雲 岡 石 窟


(A)
(B)
雲岡石窟は北魏の時代(386−534)に創建され同時代前後の敦煌莫高窟、洛陽龍門とならんで
中国の3大石窟の一つである。

北魏は北方の遊牧騎馬民族が中国の北部に移動してきた時期に華北を統一したモンゴル系(トルコ系とも)の
鮮卑族拓跋氏の政権であり都は大同に置かれた。
北魏によって造られた雲岡石窟は中国最古の仏教芸術の一つで2001年世界文化遺産に登録されている。


石窟は山西省北部の大同市内から西へ約16キロ、武周山の崖地に
東西約1キロにわたって南向き1列に並んでいる。
仏教を復興させた文成帝が高僧曇曜に命じて5つの歴代皇帝の功徳を積むために造営させた「曇曜5窟」が始まりで、
その後60年の歳月をかけ、東西16キロにわたり石窟群が完成された。
現存する石窟は53窟に5万1000体の仏像が彫られている。

曇曜5窟を中心に雲岡を紹介していこう。

雲岡石窟の圧巻は、写真(A)第20洞の主仏で、開祖道武帝を象ったものである。
堂々とした露坐の大仏は高さ17メートル、顔の彫りは深く、筋の通った鼻、目は大きく黒い瞳、薄い唇、
3メートル近い大きな耳、長い肩、異質な風情に圧倒される。

雲岡はシルクロードから伝来したインド、中央アジアの文化の影響が強いといわれるが
現に文成帝は曇曜の前にはカシミール出身の師賢という外国僧を重用したという。

ここの岩質は白く仏像を一際ひきださせている。
力強い線刻の衣紋、露仏坐の背面には千仏が無数に彫られ左右上部には飛天が舞っている。
大きくダイナミックな仏像と、繊細な彫刻は完成された素晴らしい仏教芸術だ。




(1)
(2) (3) (4)
(1)は20洞の露坐を横からとらえた写真である。
石窟入口方面から来る見学者とこの仏像の大きさが対比できるが、
横顔が正面像と随分違って見える事に一種の驚きを感じた。
これは沢山仏像を拝顔した過去に見たことのない出会いであった。


写真(2)は明元帝を象ったといわれる。
雲岡で2番目に大きな大仏で、高さ16.8メートル、耳が異様に大きく、首にまで垂れ下がっている。
切れ長の目に特徴があるが、顎の部分の欠落が惜しまれる。


写真(3)は18洞の王朝3代目の太武帝といわれる。身に付けた衣紋に千仏が彫られている。
仏教を弾圧した粗野の感じと、当時の遊牧民族のいでたちがよく分かる。

大武帝は涼州に出兵し、北涼を滅ぼし三万余の捕虜を連れ帰ったが
その中に、後に雲岡を造りあげた漢族の仏教工芸家がいたという。


写真(4)は17洞にある第四代皇帝像といわれ、菩薩の衣装を纏った弥勒像である。
装飾は欠落しているが、頭に宝冠をつけ肘に装身具をつけている。
右腕下には小さな菩薩が腕を支えている姿は微笑ましいが
巨大な腕を支えるための技法をこの手法で完成させたのであろう。




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写真(5)16洞は第五代文成帝といわれる。鼻筋が細く、目は上方を凝視している。
文人肌の感じが出ているといわれるが、破損がひどい。

曇曜五窟には主仏の他に沢山の仏様が安置されているが、特に興味を引いたのは、
写真(6)第11窟外壁上部の脇侍菩薩で、その美しさに惹かれる。
現代の美人と似かよった面長で気品に溢れている。右側の合掌している二体の菩薩の表情も
ほのぼのとした愛情を示しているようだ。


写真(7)の18洞の仏様は、シリアスなさまで近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
写真(8)の五窟外壁に彫られた二体の仏様は、 四月の陽光を受け際立った優しさを見せている。
写真(9)もなめらかタッチだが力強いものを持っている。









第9窟から第13窟は五彩窟と呼ばれて、極彩に彩られた見事な仏様、蓮花、飛天、伎楽天人、
供養天人,神鳥等がびっしりと彫られている。{上部写真(B)も含む}

数多くの交脚弥勒菩薩はそれぞれ悟りの境地をみせているようだ。
ここの彩色は清の時代補修されたので、色は鮮やかやや深みを欠いている嫌いもあるが、
1500年前の時代背景も良くわかる。
何よりも五彩窟は賑やかな音楽や語らい、祈りが極楽の世界を楽しく演出しているようで
時間を忘れ優雅さにいつまでも酔いしれていた。
 
広大な大草原、沙漠の海、で育まれた彼等の死生観はどんなものだったのだろうか、
この時代日本では聖徳太子、遣隋使も登場していない。
北魏の微笑仏に古き中に新しきものを見つけたような感動と充実感を得て
大同から北京まで7時間の汽車に揺れた。