可能性を感じる部員のひたむきさ

  1990年卒、真砂野 亮太(1996年〜コーチ)

 1987年の春に戸山高校アメリカンフットボール部に入部して以来、クラブは私にとって常に身近で大きな存在でした。高校卒業後は関西の大学へと進学しましたが、大学在学中から、就職して関東に戻ってくれば戸山に行くのが当たり前、といった感覚をずっと持っていました。実際その通りになりました。しかし、私としては特に、コーチをするため戸山に行っている、という気持ちはほとんどありません。

 私の足を自然と戸山のグラウンドへ向けさせるのは、部員たちのフットボールに対する一途なひたむきさと大きな可能性を感じるからです。

私がプレーしていた戸山の2年間は、決して強いチームではありませんでした。当時の目標は春の都大会1回戦突破であり、関東大会に出場するなど夢にも思ったことがありませんでした。日大系列の付属高校などの強豪チームとの対戦では、試合前から名前負けしており、TDを一つでも奪うことができれば上出来、という時代でした。

「心を変えれば行動が変わる」

 そんな低迷期に変化があったのは、私が卒業した直後の90年の春季大会でした。田淵監督、小野、和田コーチを中心に、倉林主将の強い信念の下、1戦1戦、力強く戦い、都大会優勝、関東大会準優勝という素晴らしい成績を残しました。この成績を大会前に予想した人は、恐らくいなかったでしょう。ただ、主将の倉林だけは「関東優勝」を大会前から信じて日々練習していたと思います。

 社会人になってから知った、ある経営者の言葉があります。

 「人間、心を変えれば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば運命が変わる」

 まさに、都大会優勝、関東大会準優勝は、この言葉を実現したものだと思いました。 戸山のような学校でも、部員たちの情熱をうまくいい方に向け、正しい指導、チーム作りをすれば、十分に私立の強豪チームと戦うことができ、勝利することも不可能ではありません。このことは90年以降も、何度か強豪私立チームに勝っている成績をみれば明らかでしょう。

勝つために1人1人が何をするのか

 自分たちで目標を掲げ、その目標を達成するために努力する。単に「勝ちたい」と思って努力するだけなら、誰にでもできます。しかし、勝つために部員1人1人が何をしなくてはならないのでしょうか。さらに、それを具体的に実行しやり遂げることが不可欠です。その過程の中では、仲間との葛藤もあれば、自分自身との闘いもあるでしょう。さまざまな困難を克服した者だけが目標(試合の勝利)を達成し、本当に心底からうれしいと感じることができるのです。私は現役の部員が1人でも多く、このような体験をしてほしく、その役に立てたらいい、と思っています。

 最後に、クラブ発足50周年の年に、チームに携わっていられたことをうれしく思います。50年という長い年月の間には、都大会優勝・関東大会出場といった素晴らしい成績だけでなく、廃部の危機といったこともあったでしょう。いろいろな苦難を乗り越え、今日に結びつけたOB諸兄には、感謝するばかりです。今後、60周年、70周年になっても、戸山高校アメリカンフットボール部が、高校生にとって魅力ある場であり続けてほしいと思っています。




選手とともに戦う

  1991年卒 古川 義之(93〜98年コーチ)

私が大学に入学したのは1992年春、小野コーチ(現関西学院大学アメリカンフットボール部ヘッドコーチ)が関学に赴任された直後でした。オフェンスコーチの人材が不足していたこと、また私にとっては同期の村山君や富谷君がコーチをしていたこともあり、戸山に足を運びやすく、自然とコーチの一員になっていました。私は浪人中、大学でもフットボールを続けようと志していたのですが、結果としてはその夢も破れてしまいました。プレーすることができず、余ったエネルギーをどこかに注ぎ込みたいという気持ちが強かったのかもしれません。

指導に悩んだ時も

私は、現役時代はWRだったため、プレーが始まった後は、オフェンスラインのアサインメントはすべて自分の背中で行われていたことであり、オフェンスのアサインメントを全く理解していませんでした。選手に教えられることは、WRの選手の指導とパスコースをアレンジすることぐらいで、コーチを始めた当初は正直言って「私などが、コーチをして良いのだろうか?とても、小野さんの代わりが務まるわけがない」と悩んだときもありました。そんなとき、田淵監督に「無理に選手に何か教えようとしなくてもいい。選手のそばにいて彼らの相談相手になることで十分役に立つんだ」と言葉をかけて頂き、非常に気が楽になったことを覚えています。

私がコーチになったと同じころ、京大アメリカンフットボール部で活躍されていた関口コーチ(現大阪学院大学アメリカンフットボール部コーチ)が、東京に戻られ、関口さんからオフェンスの考え方についていろいろ教えていただき、現役時代と比べ格段にフットボールの理解が深まっていったと思います。私のコーチとしてのスタンスは、私もチームの一員であり、選手とともに戦っている気持ちを常に持ち続けようというものです。勝利に対するあくなき執着心を持ち、自分の姿勢を見て選手たちも奮起してくれればよいと考え、取り組んでいきました。

創意と工夫が勝利の感動を呼ぶ

私がよく選手たちの前で口にしたことは、「自分たちが関東制覇をするにはどういう相手を倒さなければならないのか徹底的に認識しろ」ということでした。スピード、体格的にも上回る相手に対して、まともにぶつかっていくだけでは、試合になりません。他の高校の選手たちがやっていないことを、自分たちの創意と工夫の中から考え出し、それが実行できたときに初めて、勝利に対する感動が生まれてくると考えるからです。

コーチをして4年目の95年、高山君(1997年卒)が主将のチームの時でした。それまで2年間、残念ながら関東大会に出場する機会を逸していました。関東大会を経験したことがないためか、新しい代になった現役選手は勝負に対する意識が低く、驚愕しました。そのとき一緒にコーチをしていた金津君(1993年卒)と必死になって、チームの意識改革に取り組んできたことが思い出されます。私自身も、大学4年となり実質的にコーチをしていく最後の年になると思い、今まで以上に熱が入っていたのかもしれません。徐々にチームの雰囲気を変わり、3年ぶりに関東大会の出場権を得て、自分と一緒に取り組んできた選手たちと喜びを分かち合えたときは大変感動しました。

コーチをしてよかった

後になって彼らの父母と話をする機会があり、ある選手が「あきらめムードを持ったコーチの多い中、古川コーチは決して自分たちを見捨てなかった。それがとても励みになった」と両親に話していた、と聞きました。自分の思いが選手に伝わっていたことを知り、本当に戸山でコーチをして良かったと思いました。

戸山でコーチをして6年間、自分自身、選手たちに技術的なことを教えるには力量不足で、うまくできなかったと思っています。むしろ、その代々で一緒に戦ってくれた選手たちが、自分と同じ思いで取り組んできてくれたことに対し、感謝したいと思います。結局、コーチ在任中は関東制覇を成し遂げることができませんでしたが、必ず達成できる日はやってくる堅く信じております。

私も今では、社会人となり東京を離れて生活しているため、直接戸山と関わることができなくなってしまいました。これからは、校舎の改築などもあり戸山アメリカンフットボール部を取り巻く環境は厳しくなります。現役選手たちが目標に向かって取り組む環境を維持していくためにも、田淵監督はじめ、社会人スタッフ、学生コーチ皆で団結してこの窮地を乗り切ってほしいと思います。




仲間の力を借りて自分を超えていく

  1991年卒、村山 元(1992年〜コーチ)

戸山高校のフットボール部は、自分の力を試すところであり、挫折し悩み苦しんで自分の力のなさを痛感する場所です。不安でどうしようもない時、仲間たちの存在にようやく気付いて、その力を借りて今までの自分を超えていく、そんな場所です。僕はそう思っています。

 それはコーチにとっても同じです。僕はこの場所で、コーチになってからも自分の弱さを痛感したし、力のなさを思い知りました。自分の存在意義があるのかないのか?世の中に必要なのか?訳の分からない焦りや不安などは、コーチになってからの方が多いかもしれません。

しかし、周りを見れば田淵さんをはじめ、いろんな人がいてくれるし、みんなの力を借りてだいぶ越えていけた自分があると思います。悩みや不安はみんなで共有しましょう。後輩コーチが思い入れを持っていることはうれしいし、涙流して悩んでいることも兄のような気持ちでうれしい。

時間がなければ、やりようがある

 コーチがいかに時間を割いているか、OBがどういう気持ちで来ているか、などということは卒業してからしか分かりません。私も社会人になってようやく、20年以上フットボールに関わっている田淵さんのすごさが分かるし、小野さんや和田さんや関口さんたちが働きながら、どう都合をつけてきたのか、そのすごさが分かる。時間がないにしても、やりようはあるのです。

 戸山の歴史だってそうです。もう50年だ。この部活は。それまで各代抜けもなく、僕らのようなフットボーラーがいた。不良(?)だった、ご年輩のOBたちが今でもチームを気遣ってくれたり、熱くなって応援してくれたり、涙してくれたり。自分の商売道具を嫌な素振りも見せずに、毎週貸してくれる。たかだか高校の3年間に関わった部活なのに、自分の世界にこれだけのつながりができていることに驚きます。伝えていきましょう。

最初はみんな頼りない

 話は変わるが、吉村も「現役時代の自分たちは、たらたらして見えただろう」と言っていました。僕がコーチとして母校に関わってから、金津、成田、成松、高橋、高山、平井、横田、目黒、富永と代が変わったが、どの代も安心して見ていられた代はありませんでした。都大会準優勝の金津たちでも最初は最悪でした。中途半端にちゃらちゃらとフットボールをしているやつもいました。成田たちだって目立つやつと目立たないやつの差が激しく、しかも、目立つやつは文句たらたらで、試合中も何考えてやってるんだ、という感じでした。

都大会優勝の成松たちも、問題ばかり起こし、ヘルメットを勝手に黄色に変えてしまいました。高橋はキャプテンとして弱かったし、曜一はしゃべらない。橋本や秋本は、けがをするし、出だしでつまずいた。高山たちはみんな、他人行儀な選手ばかりで、一つになれるのか不安だった。平井は初のキャプテン臨時休業となった。横田の代はコーチとの信頼関係が薄かった。選手が何か悪いことをして、東大のグラウンドで露骨に嘘を付かれたときは、「あーあ、距離ができているな」と思った。目黒は負けてしまった。

一つになる瞬間

 だけど、どの代もみんな僕は大好きです。かけがえのない仲間たちです。不安はたくさんあったが、どの代も結局一つになる瞬間があり、これは戸山のマジックだと思います。吉村たちの三島戦も試合が終わっていないのに、ディフェンスがみんな集まって自分たちの目指していることや、お互いを励まして涙流しているのを見た時はすごいと思いました。目黒たちの最後のオフェンスで、サイドラインの部員が手をつないで応援しているのを見た時も心が震えました。

 新チームを見ると、いつも、子供のようにふらふらしていて、全員の意志が一つにまとまっているのか不安を感じます。しかしどの代もそうだったように、チームが一つになる瞬間は必ずあります。それはもしかしたら、関東優勝を果たした後かも知れない。卒業してどこかでみんなが集まった時かも知れない。それでは、勝てないと思うが……。

だけど、それぞれがどんな形にしろ、青春を戸山のフットボール部で、かけがえのない時間を過ごしていることは、間違いのない事実だと思います。今のチームも、最初に比べればだいぶたくましくなっています。

こちらが持っている不満や不安や憤りはぶつければいい。一丸とならなければならないのだから、それは逆にチャンスになるのでは。選手の不満や焦りを、コーチが感じてあげることは重要なことでしょう。結局、心を開き合わなければ、何も始まらないと思う。和田さん対金津さんたちのDB陣のタックルみたいな、ショック療法もいいかも知れません。汗水、涙流してコーチしていきましょう。