「またあえる日まで/月影」論
「またあえる日まで/月影 」論 北川悠仁・岩沢厚治

UCDを見て。
改めて「またあえる日まで/月影」論です。
ふたりの言葉を聴いて、「またあえる日まで」「月影」の印象がガラリと変わった部分と、
確信した部分がある。

「ドラえもん」
この国民的アニメのテーマソングという課題を与えられたふたり。
北川悠仁はキャンプに出かけ、岩沢厚治は地元でぷらぷらしながら曲を作った。
一見対照的。
だけど…北川さんも言っていたけれど、聞こえ方、見え方は違っても、同じ。
同じ方向にやっぱり歩いている二曲だと思った。

まずは北川さん。
ものすごく純粋な心を持っているようで、実はスレまくっている彼(笑)
さて。
ドラえもんのテーマソングを書こう。
何を書こうか。
彼がキャンプに向かったのは、彼の中に浮かぶものがなかったからじゃないかと思った。
その課題に対する答えを自分の中に見出せなかったから。
柔軟で行動力のある彼は、素直にその答えを子供たちに求めただけなのでは、と。
それもね。
オトナたちが「子供はいいよね」「子供はけがれを知らないよね」「子供は純粋だね」
なんていう、イヤらしい、そういうんじゃなくて。
彼らと対等な立場で。
例えば忌野清志郎氏や、斉藤和義氏と、コラボレーションするのと、なんら変わらない
気持ちで、悠仁は彼らの協力を得て「またあえる日まで」を作ったんだろうな。
そんな気がした。
「子供たち」と言うからいけないんだ。「彼ら」と呼ぼう(笑)
オイオイ、清志郎と彼らは同列かい!とつっこまれそうだけど、
だって悠仁てそういう垣根のない人だよね。
親しみやすい、口ずさみやすい、アニメのテーマソングとしては、合格点でしょう。
どうも「ゆずの曲」ということにこだわって、ゆずに子供たち要素がなんで必要なんだ!
とか思わずにいられなかったけど、大体与えられた課題が子供向けなんだから
子供要素が入って当たり前だったのよね。
むしろ素直に子供に逃げているのが、こずるい(笑)
だって自分で考えないで人に考えてもらってるんだもん(笑)
悠仁らくちん(笑)
ずっる〜い(笑)

そして、一方。
「名曲」の誉れ高い月影ですが。
私はどうしてもこの曲を聞いて思い出してしまうんです。
ゆずマンの夏、を。
「そらの下でひとりぼっち。波の音だけが聞こえる…」
あの歌。
舌足らずな男の子の歌。
正確にいうと、あの歌に寄せていた厚治のコメントを。

ー子供はスゴイ。
 息継ぎがどうの、とか、フレーズがどうの、とかまったく考えない。
 出したい時に思いっきり出して、息なくなっちゃった、みたいな。
 それでへっちゃら。当たり前。
 オトナには真似できないー

確かそんなようなこと。
そう。月影とは、まさにその「子供の歌い方」を厚治自らしている気がするのだ。
ブレス位置もブレイク位置もすごく不思議な場所にある。
ストリングスの演出のせいで、なんだか技巧的な気がするけれど、実はぜんぜん。
いっぱい出したい時は、いっぱい出して、息が切れたら吸えばいい。
メロディがアップダウンする感じもね。
気持ちいいところは気持ちいい声で。気持ちいい場所で、歌っちゃう。
まさに「上手さ」なんて関係ない歌い方。

悠仁が課題に対する答えを、ホンモノの子供たちに求めたように…
厚治は、その答えを自分が子供の歌い方をすることで見出そうとしたんじゃないかなぁ。
勝手にそんなことを思っています。

「TIME〜ひと夏のゆずマン≒月影」説は、実は月影を一番最初に聞いた時から
持っていた戯言ですが、なかなか語れなかった(笑)
今回UCDを見て、悠仁の言葉を聴いて、確信が持てた。
私は間違ってなかった、と勝手に思ったの(笑)

月影は名曲?
私はとても可愛い歌だと思う。
引きこもり生活で、髪もボサボサ。
マタギ髭で、タバコの煙でうっすら曇っている室内。
とろんとした大きな瞳をぱちぱちさせながら、うつむいてギターつまびきながら
子供歌いを、こうかな?こうかな?としてみてる厚治なんて、無茶苦茶可愛いじゃないですか。
↑可愛いか?(笑)

「またあえる日まで」をあまりに持ち上げるのも、「月影」を名曲呼ばわりするのも、
な〜んか違う気がする。
フラットな気持ちで聞こう。フラットにね。

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