紫音(しおん)
プロローグ
あの日に帰りたい・・・
だれもが一度は思うことがあるでしょう。
< 美 香 >
あと数日で今年も終わる。
僕は、年末年始休暇で久しぶりに実家に帰省していた。大学への進学で、この街を離れてからもう7年も経っている。
しかし、子供の頃からの友人とはありがたいもので、僕が帰省している事を聞きつけて、今夜飲み会をするからって誘いの電話が来たんだ。
夕方、悪友の正彦が車で迎えに来た。
「しっはらくぅん!」
小学生の頃と変わっていない彼の尋ね方に、僕は懐かしさで吹き出してしまった。
「お前、変わってないなぁ。」
大笑いしながら彼の車に乗り込み出発した。しばらくして、彼は郊外へ向かって車を走らせているので、こんな所に店なんか無かったと思い、正彦に行き先を尋ねた。
「あぁ、今夜は裕子の家で飲むんだよ。来年、努と結婚するんだぞ。」
全然知らなかった僕は面を食らってしまった。
「今夜は、そのお祝いなんだ。じゃあ、俺はついでか?」
冗談で言うと、
「そう! 紫原はおまけ。はははっ!でも、みんなお前に会いたがってたぞ。」
正彦の言う、<みんな>って誰なのか、その時はまだ知らなかったんだ。
裕子の家に行くのは初めてだった。母屋の隣りに裕子の住む別宅がある。ここで努と二人で新婚生活をするって正彦が説明してくれた。
家の中では、既にみんなが集まっているようだった。
「おーい、紫原連れて来たぞ。」
正彦の後について部屋に入って行くと懐かしい顔ぶれが揃っていた。
メンバーは、小学校から中学までの同級生が僕を含め男3人と女2人。男の先輩が1人。そして、見覚えのない女性が1人いたんだ。
この先輩は僕等と仲が良かったんで憶えている。この女性は誰だろう?と考えていた時に彼女が自己紹介を始めた。
「美香です。裕子と高校時代の同級生で、今は同じ会社に勤めてます。」
彼女は目鼻立ちのハッキリとした、いわゆる美人タイプである。
裕子がデパートに勤めていたのは聞いていた。と言うことは、彼女もデパートに勤めているんだろう。通りで、初対面でもしっかりとした感じなんだと妙に納得してしまった。
お次は僕が自己紹介しなければと思ったら、先輩が立ち上がり自己紹介を始めたんだ。どうやら、先輩もこの女性とは初対面らしい。僕は、先輩の後に簡単に自己紹介をした。
「紫原です。大学を卒業してから東京の会社に就職しちゃったんで、滅多に逢えない人です。このメンバーとは腐れ縁なんで、よろしく!」
彼女は僕の顔を見つめながら、ちゃんと聞いてくれていた。
裕子と努を冷やかしながら、みんなは盛り上がって行った。そして、いつの間にか美香ちゃんが僕の隣りに座っていたんだ。
「紫原君の事は、みんなが時々話してたよ。だから初対面って気がしなくって。」
彼女は僕に親近感を持ってくれているようだった。でも、こんな美人に言われると、僕も舞い上がってしまう・・・
彼女としばらく話しをしていると、正彦が僕を呼んだので僕は彼女の隣を立った。
「彼女は先輩に紹介するつもりで来てもらったんだ。
悪いけど、そこんとこよろしくな。」
そう言う事だったんだ。僕は快く了承し、その後は彼女には近づかなかったんだ。でも、肝心の先輩はあまりにも彼女が素敵なので、上がってしまい何も話せない様だった。
夜も更けて、宴会もお開きになったけど、今夜はもう帰れないので全員が此処に泊まることになったんだ。
こたつで寝る人。毛布にくるまる人。銘々が寝場所を確保して、みんな眠りに落ちていった。
僕は深夜にトイレに行きたくなって目が覚めた。みんなを起こさないように気を付けて、そっと廊下に出たんだ。
用を済まし戻ろうとすると、廊下に人影があった。美香ちゃんがぼんやりと窓の外を見つめていたんだ。
「どうしたの?」
「うん。眠れなくって・・・ そうしたら、紫原君が部屋を出るのに気が付いたから。」
彼女は、ちょっと前に彼氏の浮気が原因で別れた事。落ち込んでいるのを見かねた裕子が、良い人がいるから紹介したいって事で今日連れて来られた事を話してくれた。
「残念だけど、裕子が紹介したい人って先輩の事だよ。俺は偶然帰省してたんで、ついでに誘われただけなんだよなぁ。」
「そうだったんだぁ。途中から紫原君が私を避けてるようだったから、嫌われちゃったのかと思ってたの・・・」
月明かりに照らされた彼女は、一段と美しく見えた。
でも、友人や先輩を裏切る事は出来なかったんだ。まるで道化師のように彼女に先輩の素晴らしさをアピールをして僕は部屋に戻った。
翌日、正彦の車で送ってもらう途中、
「美香ちゃん、綺麗だったろ。性格もいいんだぜ。あんな子が彼女だったらいいよなぁ。」
「正彦には奥さんいるじゃないか! 浮気はダメだぞ。」
そう。既に正彦は結婚しているんだ。同級生の集まりって事、それに僕は真面目なイメージがあるらしく正彦の奥さんに信用されていたので、僕も一緒ならってことで昨夜の外泊もOKだったらしい。
「紫原は今、彼女いるの?」
「彼女いたら、正月を実家で過ごす訳ないじゃん。」
僕も数ヶ月前に彼女と別れたばかりだったんだ・・・・・
正月を実家でゆったりとくつろぎ、僕は東京に戻った。
会社も始まり、新しい1年がゆっくりとスタートしたある日のこと、1本の電話が静寂を破った。
「私、裕子よ。美香の事なんだけど・・・ あんた美香知らない? 何も言わずに長期の休暇届け出して、家にもいないのよ。昨日、あんたの連絡先を教えてって言われたから、何か知ってるかと思って。あの子と何かあったの?」
会社に突然掛かって来たので、僕は裕子に電話を掛け直すと言って席を立った。
「美香ちゃんって、暮れに先輩に紹介した子だろ。俺はあの時に逢っただけだよ。俺と何かかあったんなら、俺の連絡先知らない訳ないだろ。一体どうしたんだよ。」
「あの後、先輩と何度か会ったみたいなんだけど、美香は落ち込む一方でさぁ・・・ 結局、付き合わなかったんだけど前より落ち込んじゃって、いなくなっちゃったんだよ。もし紫原の所に連絡して来たら、こっちに知らせてね。」
彼女の事を考えてみたが、僕は彼女の事をほとんど知らない。そして、行き先も分からない僕に出来る事は何もなかった。もし連絡が来たら、話しを聞いて上げて、みんなが心配してる事を伝えるくらいだろう。
今日は、新年会の予定が入っていた。
仕事を定時に切り上げ、会場の割烹料理屋へと向かう。いつも通りの光景があり、ただ時間だけが過ぎて行った。
店を出ると、これもいつも通り二次会のカラオケに誘われたが、今日は昼間の裕子からの電話が気掛かりだったので、用事があると言って断り、僕は地下鉄に乗った。
マンションに着いたのは、夜の9時ちょっと前だっただろうか? 階段を昇り、4階に辿り着いた時、僕の部屋の前に一人の女性が立っていた。
「誰?」
僕の呼びかけに、女性は顔を上げた。
「美香ちゃん?」
その瞬間、彼女は僕に抱きつき泣き出してしまった。彼女を受け止めた手に、冷え切ったコートの冷たさが伝わって来た。
「寒かったろ。取り敢えず部屋に入ろう。」
そう言って、泣きじゃくる彼女の体を離すと、僕はカギを開け部屋の中へ入った。
「ゴメンね。部屋の中が散らかっちゃってて・・・」
僕は、慌てて部屋に散乱している脱ぎ捨てた衣類や雑誌類を片付けながら言った。
少しは見栄えが良くなると、彼女をソファーに座らせ、キッチンへ行きコーヒーを入れた。
「暖かい物をどうぞ。少しは落ち着くよ。」
一体、何時間部屋の外で待ったんだろう。彼女の体は、まだ小刻みに震えていたんだ。
部屋の暖房が効いてきて、体もコーヒーで暖まって来た頃、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい・・・ 突然ビックリしたでしょ。さっき泣いちゃったのは、もし紫原君が今夜は帰って来なかったらどうしようかと思ったら不安だったの。紫原君が帰って来て安心したら泣いちゃったんだ。」
彼女は安堵の表情でそう言った。
「今日、会社に裕子から電話があったよ。美香ちゃんのこと心配で探してたよ。」
「そっかぁ・・・ みんなに心配掛けちゃったな。でも、裕子にはここに来たこと電話しないで。私から紫原君に迷惑掛からないように電話するから。」
そして、彼女は今日までの経緯を自分から話し始めたんだ。
彼氏と別れても、彼氏の事忘れられなかった事・・・
先輩と付き合っても、彼氏への想いを引きずってる自分が嫌だった事・・・
そして、一つの勘違いがあった事・・・
「私ね、あの日はあまり乗り気じゃなかったんだ。前の彼氏への当て付けみたいな感じで行ったの。そしたら、そこに紫原君がいた・・・ でも、紹介してくれる人は先輩だったんだよね。夜中に二人で話した事憶えてる? こいつ、イイ奴じゃんって思ったんだよ。」
僕は、彼女の話しを黙って聞いていた。
「先輩と付き合っても、この人に悪いなって気持ちにしかならなくてダメだったの。みんながまた心配するだろうから、誰も知らない所に行きたくなっちゃったんだ。でも心当たりはないし、頼れる所は紫原君の所しか無かったの・・・」
「今夜は遅いから、ここに泊まっていけばいいよ。」
そう答えるのが精一杯だった。これ以上の慰めは、恋愛感情へ移行するのは分かっている。友人や先輩への義理が僕の中で微妙に揺れていた。
「そう言えば、食事してないんじゃないの? 何か食べに行こう。」
「うん。でも、もう遅いから私が何か作ろうか?」
彼女はそう言ってくれたが、僕の部屋には食材が全く無かった。冷蔵庫にあるのは、つまみになりそうな缶詰とビールだけだった。
男の一人暮らしなんて所詮こんなものだが、彼女の母性に火を付けてしまった事には気が付かなかった。
外に食事に行き部屋に戻った時には、彼女は明るい表情に変わっていた。
彼女とは過去に直接の接触は無かったけど、裕子などのお互いに知らない面の話しをして盛り上がったんだ。
彼女には、僕のベッドを使ってもらった。
ソファーじゃちょっと寒いし、お客さん用の布団も1組あったけど全然干してないから湿気臭かったんで、僕がそっちを使うことにした。彼女は遠慮してたけど、僕が強引に決めちゃったんだ。
ベッドに入った時に、紫原君の匂いがするって言ってたけど、どんな匂いなんだろう?
トーストの焼ける匂いとコーヒーの香りで僕は目覚めた。
ん? 一瞬戸惑ったが、台所に立っている彼女の姿に記憶が戻って来た。
「おはよう。」
彼女は最高の笑顔で、昨夜再会した時の思い詰めた表情は一辺も残っていなかった。
二人で朝食をして、僕の出勤時間が迫って来た。
「今日は、家に帰るんだよ。そして、裕子に電話しなきゃね。」
彼女の表情が一瞬曇り、何か考えているようだった。
「うん・・・ でも、もうちょっと一人で考えたいの。答えが出たら帰るから、時間が欲しい・・・」
「分かったよ。でも、電話だけは直ぐするんだよ。鍵は掛けた後で、ドアポストに入れとけばいいから。」
そう言って、僕は部屋のスペアキーを彼女に渡し会社へ出勤した。
今日一日は、彼女の事ばかり気になっちゃって、全く仕事にならなかった。
ちゃんと電話したのかなぁ?
これから上手く立ち直ってくれるといいんだけど・・・
仕事が終わると、僕は真っ直ぐに帰宅したんだ。マンションの近くまで来ると、僕は何となく気になって、4階の角にある自分の部屋を見上げた。
えっ!?
僕の部屋には、明かりが灯っていたんだ。急いで階段を駆け上がり部屋に入ると、そこには彼女の姿があった。
「どうして?」
「ごめん・・・ でも、昨日のお礼がしたくって・・・」
部屋の中は綺麗に片付き、テーブルには食事が並んでいた。
「紫原君、いつも外食でしょ。だから、手料理食べて貰いたかったんだ。」
僕は複雑な気持ちだった。
彼女が帰らなかった事に不満はあったが、こんな素敵な子が僕のために料理を作ってくれて嬉しかった。そして彼女の手料理は美味かった。
「紫原君って、お洒落なんだね。スーツとネクタイいっぱい持ってるんだ。」
二日続けて同じスーツとネクタイはしないってのが僕のポリシーだった。でも、何故彼女がそんな事知ってるんだ?
そう思いながら、着替えのためにクローゼットを開けると、洗濯物が綺麗にたたんで置いてあった。
「あっ!洗濯もしてくれたんだ。掃除もだけど・・・ ありがとう。でも、やっぱり帰らないと・・・」
僕の言葉を遮るように彼女は話し始めた。
「今日、掃除して洗濯して、それで夕食作って紫原君の帰りを待ってる時にね、こんな生活も良いかなって思ったんだよ。このまま、ここで一緒に暮らせたらいいなぁ。」
僕は、一瞬固まってしまった。彼女の言葉の意味はとっても深いものだから・・・
その時、不意に電話が鳴ったんだ。
「もしもし、裕子だけど。今日、美香から電話があったよ。中学の時の友達の部屋に泊まってるんだって。心配掛けちゃってゴメンねぇ。」
僕は、平静を装って裕子からの電話の応対をした。切った後で、彼女に裕子からの電話だった事を告げた。
彼女も、自分の口にした言葉が恥ずかしかったのか、その事はもう言わなかった。
せっかく東京に来ているのだから、その日は夜遊びに出掛けたんだ。新宿のディスコで踊って、行きつけのバーで飲み、部屋に帰ったのは深夜の1時過ぎだった。
昨日と同じ様に別々の布団に入り、部屋の明かりが消えた。
「紫原君、まだ起きてる?」
「どうしたの?」
「何故、私を抱かないの・・・」
僕は、最後の理性で答えた。
「今はまだ、抱いちゃいけないんだって思うから・・・」
「あなたは最後までイイ人なのね。おやすみ・・・」
彼女の言葉が頭の中をグルグルと廻り、僕は眠れなかった。
そして、僕が深い眠りに落ち、目覚めた時には彼女の姿は無かった。
テーブルの上に、朝食とスペアキー、そして1枚のメモが残っていた。
『ありがとう。あなたとは違った出逢い方をしたかった。 さようなら。』
彼女とは、二度と逢うことは無かった。
裕子の話しでは、結婚して遠い土地へ行ってしまったらしい。
友情・・・ 義理・・・ 愛情・・・
みんな大切なんだ。順番さえ違わなければ僕と美香は・・・
一つの愛を失った事を知った・・・
あの日に帰りたい <美香> 完 ![]()