あの日に帰りたい  短編集 −第1節−
                                紫音(しおん)

プロローグ

あの日に帰りたい・・・
だれもが一度は思うことがあるでしょう。


< 舞 夜 >

「紫原君、明日の出張なんだけど私の変わりに頼むよ。」
風に秋の気配を感じ始めたある日、僕は上司の突然の命令に驚いた。
「出張って高松ですよね。分かりました。」

僕は、東京にある大手機械メーカーに勤めていた。大学卒業後に入社してから5年目になる中堅社員って感じかな。
特に決まった彼女がいる訳でも無く、男女の隔てなく仲間と遊ぶ事が好きで、週の半分以上は仲間とワイワイ騒いで過ごしていたんだ。

出張は四国の高松営業所からの依頼で、客先へのクレーム処理だった。
僕が作った報告書を課長が持って行き、客先で説明するはずだったんだけど、課長は急用で出られなくなったらしい。
係長もいるけど、今年の春に人事移動してきたばかりなので、客先で説明してもらうのには不安があるので僕に廻って来たようだ。

翌日の午前中、羽田から高松空港行きの飛行機に乗り込む。小一時間で、僕は生まれて初めて四国の地を踏んだ。
空港に営業所の人が車で迎えに来てくれていて、市内にある営業所まで乗せて行って貰う。営業所の人達とは一度も逢ったことは無いのだが、電話では何度も話しているので初対面とは思えないくらい気軽に話せたんだ。
簡単な打ち合わせの後、昼食を取り客先へ向かった。仕事は順調に進み、お客さんも技術屋が直接来て説明したことに満足したようだった。

一度、営業所に戻ってから市内のビジネスホテルに案内された。繁華街も近いが、海が近いというのがとっても気に入ったんだ。
夜は営業所の接待を受けた。料亭で懐石料理をご馳走になり、その後何軒かスナックに連れ回された。
お酒は好きな方だが、気を遣いながら飲むのは疲れちゃうよね。でも、本社から出向いて来た人に礼を尽くすと言う営業所側の気持ちを汲み取り、最後まで付き合ってホテルに戻った時は11時を廻っていた。

部屋に入って直ぐにスーツを脱ぎ、ラフな格好に着替える。この瞬間が一番ホッとするんだ。
「ちょっと飲み過ぎたかな。」
喉の渇きを覚え、冷たい飲み物を求めてロビーまで降りることにした。
ロビーの自販機で飲み物を買おうとした時に、一人の男性客がホテルに入って来た。そして、自動ドアが開いた時に潮の香りを感じたんだ。
海か・・・
僕は潮の香りに誘われるようにホテルを出て、海岸に向かって歩いて行った。

海岸までは、さほど遠くなかった。
潮風がとても心地良い。砂浜に打ち寄せる波の音も、心を穏やかにさせてくれる。
僕は、秋の海が好きだった。
賑わっていた夏の日が嘘のように静まり返り、ちょっと物寂しさを感じさせる。
いつもは仲間の中心に位置し、お祭り騒ぎが大好きなのだが、時折一人で感傷に浸りたくなる時もあるんだ。

砂浜をゆっくり歩いていると、潮騒に混じって何かが聞こえてきた。
歌? 暗い砂浜の先に目を凝らすと、そこには女性が一人座って歌を口ずさんでいた。
僕は、彼女の方に向かってゆっくり歩いて行った。

彼女は足音に気付くと歌を止め、僕の方を振り返った。
「こんばんは。」
僕は、怪しまれないように穏やかな口調で声を掛けたんだ。
彼女も、一瞬間をおいてから挨拶を返してきた。
「ここ、座ってもいいかな?」
彼女が優しく微笑んだので、僕は彼女の隣りに座った。

彼女は、見たところ僕と歳は変わらない感じで、暗くてよくは見えなかったが綺麗な顔立ちをしているのは分かった。
こんな時間に、こんな所で、それも女性が一人でいるなんて何故?
そう思ったが、人にはそれぞれ事情がある。今逢ったばかりなのに聞くのも野暮だろうと思って、僕は何も喋らず海を見ていた。
「不思議な人ね。普通は、どうしたの?とか、何してるの?とか聞かない?」
彼女が口を開いた。
「はははっ、そうだよね。俺、こうやって秋の海見てるのが好きだから、君もそうだと思って。」
「面白い人ね。実は、私もそうなんだ。」
二人は打ち解けて、色々な事を話したんだ。

「今夜は、お月様が見えないのね。」
彼女が呟いた。夜空は曇っていて月も星も見えなかったんだ。
「月の光は魔法を起こすの。月の綺麗な夜は、きっと何処かで恋が生まれてるのよ。」
彼女はとってもロマンティストなんだ。月にまつわる素敵なお話をたくさん教えてくれたんだよ。
「僕が魔法使いだったら、この曇を晴らして月の光を君にプレゼントしたいな。」
「うん。プレゼントして欲しいな。」

「そうだ、君の名前まだ知らなかったね。良かったら教えてくれる。」
「ニックネームならいいよ。友達からは、舞夜って呼ばれてるの。」
彼女は、砂に書いて教えてくれた。
「夜を舞うかぁ・・・ 神秘的なニックネームだね。」
1時間くらい話し込んだだろうか。曇の切れ間から綺麗な月が顔を出したんだ。
「あっ! お月様だ。貴方の魔法が効いたんだね。綺麗な月・・・」
「今夜は何処で恋が生まれるのかな? きっと此処かも。」
そう言って彼女を見つめると、月に照らされた彼女の横顔は思った通りとても美しかった。
「ふふっ、貴方もロマンティストなのね。」
彼女は僕の方を向くと、微笑みながらそう答えた。
僕は、吸い込まれるように彼女に近づいていき、その唇にそっと唇を重ねた・・・

砂浜に、一組の男女が寄り添うように座っている。
彼の手は彼女の肩を優しく抱いて、彼女は彼の肩に頭をもたれ掛けていた。
「舞夜は、きっと月から降りてきた女神様じゃないかな。」
「貴方は夜は好き?」
「好きだよ。夜は自分を見つめ直して一番素直でいられる時間だからね。そして疲れた心と体を癒してくれる・・・」
僕は、もう一度彼女にKissをした。

「夜も神秘的だけど・・・ 夜から朝に変わる瞬間、空が薄い赤紫色に変わる時って、すごく荘厳で感動するんだ。舞夜は見たことある?」
「やっぱり貴方は魔法使いね! 私の好きな物みんな知ってるみたい。」
僕等の感性は、とってもよく似ていた。時と場所は違っても、同じ様なことに感動していたんだ。
そして、そのまま夜が朝に変わる瞬間を二人で迎えた・・・

「私、帰らなくちゃ。」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「朝まで付き合わせちゃってゴメンね。僕はそこのホテルに泊まってるんだけど、一緒に朝食でもどうかな?」
僕は、咄嗟に彼女を引き留めようとしたんだ。
「朝日を浴びると魔法が解けちゃうから・・・ じゃあね!素敵な魔法使いさん。」
そう言うと、彼女はくるっと背を向けて歩き始めたんだ
あまりにも颯爽としているので、僕は追い掛けることも出来ずに彼女の後ろ姿をそのまま見送っていた。

部屋に戻ってシャワーを浴び、まだ時間は早いがスーツに着替える。煙草に火を付け、窓辺に行くと彼女と一晩過ごした浜辺がビルの間から僅かに見えていた。
舞夜・・・ 不思議な一夜だった。夢だったんだろうか?
灰皿の上で煙草を揉み消すと、フィルターにはうっすらと赤いルージュが付いていた。

朝食を済ませ部屋に戻ったが、迎えの車が来るまでにはまだ時間があったので、僕は浜辺へと足を運んだ。
二人が座っていた辺りへ行き、昨夜の出来事を思い返す。
今も波の音は全く変わらないが、そこに彼女の姿はない・・・
「そろそろ時間か・・・」
ホテルに戻ろうとした時に、足元に落ちている不思議な形をした物を見つけた。それは、月の形をした石だった。
僕は、その石をポケットに入れホテルに帰った。

その日の午後の便で、僕は東京に戻った。
慌ただしい出張と昨夜寝ていない事もあり、マンションに戻るとスーツを脱ぎ捨て僕はベッドに倒れ込んでいた。

目を覚ましたのは夜だった。
脱ぎ捨てたスーツを片付けようとした時、ポケットから月の形の石が転がり落ちた。
石を拾い上げ、窓辺に行ってカーテンを開けると、綺麗な月が輝いていたんだ。
<月の綺麗な夜は、きっと何処かで恋が生まれてるのよ>
耳元で舞夜の声が聞こえたような気がした。

舞夜・・・
君は、きっと月から降りてきた女神じゃないか・・・
いつかもう一度、月の綺麗な夜に貴女に逢いたい・・・・・


あの日に帰りたい <舞夜>  完