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薩長は好かない、かといって新政府に逆らうつもりも無い、しかし徳川に弓を引けない…、これが大政奉還後の長岡藩の立場であった。継之助はこの環境下、最も困難な選択をする。それは武装中立である。慶応4年5月2日小千谷における官軍軍監岩村精一郎との会見で、継之助は中立を申し出るのである。後木戸孝允から「キョロマ」と呼ばれたほど短慮な岩村は、この要請を言下に拒絶した。これが戊辰戦争中もっとも激戦となる北越戦争が幕開けであった。
継之助は奥羽列藩同盟に加盟。もはや名誉を守るだけの戦いに長岡藩を投じる覚悟を決めたのである。この戦いの詳細は割愛するが、継之助は戦のできる男でもあった。何度も官軍を敗走させ、新政府にとって小千谷会談は痛恨の一事となったのである。
継之助は7月24日の戦闘で足に銃弾を受け負傷する。不衛生な戦場の中日に日に病状は悪化し、ついに長岡を撤退する事になる。戸板に乗せられ会津に落ち延びる途中自らを自嘲して詠んだ歌が「八十里、腰抜け武士の越す峠」である。そして8月16日継之助はこの世を去る。死の間際従僕の松蔵を枕元に呼び自分の死骸を火葬にするよう申し付け、かつてない優しい顔で「長々ありがたかったでや」とこの忠実な従僕の労をねぎらったという。
新時代への夢も、武装中立の夢も全てが終わった。
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★継之助の行動には幾つかの矛盾があります。時代の流れが読めていたのに、政府軍へ戦いを挑み長岡を戦火にまみれさせた点などはその際たるものでしょう。長岡市民は彼を恨み怨嗟の声は絶えなかったといいます。
★また、小千谷会談においての継之助の申し入れは、嘆願というより脅迫に近い内容で、相手が仮に西郷であっても回答は同じであったという見方も有力です。彼の業績に影を落とすのはただ一点、この北越戦争を巻き起こしてしまった点です。「10年早く、または10年遅く生まれてきて欲しかった人物」といえるかもしれません。「明治政府初期の2大失政は、河井継之助と小栗忠順の2人を死に至らしめたこと」と、多くの史家が口を揃えます。蒼龍窟はそれほどの逸材でした。
★「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」(司馬遼太郎著・「英雄児」より)
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