした。その父は作家というより、持ち前の技術を生かし漆関係の仕事に通じそ の特技を生かし制作する職人肌の人でした。依頼されたものはより正確丁寧に、完成させ る手先の器用な人で、漆塗りや工芸品に至るまで所謂、名人技を持つ人と言われておりま した。
平太郎は幼少の頃から、当然家に常備されていた多種多様の漆や漆芸具、そして金・銀・ 金粉・銀粉や金箔・銀箔・顔料・砥の粉・砥ぎ出し用炭や多くの筆・刷毛類の中で育ちま した。その関係で全く違和感なく家の環境に溶け込んでおり、父の仕事を毎日それとなく 接っしていただけなのですが、何時しか漆に対する興味が自然に身に付いていった部分も あると考えられます。
あのとろりとした褐色の樹液より、父が生み出す見事な品々の中で生活続けて行く内自然 と子供心に、自分でも何かを作り出したいとの創作意欲が湧き始め、興味本位で父の仕事 を横でじっと座って見ている日が生じ始めたと申します。
父は決して平太郎に手を取り教える事はなく、黙々と作業を続ける人であったそうです。
父は職人肌の無口の人でした。「技術は自分で会得せよ。物真似でなく自分の技を身に付 けよ」との暗黙の教えの中で平太郎は只、父の横に座って仕事を見守り続けていたそうで す。更にその折々に「技は盗んで身に付けよ」と同じ事を何回と重ね教えていたとの事で す。平太郎が十二〜十三の頃、見よう見真似で制作したものが既に一家を成していたと言 う事を、父方血縁の叔父が知り合いの人達に伝えていたと申します。平太郎は父譲りの頑 張り屋で探究心・制作意欲も旺盛で、ついつい夢中になり寝食を忘れ打ち込むところなど 、実に父によく似ておりました。
幼少にして大人が驚き誉め称える品々を、同じ様な手法で制作していく内、子供心に何か 見たされぬ疑問・不満が心に溜まり出し始めました。何時の日か父の仕事を継いだところ で、こんな小さな田舎の町でせいぜい近所の人々の誉め言葉や賞賛を聞いているだけで、 自分本来の技がこれ以上に出る事はまずないと、幼いながらもそう考える様になっていっ たとの事でした。

平太郎の母は信心深い人で、新潟県胎内市に在する乙宝寺に幾度となく通い、その都度平 太郎を連れて行くのが常でした。
七三六年(天平八年)創建の古刹で、境内には国指定重要文化財の三重塔や六角堂・弁天堂 ・観音堂・地蔵堂などが建ち並ぶ由緒ある寺であります。(本尊は大日如来で薬師三尊が あります。波羅門僧正が印度より釈迦左眼の舎利を持参され、行基菩薩と共に乙宝寺を建 立されました)
平太郎が十歳の頃、例により母に連れられ乙宝寺参りの際、佛眼舎利宝塔の中に安置され ております仏舎利(釈迦左眼の骨が収められております)の前で異様なる霊感を受けたと 申します。母より繰り返し聞いていた釈迦説話に心を奪われ、憧れていた平太郎がその仏 舎利の前で釈迦の弟子になる事を心に誓った、と平太郎の手記に幾度となく書き残されて おります。
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