最初にあの人の音色を耳にした時、心が癒され、同時に甘い痛みを齎した----
 甘く優しい旋律。
 そしてどこか、憂いの在るそれは、私をすぐに魅了した。
 あの人の奏でる音で、声を出してみたい----
 それが叶うならば----



 ヴォーカルレッスンの帰り、栗色の髪の少女はいつも、高級ジャズバーに足を向ける。
 そこには、中に入りきれなかった観客や、客寄せの為に、ステージがショーウィンドウ越しに覗けるようになっていた。
 肝心のステージの中央は見難いのだが、ピアノを弾く様子は良く見える。
 彼女が訪れる時間は、いつもピアニストのリハーサルの時間。
 ピアニストが音を奏で始めると、彼女も歌を口ずさむ----
 少女は、ジャズシンガー志望で、いつもそこで練習をしていた。
 超一流しか出ることの出来ない高級ジャズバーの、ピアニストは、当然名の売れたピアニスト。
 最高級の音で歌を歌えるその時間が、彼女にとっては至福のときだった。
 ウィンドウの前が、彼女にとっての最高のステージになる。

 いつか、いつか、ここに出てみたい…

 少女は深く願うようになっていた----


 ある日、少女がジャズバーのウィンドウに立ち、ピアノが奏でられるのを待っていると、いつもとは違うピアニストが、ピアノの前に姿勢良く座った。
 銀色の髪と、翡翠の瞳を持つ、厭世的な雰囲気を持つ青年。
 彼の綺麗な長い指が、ふわりと宙に舞ったかと思うと、静かに鍵盤に下ろされた。
 その音に、少女は全身に震えを感じた。
 音は、美しく冴え渡り、どこまでも見渡せる湖のように、或いは繊細に揺らめく木漏れ日のように、深い音色を出している。
 だが、どこか寂しい音色----
 彼女は、その音に魅了され、何時しか涙を流していた。
 そしてこのとき初めて、少女の小さな願いが、より大きな望みとなる。

 いつか、いつか、ここに出て、この男性(ひと)のピアノで歌いたい----

 新しい望みの前に、小さな胸が、熱い調べを刻みだした----


 翌日から、少女は変った。
 あの音に釣り合うことが出来るようにと、より厳しいレッスンをつみ始めた。
 そのせいかレッスンが終わるのが遅くなり、走ってウィンドウへと向かった
「----あっ!!」
 ピアノを弾いていたのは、昨日の青年だった。
 少女は嬉しくなって、まるで春の陽射しのような柔らかな微笑を浮かべると、ウィンドウの横の壁にもたれかかり、目を閉じて、青年の演奏に聴き入った。
 もちろん青年がその笑顔に気がつき、僅かに微笑んだことも知る由もなく。
「あ…、”THE ROSE”」
 繊細な指先から奏でられる調べは、少女の大好きな曲だった。
 彼女は、いつの間にか、その歌を口ずさみ始める。
 いつもは小さな少女の声は、青年の奏でる音に導かれるようにして、徐々に大きくなっていった。
 少女の声は、その気象を示すように、真っ直ぐで、穏やかで、そして温かかった。
 彼女の声は癒しの声だ。
 ウィンドウ越しにも、その澄んだ声は聴こえてきて、青年の心を捉えた。
 透明でいて、滑らかで、翼が飛翔しているような声---
 声につられるように、青年の繊細な指先が、熱を帯びてくる。
 どこか厭世的だった彼の音色に、今まさに温かさが加わろうとしていた----

 この少女は”天使の声”を持っているのか----

 青年もまた、少女に魅了されていた----
 少女の天使のような声と、青年の透明に響く繊細な音が、高らかに響き渡る。
 行き交う人々も立ち止まり、ウィンドウで隔てられたこのセッションに耳を傾け始めていた。
 誰もが、立ち止まり、聴き入っている。
 動くことなんて出来ない。
 やがて澄んだ歌声とピアノの水を流れるような調べが、ゆっくりと潮が引いてゆくように消えていった。
 刹那----
 どこからともなく拍手が沸きあがり、誰もが口々に絶賛の声を上げている。
 口も訊いた事のない二人のセッション----
 しかしそれは、万人を感動させる、ある不思議な力を持っていた。
「や、やだ…私ったら…」
 ようやく我に帰った少女は、その拍手が急に恥ずかしくなり、両手で顔を覆ってしまった。
 その様子が、先ほどまで堂々と歌い上げていた少女と同一人物と思えなく、どこか可愛いげな様子に、青年は喉を鳴らして笑った。
 彼はピアノから立ち上がり、彼女の立つ位置の近くまで歩き、ウィンドウ越しに彼女を見つめる。
 優しさの中に強さを秘めていることを、その紺碧の瞳が物語ってる。
「有難う、久しぶりにいいものを聴かせてもらった。後ろの兄さんのピアノも凄く良かった」
 中年の紳士に言われて振り返ると、ウィンドウ越しに、銀の髪をした整った青年が立っていた。
「あ…、あの!! あなたのピアノ凄く素敵でした。歌えて嬉しかった」
「サンキュ」
 青年は、瞳にかかる銀色の髪をしなやかにかきあげながら、 僅かに口角を上げ、艶やかに笑う。
 その微笑には、優しさと、そしてどこか寂しさを、少女は感じた。
「俺はアリオス。おまえは?」
「----アンジェリーク…」
「"天使"か。おまえの声と同じ名前だな」
 低く甘い声で囁かれて、アンジェリークと名乗った少女は途端に耳まで赤くした。
 たったそれだけのことなのに、彼女はすっかりはにかんでしまっている。
「あ…、あの、有難うございました」
 深々と一礼をすると、アンジェリークは逃げるように走り去った。
 アリオスは、そんな彼女の後姿を見つめ、自然と笑みが零れてきた。

 こんなに笑ったのは、久しぶりだな…




 翌日、レッスンがはねると、アンジェリークはやはりジャズバーのウィンドウの所に来ていた。
 ウィンドウを躊躇いがちに覗くと、アリオスはいなかった。
「アリオスさん…、今日はいないのかな…」
「よお、アンジェリーク」
 後ろから低いよく通る声がして、彼女はすぐさま振り向く。
「アリオスさん!!」
 はにかむようでいて、太陽のような笑顔を、彼女は無意識にアリオスに向けた。
 彼はその笑顔に、息を小さく飲んでしまう。
 天使は、彼の意識よりも遥か高いところから、光の束となって入り込み、彼の心の凍土を融かしだす。
「待ってたぜ? アンジェリーク」
「え!?」
 一番欲しかった言葉を言われて、息を飲むのもつかの間、アンジェリークは、アリオスにいきなり細腕を掴まれてしまった。
「俺と来てくれ」
「え、ちょっと…、アリオスさん!!」
 惑う暇も与えられず、彼女が連れて行かれたのは、ジャズバーのステージだった。
 アンジェリークが立ちたくて堪らない場所----
「ほら」
 アリオスの急に楽譜を投げられて、彼女は慌ててそれを受け取った。
「これは!?」
 大きな紺碧の瞳を見開きながら、彼女は不思議そうにアリオスを見上げる。
「----ラッセルの”A SONG FOR YOU”。おまえ、譜面は読めるだろ?」
「はい、一応。これでも音楽学生の端くれだから」
「一週間後、ここで、ジャズピアノとヴォーカルのコラヴォレーションのコンテストが開かれる。優勝すればCDを出してもらえる」
 ここで切ると、アリオスは真摯な眼差しを、彼女に向けた。
「----パートナーとして一緒に出てくれねえだろうか?」
 踏み込むように言われ、アンジェリークは息が出来ない。

 夢が…叶う…!!

「アンジェ?」
「嬉しい…」
 泣き笑いの表情をアリオスに向け、彼女はゆっくりと頷いた。
「サンキュ」
「ううん、わたしこそ有難う。あなたの演奏で、このステージに立って歌うことが、夢だった…。本当に嬉しい…」
 鼻をすすりながらも、まっすぐと無垢な瞳を向ける彼女が、誰よりも可愛く彼には思える。
 その華奢な体を抱きしめたくなるような衝動を、何とか抑える。
「泣くのはまだ早いぜ?」
 アリオスはフッと深い微笑を浮かべると、ついっと、その繊細な指先で、彼女の涙を拭う。
「俺は、ずっとパートナーを探していた。おまえは理想的な声だ。一週間しかないが、宜しくな?」
「はい…」
 二人は互いに信頼の視線を絡ませあう。
 ----これが"恋”だとは、当然二人は気がつかなかった----



 翌日から、学校がはねると、アンジェリークはジャズバーのアリオスの元に通い始めた。
 午後4時から午後6時までの間、二人はみっちりと声あわせをする。
「そうじゃない、もっと感情的に歌えねえか?」
「ごめんなさい」
 アリオスのキツイ言葉がアンジェリークに落ちるのも、最早、珍しくなくなってきていた。
 だが、短くも中身が濃い時間は、徐々に二人の距離をうめ、同時にコンビネーションもよくなってきた。
 そんな二人を見守る影が二つあった。
 バーの支配人カティスとコンテストの主催者チャーリーである。
「最近、アリオスのピアノ、前より広がったーちゅーか、完璧になりよったわ」
「それは"温かさ”が加わったからですよ、チャーリー」
 カティスは目を細め、まるで兄のように二人の様子を見守る。
「横で歌うあの天使さんのお蔭かな?」
 嬉しそうに呟くのはチャーリーだ。
「そうですよ。しかし、アリオスも凄いコを見つけてきましたね。彼女の歌声は、まるで隣に座って歌ってくれているような存在感が在って、豊かで、丸みがあって、心にすっと入ってくる感じ。そうまさに"天使の歌声"」
 パチンとカティスが指を鳴らし、チャーリーもそれに頷く。
「とにかく、あのお二人さんは楽しみやわー」



 時は無常にも過ぎ行く----
 言っても、彼らが持っていた時間は、僅か一週間だった。
 短期集中的な音あわせを追えて、いよいよコンテストの本番を迎えることとなった。
 アリオスはブルーグレーのスーツに身を包み、アンジェリークは白い膝丈までのシンプルなワンピースを清楚に着こなしている。
 控え室の時計の針が、無機質に音を立てている。
 彼女は僅かの体を震わせながら、来るべき出番を待っていた。
「おい、大丈夫か?」
 アリオスにそっと肩を抱かれ、アンジェリークは安心するどころか、体に電流を感じる。
「あ、緊張してるかも…」
 戸惑いがちに震える声と、その華奢な体が、アリオスには堪らなくいとしく思う。
 出会って10日余り。
 短いといわれればそれまでかもしれないが、これが”運命の10日間”、彼の"人生を揺るがした10日間”ともいえる。
 時がたてば経つほど、、この少女が愛しくて堪らなくなってくる。
 それは、アンジェリークにとっても同じだった。
 彼女にとって、アリオスと出会ってからの10日間は、まさに、”人生を変えた”10日間といっても過言ではなかった。
「おまじないだ…、あがらないための…」
 艶やかな低い声が、やけに官能的に響く。
 アリオスは優しく彼女を抱きしめ、そっと額に口づけた。

 不思議・・・。アリオスの腕の中にいると、ドキドキもするけれど、安心もする・・・。

「うん、がんばるよ。二人にとって、晴れ舞台だから…」
「ああ。俺達の初舞台だ。----これからも、一緒だ…」
 そう云って、アリオスはそっと体を彼女から離す。
「いやか?」
「いやなわけない!!」
 本当に嬉しかった。彼の言葉が何よりも嬉しかった。
 彼女は泣き笑いの表情で、彼に抱きつく。
「おい、化粧が落ちるぜ?」
「いいの!!」
 彼女の言葉に、アリオスは甘い微笑をフッと浮かべる。
「今日はおまえのためだけに、ピアノを弾くからな? コンテストなんか関係ねえ」
「私もアリオスのためだけに歌う」
 二人の唇が触れ合おうとしたとき、無常にもノックの音がこだまする。
「すみませーん!! スタンバって下さい!!」
 二人は名残惜しそうに見詰め合うと、お互いに微笑み合う。
「続きは後でな?」


 静まり返ったジャズバーに、二人の名前を告げるアナウンスがこだまする。二人は静かに自分の位置へとついた。
 穏やかな笑顔を、二人は与え合う。
 ふわり。アリオスの指が宙を舞い、静かに鍵盤に落される。

 この演奏は、アンジェリーク、おまえのためだけだ----

 
彼は誰かのために演奏するということを、したことがなかった。
 それはアンジェリークも同じだった。

 この歌、アリオス、はあなたのためだけに----

 二人の心が今ひとつになる。
 アリオスの音は今までにも増して温かさが加わったことで深みを増し、アンジェリークの声は、会場の総ての観客の隣で歌っているような錯覚を起こさせる。
 アンジェリークは歌う。
 "例え1万人の観客が見ていようとも、この歌をあなたに捧げる----"
 彼女の、温かく誰もを癒してしまうような歌声と、アリオスの繊細な音が重なり、会場を飲み込んでゆく。
 音楽はいつも、自分達の傍にあった。何よりも深く、親密に。
 そして、今、二人は音楽を楽しんでいる。総ての音が優しく語りかけている。
 アンジェリークは歌う。
 ”人生が終わる瞬間も、一緒にいたことを決して忘れない"
 二人の演奏が緩やかに終わった。
 観客の誰もが、感動で顔を上気させている。
 誰からともなく立ち上がり、われるような拍手が起こる。
 コンクール初のスタンディング・オベーションだった。
 二人は深々と一礼をし、コンクールへの道が、幕を閉じた。



 控え室に戻るなり、アリオスはアンジェリークを抱きすくめた。
「あ、アリオス、誰か来たら…」
「誰もこねーよ。皆、結果を聞くのに夢中だ」
「でも…、うっ…」
 唇をアリオスに官能的に塞がれ、彼女は最早、言葉を繋げることが出来ない。
 今までの想いを流し込むかのように、アリオスは彼女の口腔内に舌を侵入させ、貪るように愛撫をする。
 アンジェリークはその官能的な口づけに、頭が痺れたように麻痺し、足ががくがくとしてくる。
 彼は巧みに彼女を支えながら、直も唇を求めた。
 やがて唇は離される。
「アンジェ、おまえがいたからここまでこれた。有難う、そして、愛してる…」
「私も、あなたがいなければ、ずっと、"憬れ"だけを持った女の子になっていた・・・。私こそ有難う。私も、愛してる…」
 再び唇が重ねられる。何度も・・・。
 何度もドアがノックされる音も、二人には最早耳には入らない。
「優勝したって伝えに来たのに、あの二人は…」
 薄いドアの前でカティスは苦笑した。


 春、一枚のCDが発売され、世間の話題をさらった。
 『ANGEL』 ARIOS&ANGELIQUE
 アルバムは、チャートの1位記録を更新中・・・。

FIN            

A SONG
 FOR YOU










































































































































































































































































コメント
4000番のキリ番を踏まれたRYO様に捧げる「ピアニスト・アリオスと歌手・アンジェリークです」
ごめんなさ〜い。RYO様。あんなに素敵なシチュエーションをリクエストしていただいたのに、こんなにへぼくって(苦笑)
必要以上に長いし・・・。
アリオスのピアノのイメージはロジャー・ウィリアムズ、アンジェの声のイメージは、カレン・カーペンターでございます。
創作のイメージはレオン・ラッセルの「A SONG FOR YOU」カーペンターズのカヴァーや、車のコマーシャルでもお馴染みの曲です。
オープニングのイメージは、小学生の頃に見たSONY「OVERNIGHT SUCCESS」のロングCMから。(年バレやわ…)