KISS


 最初にあの人を見たとき、憎らしいほど綺麗な指をしていると思った。
 そして憎らしいほど素敵だと…。
 一目で、恋は始まっていたのかもしれない----


 通い慣れたバイト先の前の満ちを、少女は一生懸命走っていた。

 やばい…。
 遅れたらオーナーに逢えない…。
 今日学校の課題で遅くなったから…

 少女のバイト先は、グルメ雑誌でも紹介され、またそのおしゃれな雰囲気でも有名な、レストラン"エレミア”。
 予約が三ヶ月以上先まで満杯だという、とても人気のあるレストランだ。
 オーナーのアリオスは、元々は腕利きのコックだったが、一人で、ありとあらゆることを勉強し、独力でこのレストランをここまで大きくした。
 リッチで、サクセス者、その上、銀髪にオッドアイ、長身という、かなりの容姿の持ち主のせいか、女性には困らず、噂もひっきりなしで、今は彼も"セレブ"の仲間入りをしている。
 アンジェリークはそのレストランで3時間だけピアノを弾かせて貰っている。
 本職のピアニストが来るまでの言わば"前座"だった。
 オーナーとは週に一回、音楽の打ち合わせをする。
 その日が今日で、絶対に遅れたくはなかった。
 一週間のうちで一番楽しい時間だから。
 汗をかいて裏口からレストランに駆け込んだ時、既に30秒遅れで、オーナー室の前にたどり着いたときには、既に5分遅刻をしていた。

 イヤだな・・。
 ただでさえオーナー忙しいのに…。

 ノックをしてみる。
 返事はない。

 もしかして怒った?

 もう一度してみる。
 だが返事はない。

 しょうがないか…。
 送れてきた私が悪いんだもんね…。

 がっくりと肩を落として帰ろうとすると、中から話し声が聴こえてきた。
『アリオス、もうしょうがない人! しょうがないから今夜のデートは諦めるけど…』
『悪ィな、ジェシカ…』
 くすくすと笑う艶やかな声が聞こえてきて、アンジェリークはまたかと思った。
 アンジェリークがこのレストランにアルバイトにやってきて三ヶ月。
 その間でもアリオスは5人は女を変えていた。
 その度にアンジェリークはやきもきしていた。

 入るタイミングが、つかめない〜

 カチャリと音がなって、艶やかな女性が中から出てきた。
「あら? 未来のピアニストさんね?」
 ゴージャスな服装の女性に艶やかに微笑まれて、アンジェリークは無表情で頭を下げる。
「アンジェリークか?」
「はい!」
 声がしたので、自分をアピールするために、アンジェリークは大きな声で返事をした。
 女はそれを子供とばかりに鼻で笑うと、アリオスへと向き直る。
「じゃあね、アリオス?」
「ああ、じゃあな?」
 女が、勝ち誇ったようにアンジェリークの横を通り過ぎ、そのままヒールの音を立てて立ち去ってゆく。
 鼻につく香水の香り。
 むせ返る化粧品の匂い。
 勝ち誇ったようなヒールを鳴らす音。
 アンジェリークは総てがいやだった。

 何よ…、バカにして…
 どうせ私は化粧もしなけりゃ、靴もスニーカーよ!
 ピアノを弾くときの衣装は、服に着られているわよ!
 これ見よがしにするんだもん…。
 だから…、大人は嫌い・…

「おい、突っ立てないで入れ?」
「はい」
 アリオスに促されて、アンジェリークは慌てて中に入っていった。
 オーナー室に入るなり、アリオスは時計を見つめ、厳しい眼差しを彼女に向ける。
「五分45秒の遅刻」
 感情のない声でそう言われて、アンジェリークはうなだれるしかなかった。
 全くこの男性の総てに弱い。
「申し訳ありませんでした」
 彼女はそれだけ言うと深深と頭を下げた。
「早速だが…、おまえに手伝って貰いてえことがあるんだ」
「何ですか?」
 彼女は不思議そうに小首をかしげながらアリオスを見た。
「何ですか?」
「ああ。俺と一緒に、"事前パーティー"に今から行ってくれねえか?」
 びっくりしたように、アンジェリークは大きな瞳をさらに見開いた。

 オーナーが私を誘ってくれてる…!?
 これって奇跡!?

 アンジェリークはまさか信じられないとばかりに、すっかりぼうっとしてしまっていた。
「どうなんだ? 報酬は倍だそう」
 煙草を銜え、それに火をつけながら言う彼に、彼女は現実に戻される。

 服はそうしたら…

「おい、それとも何か必要なのか・・!?」
 怪訝そうに眉根を寄せて訊く彼に、彼女は少し気後れする。
「だって、服がありません…」
「その心配はねえ。ちゃんとこちらで用意する」
「そうですか…」
 きっぱりといってくれた彼に、少し安堵しながら彼女は答えた。
「おい、即答だ」
 言って彼は時計を見る。
「もう時間がねえ」
 時計のみ地盤をぽんと叩いた彼の魅力に、アンジェリークは決心を固める。
「判りました。やります…」
「サンキュ」
 途端に、彼女は彼に身体を引き寄せられると、唇に軽くキスをされた。
「・・・!!!!!!」
 一瞬何が怒ったかがわからず、まるで酸欠の金魚のようにくちをぱくぱくとさせた。
「お礼のキス」
 かすっただけのキスなのにやけのその味は甘い。
「あ・・・・」
 暫くアンジェリークは思考が麻痺してしまい、何も考えることなんて出来ない。
 彼女のファーストキスは図らずも、恋をしている男性からのものだった。
 中々言葉を考えられず、最初に彼女が浮かんだ言葉は----
「オーナーのバカ〜!!!」
 真っ赤になって叫ぶ彼女が可愛くて、アリオスは思わず苦笑した。

 これから調教しがいがあるな?
 おもしれーやつだ・・・


 最初のキスの味は甘いミルクの味がする?
 

コメント

何だか読み切り連載っぽいのを書きたかったので…。