ピンクの雪が降ったら・・・


『ピンクの雪が降ったら願いがかなう』   

 子供のころ、何度も読んでもらった童話でそう書いてあった。

 本を読んでくれたのは、十一歳上のお隣に住んでるお兄ちゃん。

 三歳の頃には、私の望みなんて決まっていた。

 お兄ちゃんのお嫁さんになりたい   

 だけど、十一の溝は大きい。

 私がようやく小学校に入れば、彼は既に高校三年生。

 私が小学生の間に、彼は大学と大学院を出て、中学に入る頃には立派な社会人になっていた。

 何時も、何時も追いかけていた。

 手を伸ばしていた。

 だけど、彼のお隣にいるのは、いつも、私より大人で、綺麗な女性たち。何人の女性が彼の傍らにいただろうか。

 その度に、私は何時も苦しかった。今だって苦しい。

 早く大人になりたくてたまらなくて、私は、いつも、走っていた。お兄ちゃんは「こけるからやめろ」と、よく笑って言ってくれたけれども、私は走るのを中々止めることは出来なかった。

 お兄ちゃんがあんなに言わなければ、今ごろ私はマラソンの選手になっていたかもしれないと思うほど、走っていた。

 彼との“十一”の差を埋めるには、そうするしかないような気がしていたから。

 そして、私は今ようやく十七歳になった。

 お兄ちゃんの傍らには、相変わらず、私よりも大人で綺麗な女性がいる。結婚の噂もある。

 だから私は諦めたくない。

 最後の賭けをしてみたい    

 

「アリオスくん、いよいよ結婚するかもねえ…」

「え!?」

 聞き捨てならない言葉に、アンジェリークは息を呑む。心臓の鼓動が激しさを増し、まるで飛び出してしまうのではないかと思ってしまう。何とか心の動揺を知られたくなくて、アンジェリークは母親に、引きつった笑顔を返した。

「・・・いつ?」

「まだ正式に決まってないらしいけれど、何でも海外に三月から三年間の予定で赴任するらしくてね…」

 母親は、感慨深げに離しながら、ジャガイモの皮をむいている。

「…で、お嫁さんも連れていくの…?」

「あ、そうなるだろうって、みんな言ってるわよ」

「そう…」

 アンジェリークの顔色は蒼白になり、自分で平静を保とうとしているのにも拘らず、体を震わせていた。

「アンジェ…」

 幼い頃からの彼女の気持ちを知っていてか、母親は細い肩を抱いてやる。その暖かさが、今のアンジェリークには必要だった。

「…大好きなお兄ちゃんから卒業しなくちゃならないわね?」

 アンジェリークは、何も答えることが出来ずに、ただ唇をかみ締めることしか出来ない。

(いつか…、いつか…、こういう日が来ることは判ってた…。だからこそ、その日が来るのがこんなに辛いなんて…)

「お母さん、ちょっと部屋に戻っていい?」

「ええ」

 娘の気持ちを察してくれ、母親は背中をぽんと叩いてキッチンから送り出してやる。その背中は、まるで、小さな子供のようで、母親は胸を痛めた。

 部屋に戻り、アンジェリークはベッドに横たわり、止め処となく溢れ始める涙を抑えきることが出来ない。

(たまに映画に連れて行ってもらったり、ご飯を一緒に食べに行ったりして、私に、小さな恋人気分を味合わせてくれた。

 けれども、私がちゃんとした“恋人”に昇格することは今まで一度だってなかった。いつも“妹”。

 大切な部分で心は許してもらえなかった…)

 アンジェリークは、肩を震わせ、唇をかみ締める。

(確かめたい。アリオスおにいちゃんの口から。本人から聞かない限りは、確信にはならないから…)

 ベッドから起き上がると、アンジェリークは、涙でいっぱいの目をこすって、何とか見える形にすると、自転車のカギを手にとり、部屋から出て行く。

「どこいくの!?」

「ちょっと!」

 それだけを答えると、彼女は、家を出て自転車に乗り込み、アリオスが住むマンションへと向かった    

(又聞だもん。ちゃんとおにいちゃんの口から聞いたわけじゃない)

 今彼女がすがれるのは、まさにそれだけ。望みを託して、冬の冷たい風に晒されながら、自転車をこぐ。

 アリオスの住むマンションは、いかにも若きエリートが住むようなところで、とても立派だ。

 外観には不釣合いのところに自転車を置くと、アンジェリークは、一度、アリオスの部屋にインターホンを押してみた。だが一向に返事はなく、結局、吹きざらしの玄関先で、彼を待つことにした。オートロックのせいか、そうせざるを得なかった。

 手が悴んでくるのを何とかすり合わせることで回避し、アンジェリークは白い息を吐きながら、アリオスを待ち続けた。

 体の芯が冷え始め、がたがたと震えが始まってくる。

(もうちょっとだから…)

 自分の心にそう言い聞かせて、彼女はまだ待ち続けた。

 しばらくして時計を見ると、既に八時を回っていて、ゆうに3時間はこの前で待っている。

(頭がぼうっとしてきたな…。体も熱いし…)

 アンジェリークはだんだん視界が煙ってくるのを感じながらも、それでも、アリオスを待ち続ける。

 誰かの話し声が聞こえてきて、アンジェリークはそれに耳を済ませた。

「すまなかったな?」

「でもおかげで良い物が見つけられたでしょ?」

 仲良さそうに話しているカップルの、男性のほうに、アンジェリークは明らかに耳なじみを感じる。

(アリオスお兄ちゃん…。やっぱり、噂は本当だったんだ…)

 アンジェリークが呆然と、アリオスの声を聞いていると、仲良さそうなシルエットが見えてきた。

 それがだんだん鮮明となってくるのにつれて、アンジェリークの心は崩れ落ちそうになる。

 アリオスが他の女性と仲良くしているのは、これまでも何度も目にしてきた光景。だが今回のシーンは、決定的な打撃をアンジェリークに与える。

(やっぱり、こんな遅くに女のひと連れて家に帰ってくるのは、やっぱり…)

「アンジェ、どうした?」

 一瞬、アンジェリークの思考回路は麻痺していた。アリオスに声をかけられても、うまく反応できない。

「あ…、近くまで来たから…。もう帰るね…」

 踵を返そうとしたとき、アンジェリークは一瞬体のバランスを崩す。

「アンジェ!」

 慌ててアリオスが彼女の細い腕をつかんだ。

「…」

 その腕を掴むなり、アンジェリークの体があまりにも熱く、アリオスは不機嫌そうに眉根を寄せる。

「…おまえ…、熱があるんじゃねえのか!?」

 アリオスが彼女の額に触れようとして、あからさまにアンジェリークはそれを拒む。

「いやっ!」

「アンジェ!」

 アリオスはさらにアンジェリークの体を掴んで離さないようにする。だが、彼女は彼の腕から逃げようと必死になる。

「…離して…」

 潤んだ瞳を向けられ、切なく呟く彼女に、アリオスは胸の奥を掴まれるような衝動を覚えた。

「送る」

「いい…。自分で帰れる…」

「そんな体で、帰れるわけがねえだろ!?」

 いつもと違い、彼女は強く自分を拒絶するものだから、アリオスはさらに苛立たしくなる。

「車に乗れ!」

「自転車があるもん!」

「そんな体で、自転車なんかに乗ったら、事故になる」

「いいもん…」

 小さく囁かれた、切ない響きを持つ言葉が、アリオスの苛立ちをさらに増倍させる。

「勝手にしろ!」

「…うん…、勝手にする…」

 体が離された瞬間、アンジェリークはやはりよろめき、自分では立つのがやっとの状態だった。

 アリオスは怒りのあまり踵を返し、女とともに車に向かう。

「いいの? 大事な子でしょ?」

「勝手にしたらいい…。あんたを、オリヴィエのところに送り届けなきゃならねえしな」

アリオスが背を向けてくれたことに少しだけ安心して、アンジェリークはふらふらと自転車を取りに行き、カギを差し込もうとするが、熱で指先がうまく動かなくなっている。

(もうちょっとだから…、アンジェ…、もうちょっと我慢したらお家だから…)

 アリオスのマンションからだと、アンジェリークの家は自転車で十五分ほど。

 彼女は何度も息を早くしながら、やっとのことで自転車のカギを開け、それに乗り込もうとした。

「あっ…!」

 大きな自転車が倒れる音がして、アリオスはその瞬間走っていた。

「アンジェ!」

 そこにはハンドルを持ったまま、自転車とともに倒れこんでいるアンジェリークがいた。

 彼は慌てて彼女を起こすと、その前に屈んだ。

「ほらやっぱり送ってやる。おぶされ」

「・・・自転車・・・」

「明日には届けておいてやるから」

「いい・・・自分で・・・。アリオスおにいちゃんは一緒の女の人がいるでしょう? ちゃんとしてあげなきゃ・・・?」

 アンジェリークはそういったが、今度はアリオスが彼女をしっかりと抱いた。

「・・・!」

「おまえが俺に送ってくださいというまでは、絶対に離さねえ」

「…歩いて…」

 あくまで抵抗するアンジェリークに、アリオスはさらに腕の力を加える。

「ダメだ。若い娘がこんな時間一人で歩くのは危ねえからな」

「…だって、アリオスあの女の人のほうが、一人にしてたら危ないじゃないの…」

「一緒に車に乗せる」

「だったら…!」

 アンジェリークが先を言おうとして、アリオスの指に唇をふさがれる。

「黙れ。おとなしく送られろ」

 有無を言わせぬアリオスの視線に、アンジェリークはこれ以上、逆らうことなんて出来やしなかった。彼女はしぶしぶ頷くと、アリオスにおぶられた。

「自転車のカギは」

「刺さったまま…」

 アリオスは自転車を駐輪場に移動させると、それをとりあえずは、置いて、カギをかける。

 そのままアンジェリークを車の助手席に乗せ、シートベルトをしてやる。

「ロザリア」

「ええ」

 外にいた恋人らしい女性は、そのまま後部座席に乗る。

「代わる…から…。私が後ろに乗る…」

「いいから黙ってろ…」

 低い声でアリオスに制されて、アンジェリークはしょんぼりとしてしまう。

 彼女がすっかり黙ってしまったところで、アリオスは車を出した。車なら、十分足らずで家に着く。

 熱でぼんやりとしながら、アンジェリークは外を見つめる。そうすると、雪が降っているのが、ぼんやりとわかった。

(雪か…。なんだか、ブルーに見える…。ブルーの雪が降ったんだもん、私の恋はこれでおしまい…)

 そう思うと、考える力もどんどん萎えて来るのが判る。やがて思考が麻痺してしまい、暗闇に捕らわれるかのように彼女はゆっくりと深く瞳を閉じた。

「アンジェ、着いたぞ? アンジェ?」

 何度か声をかけたが、彼女は一向に返事をしてはこない。

「アンジェ?」

 アリオスは慌てて彼女の額を触ると、燃えるように熱かった。

「アンジェ!」

 アリオスはすぐに彼女からシートベルトをはずすと、ドアを開けて抱き上げる。

「ロザリア。悪ぃ、タクシーを呼ぶからそれに乗ってくれねえか。俺の実家はこの家の隣だから、そこで待っててくれ」

「判ったわ」

 ロザリアは、仕方がないとばかりに笑うと、アリオスの実家に向かう。

アリオスはアンジェリークを抱き上げながら、先ずは実家に行き、事情を話してタクシーを呼んでもらった。

 そのあとすぐにアンジェリークの家に行き、彼は彼女を部屋まで運んだ。

「すみませんね…! このこったら、また、御迷惑をおかけしてしまって!」

 慌てる母親に、アリオスは表情を変えずにアンジェリークをベッドに寝かしつける。

「医者を呼んでください。かなり酷いですから」

「ええ」

 アンジェリークの母親は、ばたばたと降りていき、すぐさま医者に電話をかけた。

 その間も、アリオスはアンジェリークのそばから離れず、小さな手を握り締める。顔色はすこぶる悪く、先ほどまで意地を張っていた彼女が、アリオスには愛しく感じる。

(おまえはもうこんなに大きくなっちまったんだな…。俺の膝の上で、本を読んで聞かせてやったのは、もう遠い昔なんだな…)

「アリオス君。お医者様を呼びましたから、すぐに来てくれるそうですよ?」

「そうですか」

 アリオスはそれだけを言っただけで、またアンジェリークを見つめている。

(本当にこの子を大事に思ってくれているのね…。妹のように)

 アンジェリークの母は少し暖かな微笑を浮かべると、ほんの少しだけ、二人きりにしてやった。それが、アンジェリークが一番望むことだとわかっていたから。

 

 医者が来て、アンジェリークを診察した結果、軽い肺炎だということが判り、彼女には、抗生物質などが投与された。

「重度のものではありませんから、安静にしておけば大丈夫でしょう」

 診察結果に、アリオスは少し罪悪感を覚える。

(俺がもう少し早く帰ってやっていたら…。今日に限って早く帰れたのに、俺が外で買い物をしていたから…。タイミング悪ぃよな…)

 アリオスは、少し楽そうに息をしている、アンジェリークの熱い頬に触れながら、深い謝罪の心を彼女に向けていた。

「ごめんなさい…。私が不用意なことを言ったものだから…」

「不用意?」

「アリオスくんが海外赴任に行って、結婚するかもしれないって、ついポロリと言ってしまって、この子は、それを確かめに行ったのよ…。本当にこの子にもごめんねって…」

 アンジェリークの母の言葉に、アリオスはすべてのパズルが解けたような気がした。寒空にどうして彼女が待っていたのかと、そして、熱があるのに、あんなにも頑なな態度をとったのかを。

 すべては、彼に訊きたかった一言のために。

「アンジェ…」

 アリオスはアンジェリークが落ち着くまで、ずっとその手を握り締めてやる。

 外には冷たい雪が降り、アンジェリークの切ない心を優しく包み込んでいた。

 

 翌日、アンジェリークが目覚めると、既に、昼過ぎだった。体はかなりだるかったが、熱は下がり、起き上がれるぐらいにはなっていた。

「あら、目がさめた?」

 母親が様子を見に、氷枕を片手に入ってきてくれた。

「うん…、かなり大丈夫」

「昨日はアリオス君がここまで送ってくれたんだから、感謝しなさいよ?」

「うん…」

(言われなくても判ってるよ、お母さん…。だから、苦しいの…。いつまでも妹としてしか見てくれない彼が、嫌でたまらない。そんな自分もやっぱり大嫌いだったりするのよ? お母さん…)

「自転車もね、今朝ちゃんと持ってきてくれたんだから、感謝しなさいね?」

「うん…」

 アンジェリークは、ベッドの上で膝を抱えてその上に顔を埋めて、力なく返事をしている。ぼんやりと外を眺めていることしか、彼女には出来ない。

「ちゃんと御礼をしなさいよ? もうすぐヴァレンタインだし、手作りチョコレートでもあげたら」

 母親にぽんと肩を叩かれてアンジェリークは、ほんの少し苦笑いをしてから、カレンダーを眺めた。

(今日はもう八日か…。一週間ないんだな…)

 ヴァレンタインデーのことを考えると胸が痛い。きっとこの日、アリオスは恋人と過ごすだろうから。

(綺麗な人だったな…。私よりもずっとずっと大人の…)

 アンジェリークは切なさをかみ締めながらも、母親にぼんやりと頷く。

「チョコレートもいいかもしれないわ…」

 アンジェリークはほんの少し笑うと、母親を安心させた。

(チョコレートに、十七年分の想いをすべて託そう…。それでダメなんだから、仕方ないもの…)

 アンジェリークは決意を固めると、このヴァレンタインデーにすべてをかけることにした。

 

   ×××

 

 体調も良くなったので、アンジェリークはチョコレートの材料を買いに、学校の帰り、製菓材料の店へと立ち寄った。

 作るものは、甘いものが苦手なアリオスのために、リキュールが入ったものにすることにした。

 材料は少し奮発することにして、最高級のリキュールやカカオを買って、材料から拘って造ることする。

 アリオスの表情を思い浮かべながら、選ぶのはとても楽しく、アンジェリークは幸せな気分をほんの少し味わった。

(これが最初で最後の手作りものだから、一生懸命、アリオスお兄ちゃんに食べてもらえるように頑張らなくっちゃ)

 心を込めて作るのは、なんと幸せなことなんだろうかと、アンジェリークは心から思っていた。

 作るのが楽しみで仕方がなく、アンジェリークは家まで駈けて帰る。まるで子供の頃のように、楽しみが待ちきれないかのように、彼女は走っていく。

(頑張ろう、美味しいものを作って、アリオスをお兄ちゃんに喜んでもらいたい…。私の想いなんてもうどうでもいいから)

 

 アンジェリークは家に全速力で帰り着いた後、とりあえずは材料を棚に詰め込んだ。

 夕食の間も、ケーキを作ることがすごく気になり、アンジェリークは、そわそわとする。

 夕食が終わるまでキッチンが空かないので、アンジェリークは自分は早めに食べ終えて、隅のほうで準備をはじめる。

「もう…」

 アンジェリークの母親は、娘の真剣ぶりに、微笑ましく思いながら、羨ましそうにため息をつく。

(今しかチャンスはないものね? 頑張りなさい、アンジェリーク…)

 チョコレートケーキのレシピと睨めっこをしながら、アンジェリークは一生懸命、ケーキを作り始めた。

 その表情は真剣で、誰も彼女の世界にはいることなんて出来やしない。

「えっと…」

 ハート型の型にチョコレートケーキの材料を入れながら、彼女は自分の心も全て注ぎこむ。

(大好きな、大好きで堪らないアリオスへ…。私はずっとこれからも、何があってもあなたが好きです。たとえ報われなくても…。ずっと、遠くからあなたを見守っていますね?)

「第一段階完成!」

 生地を型に流し込んで、焼き上がりを待つだけ。あらかじめ熱しておいたオーブンに、ケーキの生地を入れて焼き上げ始めた。

 それが焼きあがる間も、アンジェリークは、デコレーションの準備に余念がなかった。

「まだちゃんと直ってないんだから、あまり無理はしちゃダメよ?」

「うん。お母さん」

 心配そうに見守ってくれている母親に笑顔で返しながら、アンジェリークは、焼き上がり具合を見るために、外側からオーブンを覗き込む。

「かなり美味しそうに出来るかな…?」

 ふんわりと焼きあがってくる柔らかなスポンジが膨らむのを見て、アンジェリークは自分の心のようだと思わずにはいられない。

(このスポンジは、私の心そのもの。アリオスお兄ちゃんを思ってる私の心…)

 けたたましく、時間を知らせるブザーが鳴り、アンジェリークは慌てて鍋つかみで手を保護し、天板を引っ掛ける金具を持ってくる。

「さてと、どんな感じで出来たかしら…」

 オーブンをあけてケーキの出来を確認すると、中までちゃんと火が通っており、綺麗に焼けている。

「・・・・良かった! あとは飾り付けだけだものね!」

 アンジェリークは、出来に少しほっとしながら、綺麗に型からケーキを抜いて、用意しておいたコーティング用に溶かしたビターチョコレートを上から綺麗にかけて、それを寝かせるために、覚ましてから冷蔵庫に入れた。

(あとは、これにメッセージを書くだけ…)

 時計を見るともう十一時を回っており、アンジェリークは慌てて片付けをはじめた。

(明日の今ごろは、もうふられたあとかな…)

 少し寂しく思いながら、アンジェリークはケーキを見つめる。

(このケーキは私の心。精一杯をアリオスお兄ちゃんあなたに…)

 明日のことを思うと、胸が痛かったが、アンジェリークは、全てを悟りきったかのように、静かに冷蔵庫を閉めた   

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、とうとう、二月の十三日。

 アンジェリークは家から帰ると、冷たく冷やしておいたケーキに最後の仕上げにかかった。

 生クリームをしっかりと泡立てて、ふわふわにしてから、それで周りを飾って、字を書く。

 “アリオス 大好き”

 アンジェリークは白いホイップでそう書くと、完成したチョコレートケーキを息をつきながら眺めた。

「これ以上、今の私の腕では無理ね?」

 満足する出来となったケーキをアンジェリークは、綺麗にラッピングをすると、それを机の上において、いったんコートをとりに行った。

 前回のことがあったので、アンジェリークは真っ白いコートを着込み、ちゃんとカイロも張り、その上ブーツににもカイロを張って、万全である。もちろん、手袋も忘れてはいない。白い帽子もしっかりと被って、アンジェリークはケーキを籠に入れて、自転車に乗り込む。

「行ってきます!」

「一時間してアリオスさんが帰ってこなかったら、帰ってくるのよ!」

「うん!」

 午後六時半。

 アンジェリークはアリオスのマンションに向けて出発した。

 

   ×××

 

 七時前に着き、一応家のインターホンを鳴らしたが、アリオスは帰ってきてはいないようだった。今日はちゃんと重装備で着ているので、アンジェリークはあまり寒さを感じない。

「アリオスお兄ちゃん…。今夜も女の人と一緒なのかな…」

アンジェリークは、暗くなった空を見上げながら、切ない思いを抱きしめる。

「好き…」

 呪文のように囁いてみれば、空に吸い込まれていくような気がする。

 すっと空を見上げていると、白いものが空から降り出していた。

「・・・また雪だわ・・・」

(今度もブルーの雪なの)

 白い雪が、ゆっくりと降りてくるのがわかる。アンジェリークはそれをしばらく見ていた。

 アリオスが帰ってきたのは、アンジェリークが来て三十分後のことであった。

(アンジェリーク・・・)

 白い雪が彼女の髪を飾るかのようにふり、まるで白い女神のように美しい。アリオスはそのあまりにもの美しさに、思わず見惚れてしまう。

(おまえは、もう子供なんかじゃねえんだな…。立派な女だ…)

 アリオスは感慨深げに思うと、アンジェリークに駆け足で近づいていく。

「アンジェリーク!」

 声をかけられて、彼女は空からゆっくりと、声の主へと視線を移していく。

「アリオスお兄ちゃん!」

 満面の笑顔を浮かべて彼女は手をふってくれる。昔とは違ってその姿は、とても美しく、アリオスには映る。

「おい、体は!? あまり無理すんな」

「大丈夫」

 アリオスが心配してくれるのが嬉しくて、アンジェリークは、ニコリと笑って答えた。

「ちゃんと、カイロを今日はいっぱい張ってきたから…」

 自慢するかのように彼女は言い、温かみが戻った顔色をアリオスに向けた。

「頬がこんなに冷えてるじゃねえか」

 アリオスに指先で頬を触れられて、アンジェリークは真っ赤にしてしまう。

「…うん大丈夫…」

「部屋にはいって、温かいカフェオレでも淹れてやる。来い」

「いいの…」

 アンジェリークは首をふると、切ない眼差しをアリオスに向けた。恋する少女の眼差しを。

「・・・これ渡しに来ただけだから…」

 そう言って、アンジェリークはアリオスに箱を差し出した。精一杯作ったチョコレートケーキの入ったケーキの箱。

「私の気持ちです…。この間のお礼を込めて…。今までどうも有り難う」

 アリオスはそれを受け取ると、大切そうに箱をなでる。

「開けていいか?」

「うん…」

 はにかみながら頷いてくれた彼女に笑いながら、アリオスは包み紙をそっと開けてみた。

 そこには“アリオス大好き”と書かれており、彼は胸がいっぱいになるのを感じる。

「サンキュ…。お前の気持ち…、ありがたく貰うぜ?」

 息を呑んだ時にはもう遅かった。

 アリオスはしっかりとアンジェリークを抱きしめて離さない。

「愛してる…」

 耳元で甘くアリオスは囁き、アンジェリークはそれを聞いて涙する。

「この間の女の人は・・・? 結婚の話は?」

「あれは、俺の友人の恋人だ。大切なものを見立ててもらうのに、着いてきてもらった」

「大切なもの?」

 アンジェリークは、アリオスの胸に顔を生めながら、少し不安げに訊いてみた。

「俺…、この五月から、海外に赴任をすることになる…」

 アンジェリークの体がぴくりと動く。顔をあげると、切なげに、苦しげな表情をアリオスに向けている。大きな青緑の潤んだ瞳は、アリオスの胸をまっすぐに突く。

「…やっぱり…」

「最後まで訊け? おまえに俺を待っていて欲しい…。そのための婚約指輪を選ぶために、付き合ってもらった」

「アリオス…!!」

 アリオスはぎゅっと彼女を抱きしめると、その想いを伝える。

 アンジェリークは嬉し涙を流して、アリオスにさらにしっかりと抱きついた。

「…着いて行ったらダメなの?」

 今度はアリオスが驚く番だった。

「いいのか? 俺は本当のことを言えば、おまえを連れて行きたいと思っているが、おまえはこれから学校もある。大学のことも…」

「いやっ! そんなの、アリオスがいないと意味ないじゃない!」

 泣きながらしっかりとしがみついてくる小さなぬくもりに、アリオスはそれを受け止めるかのようにしっかりと抱き返した。

「判った。一緒に行こう…」

「アリオスっ!」

「結婚の話はな、あれはおまえのことだ。結婚を前提に付き合いたい女がいると、親に言っておいたからな? それが尾ひれがついてああなった」

「アリオス…」

 これ以上、アンジェリークは話すことなんか出来ない。感極まって言葉が出てこない。

「寒いから、部屋の中で、ちゃんとプロポーズさせてくれ? 指輪も部屋の中にあるから…」

「うん…」

 アンジェリークは、アリオスの腕からいったん離れると、空を見上げた。

 白く穢れのない雪が暗い空から落ちてくる。

 だがちっとも寒くなんかなかった。

 その雪は、幸せ色のピンクに輝いているような気がした。

「アリオス…、ピンクの雪がふってるわ…。私たちはきっと幸せになれるわ…」

「そうだな…。あの童話は俺たちの思い出の童話だからな…。子供たちにも聞かせてやろうな。将来」

「うん…」

 アンジェリークはアリオスに寄り添っていつまでも、ピンク色の雪を見つめていた   

 

   ×××

 

 部屋の中で、アンジェリークはアリオスにプロポーズを受けた。

「結婚してくれ。愛してる」

「うん。一生ついていくわ、あなたに。愛してる、アリオス…」

 指輪を左手の薬指に填めてもらい、アンジェリークはそれを涙ながらに見つめる。

 世界で一番の宝石のように思える。

 その後二人は雪を見ながら、小さなパーティをした。

 あいにく店屋物であったが、それでもアンジェリークはとても嬉しかった。

 そのあと、アンジェリークは母親に泊まることを伝える。

 ヴァレンタインデーの瞬間に、彼女は、アリオスのものになった。

 

 いつまでも幸せになりますように・・・。

 ピンクの雪がふったんだから、きっと私たちはずっと幸せ・・・

モドル