■幕末人物セレクション 歴史探訪録 人物編
新政府軍に激闘を挑んだ、北越の龍
文・泪橋渡

■氏名/河井秋義

<通称>継之助、<雅号>蒼龍窟

■生没年/文政10年〜慶応4年(1827〜68)

■所属/長岡藩士〜外様吟味役〜物頭御用人〜中ノ口川普請掛〜番頭格付町奉行〜郡奉行〜奉行役・家老役〜執政・軍事総督

民政家としての実力を発揮

  

 慶応元年継之助は外様吟味役となり、「山中事件」を取り扱う。小作人・庄屋間の紛争が前任時代から続き、困難を極めると思われていたこの騒動を喧嘩両成敗の形で解決に導く。この手腕が評価され郡奉行に抜擢されるのである。継之助のまず目指したものは、藩財政の建て直しだった。この時代に至って長岡藩の借財は14万両もあり、破産状態となっていたのである。彼は治水工事や農業生産増大のための行法を改定し、さらに様々な産業振興策を制定するなど目覚しい改革を続ける。また、奉行として慣例となっていた祝儀・賂などは一切受け取らず、腐敗役人は容赦なく処罰していくのである。

 その後町奉行、そして家老役に立身する過程では、学制改革・兵制改革・禄高改正・風紀改正など大胆に旧秩序を変革していくのである。まさに長岡藩における富国強兵策であった。この改革には当然反発もあり次のような歌が流行ったという。

「可愛い可愛い(河井河井)と今朝まで思い、今は愛想も継之助」
継之助本人に洋学の素養はありません。しかし藩内の小山良運(適塾出身)や、幕臣の福地桜知、また外国商館のファブブランド、怪商スネルなど西洋通・西洋人との交際を持ち、西洋の合理主義・思想を理解していたようです。というより藩の強化方法を西洋の合理主義に求めたといった方がいいかもしれません。彼は「武家の家を“弓馬の家”というが、これからは“砲艦の家”というべきだ」と言い、その一方で「いずれ武士などというものはこの世から消える。これからは商人の時代だ」とも語っています。現に新時代のための新しい体制作りに着手していました。

  

砕け散った武装中立の夢

  

 薩長は好かない、かといって新政府に逆らうつもりも無い、しかし徳川に弓を引けない…、これが大政奉還後の長岡藩の立場であった。継之助はこの環境下、最も困難な選択をする。それは武装中立である。慶応4年5月2日小千谷における官軍軍監岩村精一郎との会見で、継之助は中立を申し出るのである。後木戸孝允から「キョロマ」と呼ばれたほど短慮な岩村は、この要請を言下に拒絶した。これが戊辰戦争中もっとも激戦となる北越戦争が幕開けであった。

 継之助は奥羽列藩同盟に加盟。もはや名誉を守るだけの戦いに長岡藩を投じる覚悟を決めたのである。この戦いの詳細は割愛するが、継之助は戦のできる男でもあった。何度も官軍を敗走させ、新政府にとって小千谷会談は痛恨の一事となったのである。

 

腰抜け武士の越す峠

  

 継之助は7月24日の戦闘で足に銃弾を受け負傷する。不衛生な戦場の中日に日に病状は悪化し、ついに長岡を撤退する事になる。戸板に乗せられ会津に落ち延びる途中自らを自嘲して詠んだ歌が「八十里、腰抜け武士の越す峠」である。そして8月16日継之助はこの世を去る。死の間際従僕の松蔵を枕元に呼び自分の死骸を火葬にするよう申し付け、かつてない優しい顔で「長々ありがたかったでや」とこの忠実な従僕の労をねぎらったという。

 新時代への夢も、武装中立の夢も全てが終わった。

継之助の行動には幾つかの矛盾があります。時代の流れが読めていたのに、政府軍へ戦いを挑み長岡を戦火にまみれさせた点などはその際たるものでしょう。長岡市民は彼を恨み怨嗟の声は絶えなかったといいます。

また、小千谷会談においての継之助の申し入れは、嘆願というより脅迫に近い内容で、相手が仮に西郷であっても回答は同じであったという見方も有力です。彼の業績に影を落とすのはただ一点、この北越戦争を巻き起こしてしまった点です。「10年早く、または10年遅く生まれてきて欲しかった人物」といえるかもしれません。「明治政府初期の2大失政は、河井継之助と小栗忠順の2人を死に至らしめたこと」と、多くの史家が口を揃えます。蒼龍窟はそれほどの逸材でした。

★「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」(司馬遼太郎著・「英雄児」より)