炎熱のオアシス都市 トルファン


   
 2010,8月上旬撮影  



トルファンの小学生 
 
 

 
 
 ウルムチの荒涼たる風景を抜け出たところに出現するトルファン。海抜が100mも平地より低い盆地にある新疆を代表する緑したたるオアシス都市である。年間の最高気温が47度を越えて、夏の地表温度は70度をも越す。炎熱の街に不可欠なのがカレーズ(用水路)である。万里の長城、京杭大運河と共に中国三大工事といわれるカレーズは天山山脈の雪解け水を山の傾斜を利用し地下に流水を引き田畑を灌漑している。トルファンのカレーズはあわせて1000、全長5000キロメートルという。現存するカレーズは清代以来設けられたものであるが古代から利用されており「史記」のなかにも記されている。そのスケールと古代人の英知にあらためて感心する。

七月、葡萄棚にはルビー色の名物の葡萄がたわわに実をつけている。町のあちこちに沢山の干し葡萄用の天然乾燥棚がその取入れを待つて設置されている。トルファンは古来農業が豊かな土地として栄え、周辺にはベゼクリク千仏洞、アスターナ古墳、火焔山、高昌故城など名所旧跡は多い。

近年郊外のゴビ砂漠から石油が発掘され中国のクウエートと呼ばれるほどの石油基地になり町の開発近代化が急ピッチで進んでいる。
ポンプ式の石油の露天掘り機はリズミカルにスタンプ押しのような動作をしているので人民元紙幣の印刷機と地元の人は言っている。新疆の石油は中国全土の約3割、トルファンの石油もその一翼を担っている。荒涼としたゴビに眠る地下資源、その資源潜在力の大きさは計り知れない。

トルファンの人口は約55万人、ウイグル族約70%、漢族24%、回族6%等である。かって市内中心部をゆったりいたロバ車は姿を消し博物館、図書館、市民ホール、病院等の充実と高層ビルが乱立する町に変貌している。郊外にはトルファン盆地の強風を利用した近代的な風力発電が見事に整備されている。

 郊外ではブドウ畑をゆっくりと走るロバ車と人懐こいウイグル人、昔ながらの素敵な風景に出会える。ユニークなものもあり住宅街の田舎道沿いの家のコンクリートの壁一杯に沢山の絵が100m位の間隔を置いて描かれている。多民族の団結、敬老精神、労働の大切さ、カレーズの説明や、愛育等道徳的なものが漢字とウイグル語を併用し実にさわやかな絵で描かれている。宗教や習俗、価値観の違いで行政が民族融合に苦労しているのであろう。街に若い子供達が多く活気がある。ここは中国の一人っ子政策の対象外の地である。矢張り社会のエネルギーは子供が源泉である。



近代的なトルファン博物館


トルファン図書館


石油露天掘り

豊富な果物


黄色の人参


郊外のロバ車

葡萄乾燥棚を前に72歳の老人


たわわに実る葡萄


一家団欒

労働の大切さ


カレーズの知識

 
 
 

火焔山

 
 
 
 西遊記で孫悟空が妖魔と交え芭蕉扇で火焔山の焔を消した物語は世になじみ深い。侵食された無数の溝が縦に刻まれ、赤褐色の砂岩が灼熱の太陽を浴びてその岩肌は燃え上がるようである。さらに蜃気楼が現れると、山は炎がゆらめくように見えるといわれる。山の高さ約90m、長さ約100km、幅約9kmと大きい。2000万年前ヒマラヤの地殻変動で出来たという。山の東山麗、ベゼクリク寺院側は乾燥しきった急勾配の山並みが続き、隊をなした観光用の馬乗りが砂煙をあげている。火焔山は奇妙な形、文化遺跡、魔界の歴史話が残るトルファン地区の主要な観光スポットである。


無数の溝が縦に刻まれた火焔山


火焔山の観光


火焔山の東山麓

熱砂の砂煙をあげて

 
 
 

交河故城

 
 
 
 高昌故城と共にトルファンの観光名所で交河の名前通り二つの河に挟まれた高台にある要塞の故城跡。南北1650m、東西300m、谷間の深さは30m以上はあるだろうか、いかにも難攻不落の城を思わせる。古く漢代には車師前王国の都城と築かれ、後に高昌国の一城となった。現存する遺跡は、唐王朝が高昌国を滅ぼした後に置いた交河郡のものである。高昌故城より一回り小さいが整然と地上に残っている建物は保存上状態が良いのか多く沢山の仏塔跡、仏殿、住居跡、滑車を使った井戸等が残っている。 城の建築は世界で珍しいとされる「減地法」という土を地面から下へ削って壁体を残す方法と聞く。七月の太陽は真上から照りつける。気温45−6度は越えているのだろうか、茹だるように暑く、訪れる観光客は足早に故城を後にする。真っ青な空、土の塊、何の生物も音もない砂漠の中の廃墟に身をおく。兵もの達の夢の跡はいつまで残るのだろうか。 無常の世界に足を踏み入れ、時が止まっているような感覚がいつまでも続く。


大仏寺跡


故城望観


川沿いに緑が広がる

当時使われていた井戸の跡が残る

 
 
 

高昌故城

 
 
 
 高昌国の王城跡でトルファンの東南約46キロにある。紀元前1世紀に建築されたシルクロードの要衝であり、周囲約5キロの不規則な方形をなす城壁に囲まれ、内部に王城址、景教寺院、マニ教寺院、仏教寺院跡などのいろいろな遺跡が残っている。玄奘三蔵がインドへ仏教典を求めに行く途中、高昌国王に請われ1ヶ月滞在し経典を講じた事でも知られている。
 
城内には五十余りの寺院が存在し、僧侶、王妃が数十人の侍女と共に礼拝した等が玄奘の「大唐西域記」に記されている。
 
後年玄奘三蔵がインドからの旅の帰り、約束を守って高昌城を訪れようとしたがすでに城は唐に滅ぼされ、その属州になっていた。今は2000年以上永らえ戦火により破壊された廃墟が残るだけである。数少ない観光客を乗せたロバ車のひずめだけが乾ききった赤土の広大な廃墟にこだまする。炎熱の中に残るのは歴史の寂寥感だけである。城の出口ではウイグル族の子供達が僅かな観光客を取り囲み小さな観光記念品を執拗に売り込んでいた。先回訪れた10年前と同じ光景は続いている。
 


広い故城を行く


大仏寺跡


古城跡ーー左は玄奘三蔵ゆかりの仏塔

客待ちのロバ車

 
 
 

ベゼクリク千仏洞

 
 
 
 トルファン地区最大の石窟寺院跡。ベゼクリクとはウイグル語で「絵画で飾られた場所」を意味する。トルフアンの中心から約40キロ、火焔山裏側の麓、ムルトウク川の断崖に57の石窟があり、その中で壁画を持つのは20窟、最古のものは隋代のものとされている。この地は天山山脈からの水を頼りに僧侶達の暮らしと修行の場所である。造営が始まったのは六世紀頃、八世紀末には仏教を信奉していたウイグル人が造営に携わたのでかってのウイグル人の様子を知ることもできる。石窟の絶頂期は十一世紀頃で現在第15号窟と呼ばれるドーム型の石窟には際立って美しい仏達の回廊があったと伝えられる。しかし、20世紀初頭、埋もれた砂の中から壁画を発見したドイツの探検隊ル・コックをはじめ日本の大谷探検隊,外国の探検隊が競い合うように数多くの壁画を剥がし持ち帰った。今は当時の面影は無く見るものは殆ど無い。ル・コックが発見時に「今描き上げたばかりの真新しさ、すばらしい彩色の絵」と絶賛したベゼクリクを代表する壁画のひとつ、釈迦の過去仏を菩薩や比丘が取り巻く巨大な「誓願図」が小さな写真で石窟前に所在なげに張られている。
 
ウィグル人の石窟説明員は石窟の説明より剥がされ持ちさられた怨念に終始している。ドイツが持ち帰った壁画はベルリン民族学博物館にあったが不幸にも第二次世界大戦の爆撃により失われてしまった。石窟前で障害を持ったウイグル人の奏でるラワープがムルトウク川の谷間に響く。その川向こうには炎熱で燃えるように赤い切り立った岸壁が迫っている。
 
大谷探検隊が持ち帰ったフラスコ画(壁画)の持香炉菩薩像は彩色no鮮やかさが維持され東京国立博物館に所蔵されている。


ベゼクリク全景


長い期間ラワープを奏でてるウイグル人


真っ赤に燃えるベゼクリクの対岸

 
 
 

アスタナー古墳

 
 
 
 西晋から唐時代の古墳群。アスタナーとはウイグル語で「国都」を意味する。10平方キロの土地に高昌国の人達が眠っている。約500の古墳があり百体のミイーラや絹・綿織物 騎馬傭、舞女傭等の副葬品,古文書等が多数出土されている。近くにある高昌故城と二つの墓域から発掘された大量の文書は「トルファン文書」と呼ばれ敦煌で発見された「敦煌文書」と比肩されている。別名地下博物館として重視されている。現在三つの墳が見学可能である。地上から傾斜した墓道を10m位歩いて横穴式石室に入る。茹だるような外気とは異なり涼しい方円形の墓室には造られ鳥,花、人物など唐時代の六塀式壁画が飾られている。彩色は鮮やかに残っており長い時の経過を感じさせない。
 
ひとつの墓では黒目と白目がはっきりしたミイーラが、他の墓室では男、女ミイーラの一対が添うように安置されている。男の表情は穏やか、女はきつい表情をしている。女は陪葬なのか、何か不幸をかいま見るようだ。傍にはケーキなどの食べ物、贈り物、副葬品が置かれている。なんともいえない無常観と圧迫を感じ足早に表に出る。広場にはここで出土された中国神話にある人類創造の形象が掲げられているが人の気配を全く感じられところであった。
 
大谷探検隊が古墳から持ち帰った化粧箱は木板に象牙を貼り付けた豪華なもので上流階級の小物入れとされている。東京国立博物館に所蔵されている。


アスタナー古墳前景


墓室への入口