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藩の許可を得て長岡を発った継之助は、大垣藩士斎藤拙堂の門に入りその後古賀謹一郎の「久敬舎」に移った。また同時に佐久間象山に学んでもいる。継之助は師象山について「佐久間先生は偉いことは偉いが、どうにも腹に据えかねるところがある」と評している。この辺は同じく象山に師事した吉田松陰と違い、冷静に人物を見極めていると言えよう。決して盲目的に崇拝することなく、自分にプラスになる部分だけを殊勝に学んでいくという姿勢は、幼少時の学問への取り組みと変わっていない。
江戸から一旦帰国したものの、継之助は再び遊学の旅に出る。今度は備中松山藩の山田方谷を訪ねるのである。農政家・教育家として名高い方谷は農民から家老職へと栄進した封建時代には稀有な存在であり、また多忙でもあった。そのため継之助の入門願いも一度は拒否をしたが、継之助は「先生の仕事振りを見に来たのです。講義は一切無用」と言い、入門を許可されたという。
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★継之助という人は、佐久間象山に似た部分も持っています。自分の上に人を頂かない、平たく言えば常に自分が一番でないと気がすまないタイプですね。この頃から彼は藩のお役目も頂戴し始めるのですが、なかなか長続きしません。後年執政となり長岡藩の政治・軍事を一手に引き受ける継之助は、やはり人の上に立つべくして生まれた人物なのでしょう。 |
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