悠久なる秦の最強地下軍団
―始皇帝兵馬俑―


 方陣の隊列を組んだ兵士の表情は逞しいが重苦しい。中国、戦国時代に恐れられていた秦の最強部隊の兵士が兵俑となり軍律正しく始皇帝陵を背に東方の敵地へ今にも行軍しようとしている。

 世界8大奇跡といわれる世界文化遺産の秦始皇帝秦俑博物館の兵馬俑である。兵馬俑は中国初代皇帝の始皇帝陵を永遠に守る陵墓の副葬品として埋葬された今衛師団である。その数8000体それぞれ異なった風貌、等身大の大きさで高さ平均1.8m、馬、木質の戦車、青銅の兵器もある。

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 西安から北東へ36キロメートルの地に始皇帝陵がある。小高い墳丘の陵は現在約50メートルの高さ(当時の高さ115メートル)、周囲2キロもの大規模なものである。始皇帝は天下統一をはかると万里の長城や巨大な建造物の造営に乗り出した。墓の造営は天子と自ら崇める証か数奇の運命のなさる故か不老長寿を信じた故か始皇帝は地下に大宮殿をつくろうとした。司馬遷の「史記」によれば墓室は広大で深さはこれ以上掘れない地下水脈700メートルまで掘り下げたとある。 囚人70余万人を動員した工事は始皇帝が死んだ時はまだ終わっていず後に遺体を納め、そのとき工事に従事した工匠3000人を秘密がもれることを恐れ地下に閉じ込め殺した。墓室の空には星座が光り、山も河も海もあり河は仕掛けで流れる水銀の河で太陽と月は真珠で出来ている。楼閣や御殿も設け生活に必要なものまであり死後も生前の生活を夢見たのだろうか。侵入する不審者には機械仕掛けの大弓で射殺できるようになっていたという。

 地下宮殿は発掘禁止であるが科学調査の結果、水銀の気体が充満している事、盗掘は2箇所で小規模のものと確認されている。

 兵馬俑は井戸掘りに来た農民が厳粛で精巧な人間の埴輪を偶然に発見したことによる。始皇帝陵から東に1,5キロメートルのところである。

 現地当局はこの報せに注目し考古学者を派遣、埋蔵の広さ2万余平方メ−トルとその内容が推定され発掘が開始され、すぐに世界の脚光を浴びた。1974年のことである。
 埋蔵の個所は3箇所で発掘順に一号坑、二号坑、三号坑となづけられている。3つの坑の建築構造は同じで地下坑道式の土木構造大型建築である。
 深さ5メートルの坑を堀り、坑内の空間3メートルに陶俑を配列し立ち柱と土塀を組み合わせて棚木を被せ、葦を敷き黄土を埋めて坑道を作っている。

 一号坑は兵馬俑最大の軍陣があり東西の長さ230メートル、南北の幅は62メートル、面積14.260メートルでドーム形の大型体育館のようなところである。



 一号坑は全部発掘すれば兵馬陵8000体のうちの兵士6000体、戦車45両が出土できるとある。戦国末期、秦の兵力は歩兵100万、戦車1000両、騎兵1万といわれ戦闘では歩兵が重視されはじめてきた時代である。古代の軍隊は一定の隊形を軍陣と称していた。一号坑は一種の方陣布防で先鋒、主体、側翼、保衛 で組みたっているらしい。主体の歩兵隊は剣や槍、いし弓など青銅の兵器を携えていた。(今は取り外されている)軍陣の左右両側には一列に外へ面した歩兵の横隊が後衛には敵の後ろからの襲撃に備え後衛が配置されている。秦の軍隊が戦国時代の六国を短期間に撃破した巨大な軍事力が分かるような気がする。坑の後ろの方は頭部や胴体が破壊され転がっている。こなごなになった欠けらを組み合わせ修復する考古学の作業が行われている。


 兵俑は足から上の部分は中空で、別に作られた顔、手足を後から接合している。選りすぐれた陶工が全国からあつめられ陵の近くの窯釜をつくり、黄土と適量の石英砂を使い塑像を作成彫刻、彩色したものである。実に見事な出来栄えで2200年前のものとは思えない。製作の匠は俑に名がきざまれのその銘文は100人近く分かっているようだ。塑像の彩色は見事な色合いとデザインが施されたのだが残念ながら2200年間の湿気に色あせ僅かの色が面影を残しているだけである。
秦人の好む色は緑、紅、紫、藍で中でも緑色が好み、始皇帝は黒色を好んだようだ。軍隊に位色の区別は無く兵士は自分の好きな色を選び位、等級は冠と鎧甲で区別していたらしい。
 兵俑のそれぞれの顔立ち、髷、髭、表情、そして靴にもそれぞれに特徴があり興味が尽きない。頭は髪を巻き上げた髷だけである。兜や軍帽をかぶっていないのも秦の兵士の特徴のようだ。兵馬俑の馬は河西馬である。がっしりした胴体、ピンと張った耳、大きな目、俊足の名高い戦闘馬である。 

 二号坑は一号坑の半分ぐらいの大きさ、兵馬俑 1400体、戦車89両の埋蔵が試掘の結果分かっている。この陣は射撃機関部隊で中央は戦車、歩兵、騎兵と結ぶ長方形である。兵馬俑で良く紹介されている“いし弓”を持ち膝撃ちの構えをする兵士はこの二号坑で出土されているが酸化、変質防止のため確認、修復が済み次第地下に戻されている。

 三号坑は1976年に発掘されたが規模は小さく指揮、作戦部隊と確定されている。兵俑68体、兵馬四頭,戦車一両が出土できる。
戦車遺跡の車上に立つ兵俑は頭に長冠をかぶっている。長冠は位が高いので指揮官と目されている。
博物館の内に銅車馬が陳列されている。
1980年始皇帝陵の封土のごく近くで地下8メートルから二台の彩色銅車馬が発見されたものである。金銀で飾られた青銅製の四頭立ての馬車二両で馬は横倒し、馬車は砕けていた。馬車は御者が立って乗る立車、座って乗る安車と呼ばれている。安車は帝王か高官でなければ乗ることが出来ないと法律で規定されていた。 

 馬、馬車すべて実物の1/2の縮尺で正確に作られている。2台の馬車は8年かけ修復されそれぞれ3000の部品から成り立っているといわれる。安車は全町3、17m、高さ1.6m曲線の屋根、後室は大きく広く主の乗るところである。左右に窓があり後ろが乗降口である。
 絢爛豪華、精細なつくりの銅車馬は絢爛豪華、精細なつくりは最高権力者始皇帝のシンボルの一つであろう。装身具を纏い生き生きとした河西馬は実に見事である。
 始皇帝は中国史上第一位の封建皇帝に成り称号も朕と定めた。始皇帝の功は国家体制を固め36県郡県制による中央集権の政治組織をつくったことである。全国まちまちであった度量衡と貨幣を共通化、文字を統一し都から全国各地にいたる道路、皇帝専用高速道、馬車の車輪幅まで規程し更には広大な万里の長城をつくりあげていった。罪は一方で自らの思想統制をはかり焚書、坑儒を断行したことである。これに反対する国教と言われる儒学者460余名の生き埋め、農民に対するきつい税、長城建設への労務、 一方的な罰金制度等で専制王朝の評価は必ずしも良くなかった事は世に知られていることである。そして現世の最後に求めたものは不老長寿の仙薬であることも。

 博物館内の総合サービス楼による。沢山の土産物や複製兵馬が陳列されている。本物と比べ稚拙さが気になりすぐに外に出る。

 始皇帝は“朕”が自ら名付けた死後の名である。死後もその威厳を保っている始皇帝陵は偉大な皇帝を象徴するものに違いない。すべての欲望を満たし自ら天子と信じた最高権力者の死への対峙がここにある。でも建設にたずさわった70万人や工匠3000人たちはどんな想いで日夜制作に携わっていたのだろうか。巨大な秦は始皇帝が亡くなって僅か2年で滅びる、私にとって始皇帝の謎は沢山あるが、確かなことは2200年前、日本の弥生時代にこれだけの国家が存在していたことである。
 
 想いをめぐらしながら世界遺産を後にする。すぐさま大群の土産物や“ざくろ”の売り子達に囲まれ現実の世界に戻される。その日西安のホテルでみたおぼろげな夢は、秦の兵士になった自分が出陣で身支度がなかなか出来ない姿であった。

 2008年2月 
                         
                         丹沢森のギャラリー
                           齊藤 進
                          
    参考文献 中国の歴史   寺田隆信 著  中公新書
         中国歴史の旅  竹内実  著  朝日選書


次回は平和と繁栄の唐―長安(西安)をテーマに写真中心、彩り豊に掲載致します。                         
  
                        
                 長安城 シルクロードへの出発門 西門