レベルは大学1、2年生級だった

   初代コーチ 尾上 博久

突然訪れた2人の青年

 1950年の11月終わりか12月初め、2人の青年が高田馬場の自宅にやって来た。それが細見淳氏と西川郁三氏だった。繊細な感じの細見氏と、一見真面目そうだがヤンチャな西川氏は、こう言った。

 「戸山高校タッチフットボール部の者です。突然のお願いで恐縮ですが、コーチをしていただきたく、伺いました」 私はびっくりして「一体どこから私のことを調べたのか」と聞くと、「連盟に誰かコーチをしてくれる人がいないか頼んだところ、戸山高校の近くにお住まいの尾上さんを紹介いただきました」とのことだった。

フットボール普及のためコーチ就任受諾

 当時、私は法政大学の主将に決まったばかり。即答を避け、早速、大学のジグス保科監督に相談した。保科監督はハワイ2世で、わが国フットボール界の草分け的存在。その保科監督は「君、いいじゃないか。日本のフットボールの普及にもなることだし」と快く許可してくれた。

 年明けのある日、自転車を飛ばして7、8分の戸山高校に行った。早速、先日顔を合わせたばかりの細見、西川氏から顧問の伊原先生を紹介され、あいさつをした。伊原先生はまだ23歳。熱血教師のにおいがプンプンと伝わってきた。長い付き合いではなかったが、先生は常に「生徒のために」「部のために」と一生懸命指導されていたことを今でもよく覚えている。 グラウンドに行くと、大・中・小と入り交じった体格の一団が待ち構えており、その一人一人の顔からガッツと言うか、熱いものを感じた。あいさつと今後の方針を述べた後、実技として基礎的な動きを見せてもらったが、予想以上のレベルに達しているのに驚かされた。そのため、コーチング内容を大学2年程度までレベルアップすることにした。

週に2、3回は戸山へ

 当時の大学は、秋のシーズンが終わると、次の目標を春の新人戦に置いており、新人教育の傍ら、上級生が自主トレするといった内容だった。このため私は、比較的体の自由がきく春季シーズン中は、多い時で週3回、最低でも2回は戸山に通った。夏の合宿からは試合翌日の練習休みを利用して、コーチを続けた。 皆、覚えがよく一生懸命。まさに文武両道で、「さすが旧四中!」と感心し、比較的楽しくコーチを務めさせてもらった。私もつい熱が入り、ハードなことをやらせたのではないか、と反省している部分もある。

大学生とアメフト試合

 いつしか、私も選手もエスカレートして、とてつもない計画を立て、伊原先生を困らせた。それは、アメリカンフットボールの体験だった。

 最初に声を上げたのは、選手の方だった。「一度でいいから、防具を着けてゲームをしてみたい」と言うのだった。私もその声に乗って、無責任にも「法政の1、2年生との練習試合なら実現できる」と答えてしまい、早速保科監督に趣旨を説明して、協力をお願いした。保科監督から「安全面を考えて計画しなさい」と承諾を得た。

 試合までの準備期間が十分でなかったため、選手にはだいぶ無理をさせてしまった。首や体の筋力をチェックしたが、幸い防具を着けずに練習をしていたせいか、十分鍛えられており、問題はなかった。頃合いを見て、武蔵小杉の法政グラウンドで練習していた法政の防具を借り、選手たちには決してフィットしなかったが、汗臭い防具を楽しそうに着け、コンタクトなど練習に励んだ。慣れたころ、法政のバックスとラインの主力(後に主将になった増田、吉岡選手)に来てもらい、タックルなどの実体験を積んでもらい、試合に使う攻守のプレーを確認して準備が完了した。

 高校シーズン終了後の51年12月、試合の日がやってきた。グラウンドはお願いして隣の女子学習院を借りた。安全を期して試合時間の短縮(1Q12分)、早めのホイッスル、危険なブロッキングの禁止などを組み入れた。戸山の攻撃はラン7割、パス3割、守備は相手が大学1、2年生のためパスがないことを見越して、セブンメンを採用した。戸山の選手は緊張のせいか、ほおが突っ張っているように見えたが、用意していたトリックプレーの自由の女神がものの見事に決まり、誠に痛快だった。残念ながらTD1本‐2本で敗れたが、全員けがもなく無事終わり、内心ほっとした。

 このような無謀なことは、今の私にはできない。伊原先生には、多大な迷惑をかけたことだろうと反省している。後で聞いたところでは、懐に辞表を持っていたそうで、覚悟の上のアメフト試合を許可したとのことだった。

 52年大学卒業とともに戸山のコーチを退いた。1年余りの短い間だったが、名門戸山のチームを指導することができて、幸せだった。GREEN HORNETSの益々の発展と活躍を祈念申し上げる。




戸山のタッチフットボールを率いて

   1952年卒、西川 郁三(1952〜61年ヘッドコーチ)

 私は尾上氏の後任ヘッドコーチとして、戸山を卒業した1952年4月から61年3月まで、同期の細見淳を監督にコーチングを推進した。細見とは特に役割分担を取り決めたわけでがないが、彼には対外的な交渉▽選手に対する安全管理と病院・医師の治療手続き▽米国からの資料取り寄せ▽フットボール指導のフォローなどを引き受けてもらった。

尾上さんと同じ法政大に進んだ私は、シーズンオフはほぼ毎日、シーズン中は大学の練習が休みの月曜日と試合翌日、それぞれ戸山に行った。秋の関東大学リーグ(6校)は5試合。戸山と法政の試合が重なることは滅多になかったが、その時は細見にゲームプランを頼んだ。また、伊原先生にお願いして日曜日の練習を実施した。

米軍フットボール講習会に学ぶ

 フットボールの基本的な勉強は、尾上さん、法政の保科監督に学んだ。大学4年だった55年7月には米軍のフットボール講習会に参加。この講習会は、日本各地にある基地単位のチームのコーチらを対象としているものだったが、日系2世の保科監督にも招待状が届いた。保科監督は当時法政の副将だった私に「君の将来のために、参加しなさい」と言われ、参加した。講師はミシガン州立大のドーン・ヒューティー、バート・スミス、メリーランド大のジェームス・M・テータム、テキサスA&Mのポール・W・ブライアントと米カレッジを代表する著名コーチだった。 また、51〜53年ごろ、米国に留学していた細見の姉から「How to play football」「Notredame T」「Oklahoma split T」を送ってもらい、同期の沖野に翻訳してもらった。さらに、ほぼ毎週のように行われていた米軍基地対抗試合も観戦した。

月並みなフォーメーションでは勝てない

 こうした研究の結果は、フットボールに[対する新しい発想が生まれてくる基礎となった。戸山ヘッドコーチを務めた9年間、チームを分析、それに基づいて実施した戦術・戦略は、以下のようなものだった。

[1]戸山の課題

  1. 対等のレベルでは試合に勝つことはできない。オフェンス、ディフェンスのフォーメーションが月並みでは、同じレベルで戦うことになり、試合に勝てない。
  2. 運動量、時間が少ない。
  3. 教室で指導が思うようにできない。
  4. 3年生後半になると、大学受験が迫り、練習、試合をやらせることができない。
  5. 人員が少ない。

[2]戸山の特長

  1. 優れた「頭脳」の持ち主である。
  2. 家庭環境から来る「素直さ」がある。
  3. 向上心が人一倍強い。

[3]課題を克服し特長を生かすために成すべきこと。

  1. オフェンシブ体系
    1. 技巧を凝らした多彩な攻撃で、最低二つ以上のオフェンシブ体型のフォーメーションを持つこと。
    2. プレー毎に、基本体型からマン・イン・モーションをさせること。
    3. オーディブルを「+」「−」で実施すること。例えば、米大学の東部地区校名を「+」、西部地区校名を「−」としてコールする。
    4. シグナルをリズムコールとし、プレー毎にスタートコールを変え、相手のオフサイドを狙うこと。
    5. 「ラン8割・パス2割」を「ラン4割・パス6割」または「ラン3割・パス7割」に切り替えること。
    6. スクリーンパスは当然のこと、ショベル、HBのランニングパス、リバースパスを加えること。
    以上は、相手のディフェンスを混乱させる心理作戦と、戸山の体力消耗を防ぐためのボールコントロールである。

  2. 優勝を目指したフライTフォーメーション
    戸山の体力消耗を最小限に食い止めるため、ランよりパスに比重を置いた方がベター。相手を混乱させるために、それまでにないフォーメーションを考案した方がいい。こうして編み出されたのが、両Eをオフェンスラインから両翼に広げたパス用のフォーメーション。「飛ぶ」「飛ばす」イメージから「フライT」と名付けた。1959、60年に関東2連覇を達成した時に使用したパス主体のプレー(パス7、ラン3)が、それだった。優秀なパッサー・川上、レシーバー・湯川、石井(現姓・琴坂)ら、人材に恵まれていたからこそのプレーだった。
    甲子園ボウルでの関学高ディフェンスについて、DHは離れてシフトするオフェンスEに付き、LB2人はランを警戒、SFは1人と予想した。これに対して、戸山オフェンスは両E以外のレシーバー2人が1人のSFを攻め、どちらかが必ず空くため、短いパスをつなげ、時折ランを入れる。DHは真ん中で繰り返されるパスを警戒するため、両サイドが空いてくる。そこで一気にミドル、ロングパスを決めてTDを狙う。
    現実にはけが人が多く甲子園ボウルに敗れはしたが、戸山はよくやった、と思う。コーチとして最高の2年間となり、過去の苦労が報われた。Tフォーメーションが全盛の時代に甲子園でフライTが話題を集めた。その後1970年ごろ、やっと名称こそ違え、フライTもどきのフォーメーションが日本の大学フットボール界で使われ始めたことに大いに満足している。

[4]勝つ自信をつけるための戦略

  1. 情報の収集
    孫子の兵法「敵を知り己を知れば、百戦して危うからず」である。以下を実行すれば、必ず勝つ。
    1. 対戦校のフォーメーションを全員が覚える。
    2. 対戦校の同じポジションのオフェンス、ディフェンスの力量を確認する。
    3. 自分と比較して相手の優れている点、劣っている点を認識する。
    4. 相手より優っている点を練習で伸ばす。
    5. 相手より劣っている点の克服を自分の課題として練習に励む。
  2. ランチェスターの法則
    対戦校のディフェンスは、当時「6−2−2−1」だった。戦闘機の空中戦を引き合いに出し、「必ず勝てるぞ」と次のように暗示をかけた。
    1. ディフェンスの最前列は6人。しかし、オフェンスラインは7人。オフェンスラインの方が1人多いのだ。
    2. 対戦校のDBは3人。オフェンスで4〜5人のレシーバーをダウンフィールドに出せば、オフェンスは必ず1〜2人余る。ここにパスを通せば、必ずTD。

[5]ディフェンスは攻撃なり

いつも「6−2−2−1」ディフェンスでは、対戦校にとって組み易い。対戦校のオフェンスを混乱させ、ダメージを与えなければならない。
  1. 対戦校によってディフェンスフォーメーションを変化させる。
    1. 1プレー毎に相手オフェンスの動きを読み、こちらのディフェンスフォーメーションを「ノーマル」「スラット」「ループ」と「4−3」「4−4」「5−3」「6−3」「7−1」「7−2」などを使い分ける。LB、DLのコンビネーションチャージ(サック)、クロスチャージ(サック)を実行する。
    2. 自陣20ヤード以内のゴール前ディフェンスでは、「8−3」「9−2」とし、相手ボールキャリアにチャージ(サック)する。
    3. パントディフェンスに当たっては、「パントをさせる」「パントをさせない」と目的を明確に区別した二つのディフェンスを作る。
  2. キッキングゲームの準備
    1. キックオフフォーメーションは「2ウエイ」「3ウエイ」と二つ作る。
    2. キックオフレシーブフォーメーションは「ノーマルリターン」「リバースリターン」と二つ作る。
    3. パントフォーメーションは「ノーマル」「ラン」「パス」と三つ作る。
    4. トライフォアポイントフォーメーションは「キック」「ラン」「パス」と三つ作る。

フットボールは教育だ

 コーチとして経験を積みながら、チーム作りの要点を以上のようにまとめ、分厚いノートを作成した。しかし、実行可能な部分と不可能な部分があった。高校王座を決める甲子園ボウルに2度チャレンジしたが、残念ながら勝つことができなかった。細見も私も20歳代後半を迎え、若い人の新しいエネルギーに戸山のフットボールを託そうと監督、ヘッドコーチを辞任し、東大の大学院に進んだ市川新君に道を譲った。

 振り返って、フットボールは教育であり、そこには哲学があり、他の学科と同様に重要であると確信している。真実の自分自身を知ることによって自らを向上させるだろうし、勝利することによって自分に自信がつく。いったん自信を持つと、その後の人生に大きく役立つ。戸山のチームはどうすれば勝つのか。どんな時に負けるのか。それを分析、理解することによって、人は向上する。チームを指導する上で大切なのは、フットボールをコーチするのではなく、人間をコーチするということだ。そうしてコーチは尊敬され、信頼を勝ち得るのだ、と思う。

 スーパーボウルの優勝杯に名を残すヴィンス・ロンバルディ監督は

"Winning is not everything
Winning is the only thing"
(勝つことは全てではない。勝つことだけが全てなのだ)

と言っている。私のフットボール哲学も、「弱肉強食。勝つ!!勝つが人生!!」であり「相手に勝つ」「己に勝つ」「プレッシャーに勝つ」「今日の我に明日も勝つ」である。戸山高校アメリカンフットボール部が超一流と呼ばれるにふさわしいチームを作り上げ、日本の高校チャンピオンになることを念願している。

 頑張れ、戸山高校アメリカンフットボール部!!





科学性とマネージャー制

   1955年卒、市川 新(1974〜80年監督)

 戸山高校のフットボールをコーチしたのは、大学生のころと、アメリカンフットボールへの移行直後の数年間です。

 その間に、一番残念に、そして申し訳なく思っていることは、監督在任中の80年8月3日、那須の夏季合宿で事故が起き、多くの方にご迷惑をおかけしたことです。那須のグラウンドで、1年生部員の古閑修君が倒れたときの顔色の変化が、今でも目に残っています。その時、とっさに思い起こしたのが、大学在学中の59年9月、練習試合で倒れた中村健一郎君(西高フットボール部OBで、当時大学1年)の顔色でした。相つながるものがあり、現場に居合わせた私は、同じ原因による事故と判断しました。心から、古閑君のご冥福を祈っています。

 しかし、この事故を生徒諸君が乗り越え、先生方が立派な部に育て上げて下さった。こうした先生方のご支援と、フットボール出身者の献身的な努力、特に私の後、監督を引き継いでいただいた毛利昌史(56年卒)、田淵浩司(80年卒)の両君に感謝の言葉を述べたい。

時代を先取りした戸山

 さて、われわれ戸山のフットボールは、日本のスポーツ界に大きな一石を投じているのではないかと考えています。特にコーチシステムのあり方などは、時代を大きく先取りしているものと思います。それは科学性とマネージャー制です。

 先日読んだ乙武洋匡君(95年卒)の著書の中に「戸山はフットボールを中心として、クラブ活動が盛んで、そういう高校に入りたい」という文章を見つけ、今までの苦労と、心配が消えた思いがしました。彼の場合、主治医の土肥徳秀先生が戸山のチームドクターを買って出てくださっていたので、若干割り引かなければならないのですが、先生が彼のために特に勧めて下さったのは、「いい部だから安心して任せられる」という考えがあってのことだと確信しています。中学3年の夏休みの宿題として和歌山の毒入りカレー事件に関してインターネットを駆使して調査した、戸山生、三好万季さんの著書「四人はなぜ死んだ」にも戸山のクラブ活動について、それに近いことが書かれてあります。それはフットボールではなさそうですが、フットボールが第2学区の中学生の憧れになっているような気がしてなりません。

 戸山の生徒の中には、中学の体育の成績が「5」評価の生徒がかなりいるのではないかと思います。東京都の指導で「5」は全体の7%と決められていますので、5の生徒はスポーツのエリートといって差し支えないと思います。一部の部員は、「あの5は『テスト』で貰ったもので、スポーツ能力では違う」と主張しています。そういう側面があることは確かですが、本当の意味でのスポーツエリートがいるのも事実です。そしてその確率は、他の高校に比べて高いと確信しています。最近でも中西光君(92年卒、京大)、本蔵俊彦君(93年卒、東大)、猪狩真吾君(94年卒、関学)など戸山出身者が、大学フットボール界で高く評価されているのはご存知の通りです。彼らはまさにスポーツエリートですが、能力がありながら大学でフットボールを続けていないOBも多いので、その数はもっと多いはずです。

大きい小野コーチの功績

 このように運動レベルの高い生徒に対し、科学的に最新の練習法を導入することにより、強豪チームに成長していったものと思っています。この面で、小野宏君(79年卒、関学)の功績を抜きにしては考えられません。彼の熱心さと理論はもちろんですが、それ以上に特筆すべき彼の長所は、生徒にやる気を起こさせる、「教育者」としての優れた能力を持っていることです。日本のいわゆる名コーチといわれる人のほとんどは、女子バレーの大松博文氏に代表されるように「黙って俺についてこい」方式で選手に接してきました。小野君の指導は、全く異なった方法です。昨年関学が甲子園ボウルで勝ち大学日本一に輝いたのは、まさにここに秘密があると見ています。

忘れてならないマネージャー

 さらに戸山躍進は、よく言われることですが、マネ−ジャーの力によるところが大きいことです。単なる道具管理や、アシスタントではなく、健康管理、栄養管理、さらに最近は選手の能力管理まで行っていることは、戸山の強さの最大の秘訣です。あの古閑君の事故の日も、すべての練習が記録されていて、その晩のうちに清書されて副校長先生に報告できたことが、どれだけ部の信用を高めたか、筆舌に尽くしがたい功績があります。副校長先生から提出されたレポートを見た東京都教育庁の担当者が絶賛していた、と聞いています。

 私は、こういう部のために少しでもお役に立てたことを誇りに思っています。これからの活躍を期待しています。