■幕末人物セレクション 歴史探訪録 人物編
新政府軍に激闘を挑んだ、北越の龍
文・泪橋渡

■氏名/河井秋義

<通称>継之助、<雅号>蒼龍窟

■生没年/文政10年〜慶応4年(1827〜68)

■所属/長岡藩士〜外様吟味役〜物頭御用人〜中ノ口川普請掛〜番頭格付町奉行〜郡奉行〜奉行役・家老役〜執政・軍事総督

●蒼龍、長岡藩に誕生

 

 河井継之助は、政戦両面に傑出した能力を発揮した幕末の一英傑である。僅か7万4千石という僻地の小さな譜代藩である長岡藩に生まれたことが、彼の悲劇の始まりであったと言えば、悲壮に過ぎるかもしれない。

 継之助は文政10年河井代右衛門の長男として生まれている。幼少の頃から、武家に禁止されている庶民の盆踊りに変装して参加したり、武術・学問も決められた型を学ぼうとせず、何事にも自己流を通すという骨太さを持っていたようである。18歳の時、王陽明を祀り「国のために尽くす志」を立てた彼がまず行なった事は、「己が何であるか」を求める学問であった。
彼の精神根底にある思想は「陽明学」です。ご存知のように陽明学は「知行合一」(学問は行動に移してはじめて完成するという考え方)が基本となっており、この陽明学徒であったことが後年の悲劇を呼び込んだのかもしれません。

   

●師を模索した青年期

 

 藩の許可を得て長岡を発った継之助は、大垣藩士斎藤拙堂の門に入りその後古賀謹一郎の「久敬舎」に移った。また同時に佐久間象山に学んでもいる。継之助は師象山について「佐久間先生は偉いことは偉いが、どうにも腹に据えかねるところがある」と評している。この辺は同じく象山に師事した吉田松陰と違い、冷静に人物を見極めていると言えよう。決して盲目的に崇拝することなく、自分にプラスになる部分だけを殊勝に学んでいくという姿勢は、幼少時の学問への取り組みと変わっていない。

 江戸から一旦帰国したものの、継之助は再び遊学の旅に出る。今度は備中松山藩の山田方谷を訪ねるのである。農政家・教育家として名高い方谷は農民から家老職へと栄進した封建時代には稀有な存在であり、また多忙でもあった。そのため継之助の入門願いも一度は拒否をしたが、継之助は「先生の仕事振りを見に来たのです。講義は一切無用」と言い、入門を許可されたという。

継之助という人は、佐久間象山に似た部分も持っています。自分の上に人を頂かない、平たく言えば常に自分が一番でないと気がすまないタイプですね。この頃から彼は藩のお役目も頂戴し始めるのですが、なかなか長続きしません。後年執政となり長岡藩の政治・軍事を一手に引き受ける継之助は、やはり人の上に立つべくして生まれた人物なのでしょう。