女子マネ座談会 1991年11月28日、戸山高校近くの「ビクトリア・ステーション」で


選手、スタッフがそろってこそチームは強くなる

 アメリカンフットボールは、総合力のスポーツだ。選手をそろえるだけで、勝てるものではない。選手を指導するコーチ陣、選手を支えるスタッフに人材をあつめてこそ、チームはより大きな成果を実らせることができる。戸山高校では、アメフト転換後の1970年代後半から専任のマネージャーが女子マネという形で登場した。ぎりぎりの人数しかいなかったタッチフットボール時代のOBには、及びもつかないことだろう。さて、マネージャーの職務、喜怒哀楽とは、何だろう。90年代に女子マネを務めたOG7人に集まっていただき、マネージャーの365日を語っていただいた。(敬称略)


出席者 楠原裕美子(1992年卒)
    菊川 由季(1993年卒)
    田口 雅子(1993年卒)
    守田いづみ(1994年卒)
    山本  綾(1994年卒)
    飯塚 和子(1995年卒)
    佐藤 美和(1996年卒)
    田淵 浩司(1980年卒、監督)
司会  須賀  潔(1969年卒)

合図、テーピング、雑誌作り、ビデオ

司会
女子マネの職務を教えて下さい。
楠原
平日は、授業が終わって午後3時ごろにグラウンドへ駆けつけます。選手と同じです。まず、救急道具、ノート、テーピングなどの"七つ道具"を用意します。練習中の仕事としては、練習メニューを合図する笛吹き、水分補給のドリンク作りと水くみ、ビデオ撮影などがあります。
飯塚
けが防止のため、練習開始前にテーピングするのも大事な仕事です。そのため、テーピング講習会にも参加したり、業者の人に学校まで来てもらいました。
楠原
毎月1回、部員間のコミュニケーションを図る部内報「みつばちだより」を発行しています。「みつばちだより」に載せるため、栄養学とかスポーツ医学の本を買って勉強するんです。「バナナを食べよう」なんて、選手に訴えていました。イラストのセンスも必要です。アメフトは「危険なスポーツ」と思っている親が多いですから、父兄の人にも読んでもらわないといけない。「みつばちだより」の原稿を書いている女子マネが必ず1人はいました。練習が終わる午後5時まではグラウンドにいるのは、選手と同じ。
田淵
うちのビデオ係はすごいですよ。鉄製のバレーボール審判台をずるずる引っ張って、その上に立って練習風景を撮影。地上からかなり高いのに、全然怖がっていない。
楠原
マネージャーは、いつも4人くらいいましたが、忙しくて、ボーッとしている暇なんかない。アメフト特有の仕事が多く、隣のラグビー部の女子マネとは、違っていました。

女子マネに必要なのは「やる気」

司会
マネージャーも、選手同様鍛えられて一人前になるのですか。
守田
入部したては、全然使い物になりません。夏の合宿あたりから、テーピングができるようになります。はじめは指とかだけど。
田口
アメフトのマネージャーの忙しさは定説になっていて、それを自負しているところがありました。
飯塚
私たちの時のマネージャー志望者多くて、1学年10人くらいいました。先輩のマネージャーから「日曜日がつぶれるのは当たり前」「勉強より部活にやる気を注いでくれる人がほしい」と言われました。
守田
結果的にマネージャー希望者をセレクトしたことはありません。でも、ばらばらに来る希望者に「ここのマネージャーは、こういうもんだよ」と説明します。「日曜日がつぶれる」「忙しくてテスト勉強もままならない」と言って、やる気を問うわけです。まあ半分脅しているのに近いですが……。
司会
最近も女子マネ希望者は多いですか。
田淵
足りなくはないですね。最近は選手が足りない。
楠原
私の代は最初7人いた。最終的には4人。入部前に、うちの組織について話があり、「3年の春の大会まではうちの部を恋人と思ってやってくれるか?」って聞かれた。そんな先のことは分からないですよ。

アフター5が忙しい

司会
練習が終わると、帰宅ですか。
守田
金具、ドリンクの粉末など、フットボール関係の買い出しで、アフター5が忙しい。結構、量が多い。マネージャー1人で行くから大変です。
楠原
帰宅コースに合わせて、今日は私が山本スポーツ、だれだれがQBクラブ、と手分けしていました。
田口
立ち寄っても、帰り道のコンビニくらいかな。
楠原
高校生は、お金ないですよー。夜、家に帰ってから、コーチや監督、あるいは試合相手と打ち合わせのため、電話しなければならない。相手が家に帰った後につかまえて交渉する。今は、携帯電話があって楽ですよね。
守田
私はスカウティング用のビデオを借りるため、ビデオを持っているチームの監督さんの職場まで、お礼のお饅頭持って借りに行ったことがあります。欲しいんだったら何をやっても手に入れろ、という世界でした。
田口
けがした選手を病院に連れて行くのも役目。健康保険証を持って来ていないので、ある程度のお金はいつも、部費から用意していた

部費集めは大変

司会
部費集めは、スムーズですか。
田口
1カ月3000円なのですが、なかなか払わない部員がいて苦労した。
一同
いたいた。(笑い)
菊川
顔合わせるたびに「部費!」って、催促するんです。
守田
お母さんに手紙を書いたこともある。親からちゃんともらっているのに、使い込んでしまうのよね。滞納メンバーはいつも同じ。本人も負い目があるのか、払わないまま卒業していった人はいない。
楠原
親からもらう小遣いだけでは部費に回すお金が足りないのは分かっている。だから、親御さんに伝えるため、「みつばちだより」を書きました。「試合が多いので消耗品代が足りない」とか「戸山のフットボールはこんなに盛ん」などと書いて、試合の時に配る。
田淵
経費も安くしようと、学校の生徒会室で印刷して、4〜5枚のものを50〜60部作る。でも、その後の製本が結構大変。紙代もかかるので、たくさんは作れない。紙代がかからないように各代うまくやっていた。

女子マネはお茶くみではない

司会
マネージャーの仕事内容を、入部前に知っていましたか。
楠原
「スタッフとしての位置付けだよ」と、当時コーチの和田さんに言わましれた。「運動部に所属したい」「勉強も両立させたい」と思った時、アメフトのマネージャーは魅力的でした。女子マネだったら体力的になんとか両方いけそうだし。でも、実際は両立できませんでした。甘かったかも知れないが、これほど大変とは思いませんでした。
田口
4月に入学してすぐ、先輩に勧誘されて見学してすぐ入部。3年生の先輩に「マネージャーは、ただのお茶くみのお姉ちゃんじゃいけない」と言われました。2年しか違わないのに、すごくプロ意識みたいなのを持っていました。それと倉林先輩たちがスキンヘッドにしていて、その意気込みがいいな、と思った。だから「やめたい」とは思いませんでした。

喜怒哀楽は選手と同じ

司会
マネージャー生活で、最も忘れられないことは。
楠原
3年生の春は、1回戦(中大付属戦)敗退。負けて目標を失い、目の前が真っ白になりました。今考えると、結果はだめでも、努力するその過程こそが大事だ、ということに気づきました。私たちの代は、今でも特に仲が良い。結果は出せなかったけれど、その分、強いきずなを手に入れました。だから、あの負けにも意味があったんだな、と、今は思えます。
菊川
つらかったのは、最後のシーズン、選手がみんなけがしてボロボロだったこと。マネージャーが一番体力あって「代わってあげたい」「なんかしてあげたい」と思っても、何もできないもどかしさがありました。同期の選手が私たちを本当の仲間だと思ってくれ、ホワイト・デーに選手の寄せ書きのボールをくれたのは、うれしかったな。
田口
3年生の春、都大会2位で引退した時、賞状とメダルをもらったこと。マネージャーがもらえるとは思いませんでした。賞状は今でも、自宅に飾っている。悔しかったのは、最後の試合(法政二高戦)、あと一歩で逆転されて負けたことです。
山本
3年生の春、雨の中での準々決勝・日大三高戦の勝利が思い出深い。格上の相手に勝てるかと、みんな不安でした。勝った次の日の朝、うれしくて笑いながら目がさめました。そういう経験は今まで、それしかありません。
守田
私も、印象的な試合は3年春の日大三高戦。生涯初のうれし涙を流しました。都大会優勝もうれしかったけれど、日大三高戦のほうが「ここが勝負のヤマ。だめかもしれない」と思っていたから、よりうれしかった。つらかった試合は、3年最後の三島戦。コイントスで負け、悲しいというよりむなしかった。「えっ?」という感じでへなへなと座り込んでしまった。第4Qに逆転してもう少しで勝てた。それまで一進一退の試合展開。それがコイントスになってしまった。今となっては冗談にできるけれど。成田君(主将)のくじ運の悪さだって。勢いよく「表―!!」と言ってみたものの…って。(笑)。
飯塚
2年生の秋冬に不祥事があったことが残念。喫煙が発覚して、主力メンバー5人が退部し、ベストの状態で最後の大会に臨めませんでした。選手の停学、部の活動停止1カ月の間、みんなで早朝に学校の清掃をする以外、できることはありませんでした。せっかく戸山の名が高まっているときに、私たちのせいで廃部になってしまったら、先輩たちに申し訳ないと思い、毎日悩みました。
田淵
あの時は、ミーティングの議事録や謝罪文をマネージャーが作って、各教室に張ったりした。停学・活動停止処分の原因になったことは、戸山のよい意味での放任主義が背景にあったし、先生―生徒の信頼関係が薄れてきた証拠だと思う。
飯塚
タッチダウン誌などで先輩方の戸山が紹介されたのは、うれしかった。先輩の頑張りのお陰で、後輩である自分たちも評価されたんです。山本スポーツに行った時、「戸山のマネージャー、すごく頑張ってるね」と言われました。それを励みに自分たちも頑張ろう、と思いました。
佐藤
最後の94年秋、95年春とも初戦敗退。結果だけを見たら最悪でした。でも、勝つことだけがうれしいのではないと感じました。特に、95年春の日大三高戦は、強敵を相手に「ここまでやれるんだ」「打ち込めるのだ」という充実感がありました。あの時、試合前に「みつばちだより」を試合会場で配ったら、対戦相手に拾わたことがありました。うちのの選手が「井出(後に法大)は俺が倒す」と書いていたのですが、試合後に井出選手本人が「落ちていましたよ」と持って来ました。びっくりしましたよ。

人生経験を積んだマネージャー生活

司会
戸山のマネージャー経験は、その後の人生に大きな影響を与えましたか。
田口
大学でも、マネージャーをやろうとは思いませんでした。そういうことができる学校(看護大)でもありませんでした。私の恋人はGREEN HORNETSだけ。ただ、選手の体調に気を使うマネージャーをやっていなかったら看護婦にはならなかったと思います。進路には大きな影響を与えてくれました。
菊川
よい友人に恵まれたことは大きいですね。
楠原
精神的に信頼できる友人たちを得ました。マネージャーをしたことで、組織の中で自分はどういう役割を果たせばいいのか、わかるようになりました。就職活動のとき、採用に有利に働いたし、仕事(注・証券会社に就職)を始めてから実際にも役立っています。外回りの営業マンが選手なら、内勤の自分はマネージャーに近い存在ですが、会社は過程や手段より結果をまず求めます。悩んでいる営業マンがいても、自分には何もできないことに無力感を覚えました。今は、人を支援する側に回りたいと思っています。
山本
大学入学後、体育会でマネージャーをやろう、と思っていました。でも、入ってすごく寂しさを感じてすぐに退部しました。「フットボールが好き」というより、まずは「戸山が好きだったんだ」と気づきました。その後、いろいろ迷ったり悩んだりしましたが、結局はフットボールが好きなので、そういう関係のアルバイトについて今につながっている。戸山のフットボールにかかわっていなかったら、こんなにフットボールを好きになってはいないと思います。
飯塚
(印刷会社に就職、営業職)自分はモノをつくることが好き。その原点は「みつばちだより」にあると思っています。何か一つのモノを残したい、と思うようになりました。今の仕事も、マネージャーに近い。自分が主役というよりも、著者や編集者が選手としたら、自分の役目はその進行や管理。今の仕事はマネージャーとの共通点があります。
佐藤
マネージャーは自分の中でもう既に完全燃焼した、というのがあったから、大学ではやろうとは思いませんでした。今サークルでラクロスの選手をしていますが、チームの仲間がけがに無頓着なのに驚きました。安全意識も疑問です。そうした危機感から、チームのメディカルケアを買って出ました。今は選手兼トレーナーという感じ。自分では当たり前のことなのに、周りに「すごい」と言われて不思議な感じがします。あとは、フットボールを全然知らない人にも、「戸山のアメフトのマネージャーをやっていた」というと「すごいね」と言われて、その知名度の高さにも驚きました。
守田
初対面の人と会ったり、何か行動を起こす時、「当たって砕けろ」「挑戦することを恐れない」という精神が身につきました。また、働きかけることの重要さなど、人間関係についても学びました。「痛い」「つらい」などと言ってくる選手はいいけれど、口数が多くない選手に対して配慮するように努めてきました。それが教育実習時にも役立った。話しかけたその場では反応がなくても、あとで「あのときうれしかった」と、返ってくることもあります。働きかけることは大切です。
司会
選手たちと同様に、マネージャーの方々も実に大きなものを学んで卒業されたようですね。今後の人生で、学んだことを大いに生かして下さい。




夏合宿に初めて参加した女子マネージャー
練習記録と、その"母"のつぶやき


僕は戸山高校アメリカンフットボール部の練習記録です。1976年に誕生して今年で24歳になります。今は「みつばちだより」も発行されるし、立派になった僕ですが、今回は、僕の出生の秘密をお話しします。

女子マネの合宿初参加から生まれた練習記録

練習記録
僕はなぜ生まれたの?
あなたはね、ず〜〜と昔、私と同期の清水さんが高校1年生の時、女子マネージャーとして初めて夏合宿に行くためにできたのよ。私たちは夏合宿に行きたかったの。だって、高校生活には合宿がなくちゃ……。それに、那須寮の写真はとっても素敵だったし、天皇陛下も避暑に行く那須よ。行って見たかったの。でも、それまでの女子マネージャーは合宿には連れて行ってもらえなかったの。私たちの時も、亡くなった顧問の伊原先生は、「用がないなら来るな!」とおっしゃったの。だから、「あなたのお世話」という用を作ったのよ。
練習記録
え〜〜!
ところが避暑地の那須高原と戸山の那須寮は雲泥の差。私たちは、半面日焼け(同じ方向から練習を見ていたから)をして、「馬小屋かしら」と思う木造の合宿所に泊まったのよ。そこには、アリがたくさんいて、足がかゆくて、眠れなかったわ。食堂は土間だったし。でも、昼は猛暑の中で目いっぱいの練習、夜は講堂で筋トレし、そんな中でも「布団蒸しだ〜〜」と言って騒ぐ選手たちがかわいくて、合宿についてきて良かったな〜と思ったの。
練習記録
僕はどうしてたの?
その頃のあなたは、練習メニュー、ダッシュやパスやダミーの練習の記録、攻撃守備のパターンの記録、練習試合のスコアといった、細々としたものだったわ。でも、OBやキャプテンもあなたの誕生をとても喜んでくれたの。何を書くという決まりは何もないから、あれこれ試行錯誤でいろいろやるのがおもしろかったわ。「○○ナイスキャッチ」「△△70ヤード奇跡のロングラン」「□□ダッシュで手抜き」なんて勝手にコメントをつけたりね。そういえば、合宿では、パオパオジュースとかいう変な飲み物が流行していたわ。
練習記録
それ何?
それはね、駄菓子屋の粉末ジュースで、簡単に言えば、「ブドウ糖+色素」ね。でも、砂糖よりもブドウ糖は吸収が良いから、疲労回復という意味では結構イケてたかも……。ポカリはなかったし、ゲータレードは値段が高いから、試合の時だけ、粉をすご〜く薄めて出したのよ。あなたの生まれる前の試合のときには、試合会場だった西高近くの牛乳屋さんで、ケースごと空の牛乳瓶を借りて、洗って、水を入れて、ハドルの時、選手のところまで運んだんだから。
練習記録
えーーーーーー!!僕を育ててくれたマネージャーは、ベストセラー作家の乙武君や、部誌の「GREEN HORNETS」を編集してくれる素晴らしい人ばかりだと思っていったのに……。あ、そうだ。お母さんがいまだに筋骨隆々なのは、選手と一緒にタックルなんかの練習をしたからなんだね。
何言っているの!(バシバシ!バシバシ!……)
練習記録
ギエー

 こんなお母さんだったけれど、テーピングについては熱心に勉強していました。フットボール用品の「富士丸」にも「キュービィクラブ」にも連れていってくれました。とても強くて雲の上の存在だった東海大浦安に勝ったときは、うれしくてうれしくて涙、涙していました。そして78年春、アメフト転換後初めての都大会決勝、関東大会をも記録する幸福に恵まれました。

 こんな、「戸山発那須行きの切符」として生まれてきた僕だけれど、出席簿以外は部員に愛されているし(?)、こうして「GREEN HORNETS」や「戸山50年史」に載っかって、毎年たくさんのOBの方々にお会いできるし、とても幸せです。

 マネージャーの皆さん、これからもよろしく、そして、選手の皆さん、偉大なOBの力に押しつぶされることがないように、あなたが主役です! (1979年卒、北村=旧姓高原=直子)

■清水の後記

本当は合宿に連れて行かせたくなかったのか……

 なんだなんだ、これは。ずいぶんカワイイ話じゃないか。北村さんはさすが二女の母だな。しかし、おかげで私もいろいろ思い出させていただきました。某OBが「GREEN HORNETS」に、私たち(当時の高原と私)のことを書いて下さったのを読みましたが、まさに目からウロコでした。「なんだ、伊原先生は私たちに行って欲しくなかったのか!それならそう言ってくれんとわからん」。もし私たちがもっと賢かったなら、マネージャーが合宿に参加するという先例も生まれなかったわけで、まったく世の中はなにが幸い(?)するかわかりませんね。

 私が覚えている限りでは、私たちはとにかくプレーヤーに参加したかったのです。ケガをなさったプレーヤーはおわかりかと思いますが、ただ見ているだけというのはつまらないものです(私は防具をつけてぶつかってる夢を何回か見ました。そんなこと言ったら、やらされそうだったけど。筋骨隆々だし)。私たちは結局やりたいことをやっていただけなので、お役に立っていたのか超不安です。

 高校を卒業してから長いことフットボールとは縁のない生活を送っていましたが、その間戸山高校フットボール部の歴史は脈々と続いていたのですね。感慨無量です。随分と熱心なマネージャーさんたちもいらっしゃるとか。選手のみなさん、後々残る誤解のないようにマネージャーさんたちには物をはっきり言いましょうね。これからも皆様、頑張ってください。応援しています。(1979年卒、清水 恵)