戸山のフットボールは、みんなの"ふるさと"

 1980年卒、田淵 浩司(1981〜86年コーチ、87から現在監督)

このクラブに入部したのが23年前、コーチをするようになって今年で20年目になります。随分と長い間、このチームとともに過ごしてきたものだなあ、と自分でも驚いています。50周年の節目にあたり、これまでチームの足跡を振り返り、今後の方向について述べてみたいと思います。

フットボールをやれることは幸せ

下級生の時(1977年)は新しく始めたフットボールがとにかく面白く、練習が楽しみでした。控え選手でしたが、先輩たちと都大会(78年)で準優勝し関東大会に出場しました。特に決勝で駒場学園に逆転負けをした悔しさは、強烈な経験でした。上級生になると、病気や骨折で見学が多く、さらに校庭改修(78年)で練習をやりたくてもやれず、毎週土曜日は多摩川の川原に通うなど、苦労した思い出ばかり。華やかな記憶はありません。しかし、この2年間で両極を体験したことは、その後チームを指導するうえで、とても役立っています。特に「フットボールがやれることは幸せなのだ」ということを、ずっと後輩たちに教えていきたいと思う原点となっています。

上級生だけでは指導できず、コーチに

大学に入学した時(81年)、前年に起きた不幸な事故で上級生は3人と非常に厳しい状態でした。都大会準優勝からわずか3年、チームは大きく変わってしまいました。上級生だけでは新入生12人の指導ができず、OBとして毎回練習に行くようになったのが、コーチを始めたきっかけでした。新しく就任した毛利監督は医師であり、私は技術面のみならず身体に関するご指導を受けました。「2度と事故を起こしてはならない」ということを念頭に置き、安全面に気を配りながら、「基本技術の徹底」をモットーに指導しました。秋季大会を棄権し練習試合も少なく、今から思えばつまらない練習だったと思いますが、主将の尾崎君はじめ3人の上級生はよく頑張りました。その成果として、翌82年の春季大会1回戦で98−0と大勝した時の嬉しさは、忘れることができません。

 高校フットボールでは基本がきちんとできれば、かなりの実力を発揮することができます。しかし単純な基本練習は、選手が飽きてしまいがちで、情報過多な現代では、選手たちは複雑なものに目が向いてしまいます。目先のことに目を奪われことなく、「安全」に注意を払い、押し付けにならないように、反復練習を繰り返すことを指導するのがコーチの役目だと思います。 

コーチは部員の補正係

このクラブの特長は、部員が自主的に運営するところにあります。コーチはその相談役となり、誤った方向に進まないように補正する係です。何かを押しつけることはせず、部員と同じ視点に立って、共に練習し考えながら、チームとかかわってきました。私は名目上コーチでしたが、実際にはいつまでも高校の部活に夢中になっていた大学生だったようです。部員と一緒になって取り組み、「フットボールの楽しさ」を教えることができれば、エネルギーあふれる高校生たちは、夢中になって練習に励み、ぐんぐんと技術が向上しました。 部員の「やる気」で成立しているこのクラブには、強力な指導者は不要です。言われたことだけをすればいい、コーチが何とかしてくれる、といった指導者依存型は戸山の場合、チームをだめにします。主体はあくまで部員です。

一緒になって、笑ったり、悩んだり、叱かられたり、誉められたり「兄貴」のような存在が必要だと思います。これがこのクラブの核となる部分で、私が監督となってからも、この部分を大切に育てることに、傾注しています。兄貴分の存在は代々、新開、伊藤、真砂野、村山、古川、金津、生山、吉村、寺島、星野の各君に脈々と続いています。

今後、校舎改築で校庭がなり、部員が減っても、この部分が頑張って、部員を支え、チームを盛り上げていけば、必ず持ちこたえられると信じています。社会人だけでなく、大学生のような若い力、行動力が必要です。

希望を捨てず

何度か優秀な選手がそろい、強いチームが育ったこともありましたが、大会ではいつも日大付属の強豪チームが立ちはだかりました。人数が多く練習量も豊富で、体が大きく足も速い。そんな相手に当時の部員たちは、都立校と私立の強豪校とでは、「次元の異なる存在だ」と、戦う前から萎縮しがちでした。戦ってみると試合の前半は予想外で、互角以上に戦えますが、後半は力尽きて何度も涙しました。 私は現役時代、都大会の決勝に出場した経験があり、可能性は必ずあると思っていました。希望を持った者がチームにいなければ、チャンスが来ても勝てないという思いが、長くチームを離れなかった理由の一つでもあります。

「必ずもう一度、決勝戦まで勝ち上がり、今度こそは優勝したい」という夢をあきらめず、「いつか必ずチャンスがある」と10年以上、希望を持ち続けていました。

ある時(88年)、小野さん(79年卒)が戻ってきてくれました。2年生だった小川、真砂野両君の頑張りで、20人の新入部員を迎えました。小野さんのつながりで京大出身の和田氏がコーチをしてくれました(89年)。この時のチームの成長は目覚しいものがありました。私も自分ができることを探してはチームに貢献しました。その結果90年春、長年の夢だった「東京都優勝」を、つかむことができました。思い出多い西高のグラウンドで胴上げしてもらっている時、いろんな光景が頭をよぎりました。 

欠かせぬ顧問との協力関係

87年、毛利監督の仕事の都合で、私はまだ26歳でしたが、監督を引き受けることとなりました。監督を任されたものの、時間的に土曜日にしか行くことができず、大学での選手経験もなく、医学の心得もない自分に何ができるのかいろいろと考えました。私が心がけたのは

、当時、長年顧問をしていただいた伊原先生が退職されので、後任の顧問の先生と信頼関係を築くことでした。学校教育の一環であるクラブ活動である以上、顧問の先生の理解と協力がなければ、部の存続は有り得ないからです。当時の杉谷先生には大変お世話になりました。 

さらに都の方針が変わり、数年ごとに教員の異動が行われ、工業高校や定時制など、様々な学校から戸山に赴任して来られるようになりました。クラブとして多くの先生に気持ちよく顧問を引き受けてもらえるように、確固たる体制を整えるとともに、部員の成績や生活態度にも気を配っていかなければならないと考えます。フットボール部は人数も多く、体が大きくていろいろな意味で、学校内では目立つ存在です。「あいつらは頑張っているな」というふうに、みんなの注目を浴びて、応援してもらえるような、クラブであることを望んでいます。現在、山田先生はじめ4人の先生に顧問を引き受けていただき、合宿や試合、休日の練習、けが人の対応など、大変お世話になっております。

 今後、校舎改築で校庭が使えなくなると、学校外で活動するようになり、顧問以外の先生にもお世話になる機会が増えてきます。生徒たちには、指導するOBも含め、部員以外の人たちへのあいさつなど、当たり前のことが、当たり前にできるようになってほしいと思います。

フットボールに打ち込める環境作り

戸山の監督の役目は、「どんな時も部員たちが伸び伸びとフットボールに打ち込める環境」を与えることです。親の監督下にあり、大学受験を控えた高校生にとって、家庭の理解と協力がなければ、クラブ活動はできません。そのため定期的に父母会を開くなど、ご両親の理解を得るよう多くのコミュニケーションを図ってきました。これは現場で指導する我々にとっても部員の日常生活を知ることができ、よりよいアドバイスをすることができます。

部員たちを取り巻く、学校での顧問の先生、家庭の両親、現場の監督・コーチ、そしてOB、様々な信頼関係の上に部が成り立ち、部員たちを見守ることが最良の環境となると思います。

都大会優勝(90年)以降、大会や練習試合には保護者の皆さんが応援に来て下さるようになりました。家庭でも、家族一緒にフットボールの番組やビデオを見るとの話も聞きます。温かいご家庭のお力添えのおかげで、こうしてクラブが続いているのであり、指導者として感謝しております。部員たちにも、両親に感謝するように話をしています。自分も子供の父親となり、部員との年齢差も広がって、部員への視線も親に近いものなってきています。

多くの人々による環境整備

二度と事故を起こさないためにも医療体制は、最も重要な部分です。90年から東京都障害者センターの土肥先生が好意で、試合や大会に足を運んでくれていました。最近は職場が変わられたこともあり、76年卒OBの川又先生(日大駿河台病院)に面倒を見て頂いています。また大会のゲームドクターとして61年卒OBの小林先生(厚生中央病院)にもご協力いただいています。 「けがをしない、させない」ために、マネージャーたちに体の構造やトレーニング、栄養の勉強をしてもらい、部内報「みつばちだより」で毎月、選手たちに伝えるようにしました。チーム全体でけがの予防を意識する雰囲気を作っています。 学生コーチにもけがに対する意識を強く持ってもらい、安全セミナーに参加して、正しいブロックやタックルを指導するように心がけてもらっています。

活動資金については、OB会名簿を整備し、92年から毎年、部誌「GREEN  HORNETS」を発行して、チームの状況を伝え、OB同士の親睦を図ってきました。年会費や寄付、協賛広告といった形で、多くのOBの方々にご協力をいただいています。また、98年からはホームページを開設し、より早い情報の提供や、意見交換ができるようになりした。OB会の事務局作業は、私と妻とでの家内作業で対応しているため、500人を超えるOBのみなさんには十分な対応が行き届かず、ご迷惑をおかけしています。  戸山公園にある新宿区スポーツセンターでのトレーニングは、費用をOB会からの援助でまかなうようにし、けがの防止につながっています。 夏合宿でのOB宿泊費もOB会費のおかげで、毎日10人ずつ、延べ50人以上のOBに指導に来てもらえます。安全に最も注意が必要な合宿も、十分に目が行き届くようになりました。

防具についても、92年より山本スポーツ伊東氏のご協力により、一斉点検を行い、正しく整備されるようになりました。 このように、いろいろな方面で、多くの方々のご支援をいただき、事故が起きないような環境は、ここ10年で少しずつ整いつつあります。

外部との関係

96年より東京選抜チームのコーチを務めるようになりました。 私立高校では、顧問兼監督の体育の先生が、何年にもわたってチームの指導、運営を一手に行っています。そういった方々との交流は、フットボールを支えていく仲間として、得るところも多く、練習試合や、合同練習などの、技術交流を図っています。今後、校舎改築で校庭が使えなくなる話をすると、どの先生方も、快く交流を引き受けてくれます。部員たちにとっても、学校を超えた交流は、良い刺激となって、さらなる励みとなります。 大会を運営するにあたって、93年より99年まで、戸山のグラウンドを会場に提供。審判としては、92年より84年卒新開、木村両君、98年より78年卒岸さん、99年より91年卒金津君が協力してくれています。

90年以降、優勝2回、準優勝1回、3位、ベスト8各2回の成績を収め、部員数も上位を占めています。東京の高校フットボールチームの中で、戸山は、それなりの存在感があり、責任ある立場にいる、と言えましょう。

戸山のフットボールは永遠に

戸山のフットボール部に、毎年選手たちは思いを寄せて打ち込み、そして去って行きます。仲間と共に苦しみ、闘い、喜怒哀楽を分かちあった経験は必ず、私たちの人生の先々でプラスとなり、青春時代に自分を打ち込める「場」に巡り会えたことを誇りに思う時が来るでしょう。そのような「場」をこの先も、失うようなことがあってはなりません。何百人の先輩たちも、この後同じ道をたどるであろう後輩たちも、時代が変わっても、グラウンドに戻ってくれば、いつも自分たちのフットボールがそこに存在してほしいものです。  そんな「ふるさと」のような場所を、みなさんのご協力で、維持、発展させていきたいと思います。これから校舎改築の5年間は、このクラブにとって、試練の時期となりますが、よろしくお願いいたします。

最後に私事で恐縮ですが、監督業も家庭の理解がなければ務まりません。3人の子供の世話ばかりか、夜鍋での事務局作業などをしてくれる妻への感謝を、50周年の節目にあたり、付け足させていただきます。