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 アンジェリークは、腕にかかる重みを感じながら、それを幸せだと感じる。
 暇があると時計を見てはにやけてしまっている。
「アンジェ!」
 バイトに行く途中、後ろから声を掛けられて、アンジェリークは驚いた。
「何だ、レイチェルか〜」
「何だとは何よ〜」
 レイチェルはにやにやと笑い、アンジェリークを覗き込む。
「アンジェ、今日さ、エルンストと予約取ってるのよ!」
「予約? どこの?」
 彼女は目を丸くして不思議そうにレイチェルを見つめた。
「アナタがピアノを弾いてるとこに決まってるでしょ!」
「えっ!?」
 微かにアンジェリークは息を飲む。
 学校から公認されているアルバイト先だとは言え、何故だか恥ずかしいような何とも言えない気分になる。
「噂の時計のオーナーにも逢いたいしね〜」
 言われた瞬間、アンジェリークの顔が真っ赤になった。
「かっこいいんだってね?」
 もう頭から湯気が出そうな勢いで、アンジェリークは俯いてしまう。
「親友の想い人は、この目で確認しておかないとね」
 にやにやと笑うレイチェルに、アンジェリークは、視線で恥ずかしさを訴えた。
「今日六時に予約してるの。準備があるから行くけど、その時にまたね?」
「うん」
 手を振りながらなり、レイチェルは慌てて駆け出していった。

 アンジェリークは、今夜の”親友登場”に、少し緊張しながら、電車に乗り込み、アルバイト先に向かう。

 出勤して、一番に尋ねるのはオーナー室。
 そこで、今日の曲を選択する打ち合わせを行うのだ。
 その時間が、オーナーに恋する少女としては、一番大切な密度の高い時間だった。
 ノックをしようとすると、ドアの奥から甘い声が漏れてくる。
「もう、アリオスったら・・・」
 くすくすと笑う声が、アンジェリークには癪に障る。
 わざとノックを強くしてやる。
「あら、あなたの大切な”小ねずみちゃん”がお見えになったみたいだわ」
 わざと聞こえるように言われたのは判る。
 彼女もわざとらしく大きく咳払いをすると、声を掛ける。
「オーナー、コレットです」
「ああ。入れ」
 アンジェリークは言われた通りにオーナー室に入ると、そこはに艶やかな真紅のルージュが似合う女性がいた。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ。またな?」
 女は手をひらひらと振りながら、アンジェリークの横を通り過ぎていく。
「バイバイ、プティ・サン・スリ(可愛い小ねずみちゃん)」
 艶やかに笑うと、女は薄笑いを浮かべながら去っていった。
 アンジェリークは少し不満げな表情をすると、口を僅かに尖らせる。
「私は、”小ねずみ”なんかじゃないです!」
「クッ、そうだな。確かに違うな」
 アリオスは、喉を鳴らして笑いながら、煙草を銜える。
「ですよね!?」
 アンジェリークの顔は、ほんの少し明るくなる。
「ああ。どっちかって言うと、”春の砂ねずみ”だ。針をぴんと立ててるな」
 更にアンジェリークの機嫌が輪を掛けて悪くなる。
「・・・どうせ、私は綺麗じゃありません! 色気もないし・・・」
 アンジェリークは勢い良く言った後、急にトーンダウンをして俯いてしまった。
「アンジェリーク?」
 アリオスが顔を覗き込もうとして、彼女はさっと顔を横に寄せた。
「・・・今日の曲です・・・」
 アンジェリークは、少し震えた声でセットリストを渡すと、そのままドアに手を掛ける。
「アンジェ!」
 アリオスが肩を取ろうとすると、アンジェリークは逃げるように行ってしまった。

 アンジェ・・・。

 アリオスは、一瞬見えた少女の涙に、胸が深く抉られるような気がする。
 いつもなら、軽く返してくる彼女が今日に限って感情的になっているのを、彼は深い思いで受け止めていた----


 オーナーは、やっぱりああいう綺麗な人が好きなんだ・・・。
 そうよね・・・。私なんか子供だもの・・・。

 アンジェリークは大きな瞳に涙を浮かべると、それを擦りながら更衣室へと向かった。
 いつものようにピアニスト用の制服を着て、レストランに出る。
 楽譜を目の前に置き、それを見つめる。

 頑張らなくっちゃね・・・?

 指慣らしに簡単な曲を弾いた後、彼女は今日の始めの曲である、”JOY”を弾き始めた。
 レストランにディナーの客が多数やってきて、彼女の奏でる曲をBGMに談笑を始める。
 ほとんど誰も心地によいBGMとしてしか捕らえていないことは判っている。
 だが、心を込めて、アンジェリークはピアノを弾く。
 暫く、弾いていると、レイチェルが声をかけてきてくれる。
「アンジェ!」
 親友の美しい姿にアンジェリークは笑顔で答える。
 その後ろには、彼女の恋人エルンストが見えた。
 アンジェリークは、益々嬉しくなり、二人のために、微笑みながら、温かなラヴソングを送る。
 アリオスのその音を聞きながら、心が温かくなるのを感じた。

 アンジェはきっと、子供にも暖かな子守唄を聞かせてやるんだろうな・・・

 彼はそう感じずにはいられなかった----



 8時になり、アンジェリークは、プロのピアニストと交代し、レイチェル似挨拶に行った。
 既にデザートだ。
「今日はきてくれて有難う…」
「ワタシタチもオシャレなレストランに一度来てみたかったし!」
----ところで、想い人はどこなの?」
 ニヤリとレイチェル似笑われて、アンジェリークは少し元気をなくした。
「…もう…いいの…」
 表情とその声のトーンだけで、レイチェルは全てを察してしまう。
「そっか…」
「明日でも話を聞いて?」
「うん」
「じゃあね! エルンストさんもまたね?」
 アンジェリークは二人に微笑むと、一礼をした。
「今日はとても素晴らしい演奏でした、アンジェリーク」
「良かったよ!」
 二人の温かな声にアンジェリークは心を少しだけ取り戻して笑うと、軽く会釈をして、更衣室へと向かった。
 不意に、拍手の音が聞こえてくる。
「オーナー…」
 更衣室のドアにもたれかかり、アリオスが拍手をしてくれていた。
「アンジェ、今日の演奏は最高だったぜ?」
「有難うございます」
 艶やかなアリオスが余りにも素敵で、アンジェリークは俯いてしまう。
 これ以上みていたら、また、切ない心が込み上げてしまうから。
「顔を上げろ? アンジェ…。ご褒美だ」

 え?

 手を握られたと思った瞬間、手のひらがひんやりとした。
 開けてみると、そこには、時計があった。
 真新しい女性用のもの。
「アンジェ…」
 優しい声に導かれて、アンジェリークは顔を上げる。
「俺がちゃんと言わなかったから、おまえ不安になったんだよな?」
 アリオスの声はとても真摯に響き、アンジェリークは彼の顔をじっと見つめた。
「-----今度は俺が言う番だな。
 おまえの時間、俺が貰う…」
 言葉とともに、アリオスはアンジェリークをしっかりと抱きしめる。
「愛してる…」
 耳元に甘い囁きが届いた瞬間、深く唇が下りてきた-----

 成就の恋のキスの味は、甘く危険な味がする? 

コメント

85000のキリ番を踏まれた、銀柳月鈴様のリクエストで、
「kiss me」その後です。
書いてて楽しかったです〜。