四国巡礼


二輪の免許をとって15年が過ぎた。家から比較的近く、オンでも、オフでもライダーを楽しませてくれるパラダイスが四国だ。私もこの地を幾度となく訪れツーリングを楽しんできた。そんななか、いつのころからか、ある光景に目を奪われていた。「同行二人」と書かれた菅笠をかぶり、「南無大師遍照金剛」と書かれた白装束を身にまとい88の寺を巡礼している「お遍路さん」と呼ばれる人達の姿である。
四国88ヶ寺巡礼は、弘法大師が42歳のときに信仰の道場として開創された88の寺を、大師入定後、真言宗の僧侶たちが大師ゆかりの地として遍歴するようになり、これが四国88ヶ寺巡礼の原形になったという。後に巡礼は広く一般市民にも普及していき、巡礼者は、「お遍路さん」と親しみをこめた愛称で呼ばれ巡礼は更に盛んになっていった。昨今においても、各旅行会社から「お遍路ツアー」が随時施行され、数多くの参加者がその道を辿っている。私もその道を辿ってみる旅に出た。


第1日

四国88ヶ寺巡礼は「発心の道場」徳島県から始まる。家からは明石海峡大橋を利用すると約2時間で鳴門に着く。天竺の霊山を日本に移すという意味から「竺和山 霊山寺」と名付けられている一番札所「霊山寺」には早朝にもかかわらず多くの「お遍路さん」が熱心に訪れていた。巡礼所では、参拝者に対してその心得、作法、遍路用品等の世話がなされている。私も他のお遍路さんにならい巡礼所を訪れ納経帳を購入し納経をいただいた。
鳴門と阿波池田とを結ぶ撫養街道沿いには一番札所「霊山寺」から十番札所「切幡寺」までの10ヶ寺が点在している。二番札所「極楽寺」は1キロ程で着いた。朱色の鮮やかな仁王門をくぐると境内がひろがっている。大師が植樹したとされる樹齢1000年を超える「長命杉」が見事だ。三番「金泉寺」・四番「大日寺」・五番「地蔵寺」・六番「安楽寺」・七番「十楽寺」・八番「熊谷寺」・九番「法輪寺」と比較的短い距離での移動となった。GW中とあってどの寺も多くの「お遍路さん」で賑わっていた。そして、その多くが納経をするために納経所に並びその順番を待っている。団体のバスがいたりするとその列はさらに長くなった。十番「切幡寺」は山門から境内まで333段の階段が続いている。今までは平地に建っていた寺が多く歩く距離も短く問題はなかった。しかし、この石段は運動不足気味の私には結構こたえた。四国の暴れ川「吉野川」を渡り十一番「藤井寺」へ向かう。藤井寺は88ヶ所の中で唯一「てら」と呼ばれている。十二番「焼山寺」は一番の難所とされている寺で神山町にある。その先を進めばオフロードバイクのパラダイスである「剣山スーパー林道」が控えている山深い場所だ。四国内陸部の道の悪さは経験済みなのである程度は覚悟をしていたが、バス終点地からの道はブラインドカーブの続く一車線幅の厳しいものだった。今回の巡礼はGW中という事もあってホテルを予め取っていた。この日は徳島市内の宿泊になっていたので、日が傾き始めていたが納経終了時間である午後5時までに回れる寺を駆け足で巡った。その結果十三番「大日寺」・十四番「常楽寺」・十五番「国分寺」・十六番「観音寺」・十七番「井戸寺」と巡る事が出来、この日は17の寺を回る事が出来た。


第二日

今日の宿泊は阿南にとってある。計画段階で昨日と今日の2日間で二十二番までまわる予定にしていたので余裕の1日となった。阪神地区から出るバス遍路3回位の日程を1日で回った事になる。徳島駅からの1日ツアーでは17ヶ寺をまわるものもあるらしいい。
十八番「恩山寺」・十九番「立江寺」とめぐり、難所の二十番「鶴林寺」に向かう。狭いながらも整備された道を進むと寺が現れた。鶴林寺を後にし、「西の高野」と呼ばれる二十一番「太龍寺」に向かう。山頂に建つこの寺にはロープウェイで行く事が出来るようになり難所というイメージはない。しかし、私は高額な料金を払うのが嫌なので反対側にある参道を登った。急坂できついが途中まではオートバイで行けるので問題はない。
徳島県三難所と呼ばれる「焼山寺}「鶴林寺」「太龍寺」は、現在ではモータリゼーションの発達により道路が整備され、山深い寺ではあるがオートバイで行くには問題はない。また、これまで訪れた寺では駐車場も整備されているし、寺への案内看板もよく整備されており迷うことなく行くことが出来る。しかし、お遍路の本来のスタイルである「歩き遍路」だと最初の試練になるのかもしれない。
阿南市にある二十二番「平等寺」を打ち終えこの日の予定を終えた。


第三日

二十三番「薬王寺」を参拝し終えた頃には雨がぱらつき始めた。徳島県23ヶ寺を終了し高知県に入った。高知県は「修行の道場」と呼ばれている。寺と寺の距離が長く丸2日歩きとおさなければならない所もある。四国を幾度となくツーリングしてきたが高知県の海沿いは景色の変化に乏しくオートバイでもつらい。「修行の道場」とは、この単調さからくるくるのだろうか?。約80キロを走り室戸岬をかすめ室戸スカイラインにある二十四番「最御崎寺」を参拝した。二十五番「津照寺」・二十六番「金剛頂寺」・二十七番「神峯寺」を打ち終えた頃には雨が本格的に降り始めてきた。雨の中ではシーサイドドライブの楽しみも何もない。ただただ単調な道を進んで行った。野市町に入り二十八番「大日寺」に参拝した。これで3つ目の「大日寺」だ。二十九番「国分寺」は阿波の国に続いて土佐になる。聖武天皇が制定した国分寺令により建立された一つにあたる。高知市内には入り三十番「善楽寺」を打ち終えた後、五台山公園にあう三十一番「竹林寺」に向かう。この「竹林寺」は今までの寺とは異なり規模が大きく、本堂は重要文化財に指定されていた。また、五重塔も素晴らしい文化財でもあった。三十二番「禅師峰寺」を打ち終えた。ここでタクシーを利用しお遍路をしている人達に会った。運転手に話を聞くと9日間で八十八番までと一番との89ヶ寺を回る予定だという。費用的にも3人で行けば決して高いものには感じなかった。その日ははりまや橋に近いビジネスホテルに宿をとった。


第四日

今日も同じホテルでの宿泊なので近辺だけを回る予定だ。三十三番「雪渓寺」・三十四番「種間寺」と打ち終えると天気予報通り雨が落ちてきた。三十五番「清瀧寺」から三十六番「青龍寺」を回り以前は有料だった横浪黒潮ライン・宇佐大橋・仁淀川大橋を走りホテルへと戻った。
本来、お遍路は予め宿を押さえたりするものではないかもしれない。しかし、GW中という事もあり、宿を六日目までは予約してきている。そのために無駄に思える行程になってしまっている。


第五日

昨日「青龍寺」の参拝を済ませていたのでひたすら国道56号線を窪川町にある三十七番「岩本寺」を目指す。朝から雨が強く降っている。「修行の道場」高知県では、この雨も修行の一つなのだろうか?やっとの思いで「岩本寺」に着いた。しかし、次の三十七番「金剛福寺」へは約100キロの道のりがある。札所間での最長距離ではないだろうか?四国最南端足摺岬の手前に位置するこの寺は本当に遠い。足摺スカイラインも濃霧のため視界がきかない。
歩き遍路では高知県でリタイアする人が多いと聞く。確かに移動だけの日がどうしてもおきてしまう。唯々歩くしかない遍路にとっては拷問に近いという体験談を書いた記事を見た記憶がある。
「金剛福寺」を後にして三十九番「延光寺」を目指す。晴れていれば日本でも有数の美しい海岸線が続く足摺サニーサイドロードを走る。マイ・フェバレット・ロードの一つでもあるが雨では何の楽しみもない。ひたすら走り高知県最後の寺に着いた.
高知県から「菩提の道場」愛媛県に入った。雨もようやくあがり陽が差してきた。ツーリングをしているとこの瞬間が好きだ。甘い空気の匂いと眩しい陽の光。それらを体全体で感じる事ができる。四十番「観自在寺」は一番「霊山寺」からもっとも遠い札所になっていることから「裏玄関」と呼ばれる事もある。四十一番「龍光寺」・四十二番「仏木寺」を参拝し終えた時、午後5時を迎えたのでこの日の予定を辞めホテルを予約している宇和島に向かった。このホテルで思わぬ接待を受けた。お遍路さんに対して朝食を無料で提供していたのだ。「接待」という言葉は現代では、お客をもてなすという意味で使われているが、元々は聖地や名僧を求めて諸国を回る行脚僧に対し、門前などで茶や食べ物を振る舞うことだった。この慣習はこの現在においても四国巡礼の地では文化としてしっかり根付いている。


第六日

四十三番「明石寺」を参拝し、再び四国の深い山に入っていった。折り返し点である四十四番「大宝寺」までは約95キロの道のりがある。小田町・久万町と四国ツーリングで馴染みの地名も、今回は少し趣が違う。杉・檜が鬱蒼と立ち並ぶ参道を歩き「大宝寺」に着いた。四十五番「岩屋寺」は参道から本堂まで石段と急な坂道でおそらく88ヶ寺で一番きついだろう。山そのものを本尊としている珍しい寺だ。国道33号線に戻り松山市内へと向かう。四十六番「浄瑠璃寺」・四十七番「八坂寺」・四十八番「西林寺」・四十九番「浄土寺」・五十番「繁多寺」と続けざまに寺が現れてくる。五十一番「石手寺」は文化財の豊富な寺だった。寺の名前の由来となっている「衛門三郎」伝説がある。四国巡礼中の大師に対して心無い振る舞いをし、鉄鉢を8つに割ってしまった。その後衛門の子供8人が次々と死んでしまい、三郎が自分のおこないを悔い改め、大師を求め遍路に出たが、大師に会えず十二番「焼山寺」で倒れてしまう。その枕元に大師が現れ、領主になりたいという三郎最後の望みを書いた石を握らせた。その後、伊予の領主に男児が産まれた時に、衛門三郎と書かれた石をしっかり握っていたという。道後温泉を抜け、五十二番「太山寺」・五十二番「円明寺」を打ち、松山市内のホテルへと向かった。


第七日

寺の納経時間は午前7時から午後5時と決まっている。昨日余裕があるがホテルをとっていたので松山に戻ったが、そうでなければ今治に泊まったほうが便利なのは解っていたが仕方がない。そこでホテルを6時にチェックアウトし7時に五十四番「延命寺」に着いた。参拝を済ませ五十五番「南光坊」に向かう。「坊」と名のつく所はここだけである。五十六番「泰山寺」・五十七番「栄福寺」・五十八番「仙遊寺」と近距離の移動での参拝となった。五十九番は「国分寺」である。伊予の国の国分寺が松山ではなく今治にあることをはじめて知った。国分寺を打ち終えると六十番「横峰寺」だが地図上では六十一・六十二・六十三・六十となっている。しかし、私は順番と通り回ることにした。横峰寺への道は森林組合管理の有料道路を通らなければならない。観光バスでも入口手前で組合のバスに乗り換えなければならない。石鎚山系中腹にあり遍路泣かせの難所と呼ばれている。横峰寺を打ち終え六十一番「香園寺」に向かう。香園寺は他とは異なる趣だ。鉄筋コンクリートで造られた大聖堂の中に本堂と大師堂がある。六十二番「宝寿寺」・六十三番「吉祥寺」・六十四番「前神寺」と順調に打ち終え愛媛県最後六十四番「三角寺」で「菩提の道場」を終え、香川県「涅槃の道場」に入った。六十六番「雲辺寺」は標高927メートルあり、札所の中での最高所にあたる。香川・徳島県境にあるこの寺だが、本堂は実際には徳島県に位置する。以前は遍路泣かせの難所もいまではロープウェイですぐに着いてしまう。六十七番「大興寺」を打ち終え六十八番「神恵院」・六十九番「観音寺」を目指す。この二つの札所は一つの境内に二つの札所を持つという珍しい構えだ。七十番「本山寺」・七十一番「弥谷寺」を打ち終えたところで午後5時を回ったので今日は終わりになった。今回は愛媛県までの全部が回れれば良いと思っていたが思いのほか進んでいるので、明日最後まで回れるかも知れない。


第八日

休みは今日までなので善通寺のホテルを朝七時には出発し可能な限りまわろうとした。まず七十二番「曼荼羅寺」・七十三番「出釈迦寺」・七十四番「甲山寺」・七十五番「善通寺」と打ち終える。それにしても善通寺は巨大だった。さすがに高野山・東寺と共に三大霊場と呼ばれる事はある。七十六番「金倉寺」・七十七番「道隆寺」・七十八番「郷照寺」・七十九番「天皇寺」・八十番「国分寺」と順調に進んでいく。五色台にある八十一番「白峯寺」・八十二番「根香寺」を打ち終え、八十三番「一宮寺」で高知であったタクシードライバーと再会した。彼らはもう1日かけて回り再び一番霊山寺にお礼参りに行くという。一宮寺を後にし源平合戦で有名な屋島をかすめ、八十四番「屋島寺」を目指す。寺への道は有料道路になっており、行きはいいが、帰りは国道に出るために大渋滞していた。八十五番「八栗寺」へはケーブルを利用した。このケーブル乗場である旗に気を取られた。「四国遍路を世界遺産に」というものだ。1200年の歴史を持つこの遍路を一つの文化遺産として見れば、十分その価値はあるように思える。スペイン・フランスには「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道」としてキリスト12人の使徒の一人聖ヤコブの聖地を目指す道が世界文化遺産に登録されているし、また、日本においても「熊野古道」が「紀伊山地の霊場と参詣道」として暫定リストに入っている。
八十六番「志度寺」・八十七番「長尾寺」を打ち終え、いよいよ八十八番・結願「大窪寺」を目指す。山深くなったころ「大窪寺」に着いた。まず本堂にいき無事に回れたことを感謝した。菅笠や金剛杖という遍路をともにしてきたものが寶杖堂に奉納されている。納経所に赴き88個目の納経を「満願おめでとうございます」という言葉とともにいただいた。結願寺と呼ばれるこの寺のお遍路さんの姿はどこか充実感であふれた清々しい顔立ちに見えた。私もその中の一人となった。



後日、一番「霊山寺」と高野山奥の院にお礼参りに赴いた。



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