【孤高の人 前田智徳】

 

 

「一つだけわかっていることは、前田智徳は前田智徳を越えられない、その事実だけです」

 この言葉に刻まれている彼の無念の思いは、我々の想像を遥かに超えている。

 前田智徳30歳。

 1989年、ドラフト4位で広島東洋カープに契約金4000万円、年俸480万円で入団。

 天才の名を欲しいままにした1995年、悪夢のアキレス腱断裂。

 奇跡の復帰後、後遺症・度重なる故障に悩まされながら、前田は闘っている。

--- 天才彗星の如く ---


 1990年、当時は第一次山本浩二政権。俊足・好守と定評のあった高卒ルーキー前田を軽い気持ちでオープン戦に抜擢したことが、この天才の運命を変えた。プロデビュー戦となったこの試合で前田は、2塁打を4本含む5打数5安打。この活躍ぶりに驚いた山本監督は、すぐに一軍帯同を取り決めたのだった。

  

【アキレス腱断裂以前の前田智徳成績】

  試合 打数 安打 打率 打点 本塁打 盗塁 備考
1990年 56 43 11 256 5 0 4  
1991年 129 395 107 271 25 4 14 Gグラブ賞
1992年 130 493 152 308 89 19 18 ベストナイン・Gグラブ賞
1993年 131 499 158 317 70 27 10 ベストナイン・Gグラブ賞
1994年 123 492 158 327 66 20 4 ベストナイン・Gグラブ賞

 

 2年目には早くもレギュラーを獲得。3年目にはついに3割打者となる。前田の求道的な姿勢はデビュー当時から見られた。スポーツライター二宮清純氏の「理想の打球は?」という問いに、「ファールならありますね」と答えた話は有名である。そして、そのインタビューの締めくくりとして

「理想の打球への夢は簡単に諦めたくはない。そのこだわりがなくなったら、僕はおしまいでしょう」と語っている。その後二十歳そこそこで、このような老成した台詞をはいた選手はいない。

 

--- 前田 伝説の涙 ---


 1992年9月13日東京ドームで行なわれた<巨人−広島24回戦>。広島の先発は200勝まであと2勝に迫った北別府学。スコアは1−0広島がリードで5回裏の巨人の攻撃を迎えた。2アウト後、2番川相昌弘の放った打球はセンターへライナー性の当たり。突っ込んできたセンター前田は、ダイレクトで捕球しようとしたが後逸。打球がフェンスの方へ転がっている間に打者川相はホームまで生還。広島は同点に追いつかれ、結局北別府は勝利投手の権利を失ってしまったのだった。

 記録に前田のエラーはつかず、川相のランニングホームランとなった。このプレーの直後、テレビカメラが前田の表情を捉えたが、前田は流れる涙を止められなかった。
 そして1−1で迎えた8回表の広島の攻撃。1アウトランナー1塁で3番前田が打席に立つ。石毛博文投手(現・近鉄)がボールカウント2−2から投じたの5球目。フルスイングで捕らえた打球はライトスタンド最上段に突き刺さった。涙を拭いながらベースをまわる前田。これが決勝2ランとなり広島が3−1で勝利する。だが、試合終了後のヒーローインタビューに前田は姿を現わさなかった。戸惑ったアナウンサーが説明する。

「前田選手はお立ち台に立ちたくないと言っています。自分のミスで同点にされ、その後にいくら決勝本塁打を放ったからといって、その男がヒーローになるのはおかしい、という理由だそうです。」

 補足すると、ホームランを打った後の涙は嬉し涙ではない。その真相は「ミスを犯した直後の打席」でセンターフライに倒れたことに遠因している。

「ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表)で、センターフライに倒れてしまった。あそこで打てなかった自分は本物じゃない。そのことに腹が立って泣いたんです。最後にホームランを打ったところで自分のミスは消えない。あの日、自分は負けたんです。」

 この日解説の掛布氏が興奮し「鳥肌が立った」と評した、この涙の決勝ホームラン。

 この試合をきっかけに前田ファンになった人は多い。