午後の授業が始まる前、雲行きが怪しくなってきた。 「降りそうだな・・・」 窓を見つめる珪が溜め息混じりに呟く。 「うん。珪くん、今日はバイトの日でしょ?」 「ああ。スタジオに入るまで降らなきゃ、後は大丈夫何だけどな・・・」 予鈴のチャイムが鳴る。 「席付こう」 「ああ、バイナリー・ゼロワンだもんな、次」 かったるそうに珪は言うと、席にぶらぶらと戻っていく。最近、珪は氷室に対してかなりの毒舌になっている。 その理由が、うっかり者のどんかん娘には判らなかった。 チャイムが鳴ると同時に氷室が入ってくる。 本日は、微積分の授業だ。 礼をした後、みっちりとした授業が始まった。 最も緊張した時間の始まりである。 「・・・である。今日はここまでだ。次回の授業までに配っておいたプリントをやっておくように。次回提出しろ。以上」 B5サイズのプリントが配られ、は今夜の自由時間は取れないと踏んだ。 授業が終わる頃には、すっかり外はどしゃぶりだった。 氷室の授業が終わると、そのままショートホームルームになだれ込む。 氷室はそのまま連絡事項を言い、重要だと思われるものだけ、はメモを取った。 「以上。本日はこれまでだ」 氷室の合図と同時に、クラス委員の号令がかけられる。 と珪もほっとしたように立上がり、最後の礼を終えた。 教室から出ようとして、は氷室に声をかけられる。 「コホン、、今日は雨が降っている、その・・・、送ろう」 誰にも聞こえないように配慮し、氷室は小さな声で言う。 「じゃあ、図書室で勉強してますね?」 ぺこりと頭を下げた後、は玄関にあるロッカーに辞書を取りに向かった。 「珪くん!」 今、帰ろうとしている珪に、は声をかける。 「何だ?」 「はい、濡れちゃうから使って?」 珪が使っても遜色のない、ベージュの傘をはさりげなく差し出した。 「おまえ・・・。おまえが濡れちゃうじゃないか・・・。だったら、おまえん家に寄ってから仕事に行くから、一緒に帰ろう」 「大丈夫。私にはアテがあるから。それに今日は図書館で勉強するから、まだ帰らないし・・・」 の心遣いが嬉しい。 珪は純粋で優しいに、心を温かくする。 寂しげな俺の世界を、惜しみ無く温かくはしてくれる・・・。 その温かさもすべてが俺が憧れて止まない・・・。 「珪くん、バイト頑張ってね? 風邪引いて寝込んだら、ファンの子が悲しむもんね!」 満面の輝くばかりの笑顔を珪に向け、彼もそれに癒される気がした。 「サンキュ。借りてく。明日にでも返すから」 「いつでもいいよ! じゃあ撮影頑張って! またコーヒー飲みに来てね!」 「ああ」 手を上げて、珪が挨拶をすると、もちいさな手を振って「またね!」と、笑って見送った。 温かな見送りを受けてバイトに行くのは、何と心地好いものなのだろうか。 何かお礼をしなくちゃな・・・。 珪は幸せな気分になりながら、スタジオに向かった。 彼はこの後、と氷室が「一緒に帰る約束」をしているとは、思わない------ 「さて、図書館で勉強しなくっちゃね」 はぱたぱたと小刻みに走りながら、図書室に向かった。 有沢と勉強しながら、お互いに切磋琢磨する。 ふと窓の外を見る。いつも嫌いな雨だが、今日は優しく楽しいものに思えた。 「じゃあ、そろそろお開きにする?」 「うん、有り難う。また一緒に勉強してね!」 有沢は笑って請け負ってくれ、も笑顔で返した。 時計を見ると6時前。氷室もそろそろ仕事が終わる頃だ。 彼が出してくれた課題も、今日の宿題のプリントも終えた。 うきうきとした気分で、玄関先に向かった。 「あ・・・」 「行くぞ」 既に氷室が待ち受けていて、の姿を見るなり歩き出す。 もそれに追いつくように一生懸命歩いた。 駐車場に着くなり、氷室の車に乗り込む。 いったい何度この車に乗ったことだろうか。 そのたびに、甘く心地よい気分になる。 「先生、今日は有難うございます」 「勉強ははかどったか?」 「ええ。おかげさまで。先生に出していただいた課題をやり終えました。後今日の宿題も。課題のノートは帰り際にお渡しします」 氷室は関心とばかりに頷く。 すこしばかりおっちょこちょいのこの少女が、とても愛らしく思える。 一生懸命、素直に前向きに考える姿が、氷室には眩しいほど好ましかった。 「感心だな? これだけ頑張っていれば、一流大学は間違いないだろう。」 「有難うございます。先生がよく勉強に付き合ってくださるからです」 は嬉しそうに笑って、感謝するかのように笑った。 氷室がフッと笑う。 それがとても、優しくてステキな笑顔で、は思わず見惚れてしまう。 優しくも甘い時間。 このまま・・・。 このままずっとこのような時間が続けば良いのに・・・。 雨よ、私たちを閉じ込めて・・・ 氷室も運転しながら、理知的なの表情に見惚れてしまう。 このまま、ずっと、ずっと、彼女を放さずにいられたら・・・ 無情にも、車はの家の前に着く。 「「あっ…」」 同時にふたりは声を切なげに上げる。 「着いた…」 「着きましたね・・・。 あ、先生・・・」 ごそごそと鞄からノートを取り出すと、は氷室に手渡した。 「課題です。またみてください」 「判った」 氷室が受け取ったのを確認して、は車から降りる。 「先生、有難うございました! また明日」 「ああ」 家の中に入っていくを見送りながら、氷室は受け取ったノートに目を落とす。 一回り近く違う少女に・・・。 私はどうかしている・・・。 いつも一緒にいたくて、堪らなくなっている・・・。 制御が利かなくなっている・・・。 苦しげに頭を振ると、氷室は車を発車させる。 頭を・・・、冷やさなければならない・・・ 雨の音を聴きながら、氷室は自分に言い聞かせるかのように、そっと呟いた。 |
コメント 王子…。 ごめんね? 本当に彼女は罪な女です |