ありがとう伊原公男先生  1952年卒、細見 淳


 伊原公男先生は1950年秋、創部まもないタッチフットボール部の顧問に就任、長らく部員の面倒を見続け、一時期、部を離れたが、アメリカンフットボール転換後、再び顧問として復帰された。88年3月、戸山を退官されるまでの長きにわたり、フットボール部とともに人生を歩まれた。戸山を退いた後、都立玉川高校に5年間勤務さ、悠々自適の生活に入った矢先、病に倒れ、94年11月3日、永眠された。葬儀に際しては多数のフットボールOB・OGが霊前に集い、先生への深い感謝の気持ちを表した。奥様のヒサエ夫人からは故人の遺志としてフットボール部に多額の寄付をいただいた。部では97年、最も頑張った3年生を対象に伊原杯を創設、先生の名前を永久に伝え続ける。

伊原先生は1928年1月2日、富山県滑川市出身。地元の滑川商業学校卒業後、三重海軍航空隊奈良分隊に入隊し、予科練から特攻隊員として出撃寸前に終戦を迎えられた。若き命を大空に散らした戦友たちの分まで生きて日本復興の一助となろうと、教育の道を選択。45年10月、東京体育専門学校第3臨時教員養成所(のち東京教育大、現筑波大)に入学、48年3月卒業された。新宿区にある私立成城中・高に体育教諭として勤務、50年9月、戸山から東京工業大に転勤した金子英一先生の後任として戸山に着任された。成城時代から夜間の中央大経済学部に通い、52年3月に卒業された。

23歳の青年教師として戸山着任

着任当時、われわれ高校2年生より、わずか5、6歳上の23歳、独身の青年教師だった。私と同期の西川が誕生間もないタッチフットボール部の顧問就任をお願いした。やっている高校は少ないし、道具もろくにない。この新しいスポーツについての知識もなかっただろうが、われわれの意気に感じて、いや何をするか分からない悪童の指導を誰かがやらなければならない、という教育者としての自覚と責任感から承諾されたのだと思う。

高校タッチフット界発展に寄与

 承諾した以上は、タッチフットに全力投球。10校前後あった都高校連盟の事務局の仕事まで引き受け、フットボール界の発展と普及に尽力された。50年代、戸山のグラウンドが公式戦の会場となったのは、若き伊原先生の熱意の表われだろう。タッチフットボールの日本連盟副理事長、関東高校連盟理事長も歴任され、後に日本協会から表彰されている。

 われわれの代としては、高校3年だった51年12月、法政大学の1、2年生と防具をつけたアメリカンフットボールの試合をした時を思い出す。やりたい一心のわれわれはどんどん計画を進め、教員として責任を持つ先生の胸の内は並みたいていのことではなかっただろう。何年もたって、当時「もし事故があったら」と辞表を懐に入れて試合に臨んだと伺った。既に戸山に勤めていたヒサエ夫人と職場結婚して家庭を持っており、随分と大変なことをお願いしたものだ、と反省するとともに、先生の度量、人間の大きさに心から感謝を申し上げたい。

顧問就任10年目の胴上げ

 顧問就任10年目の59年、戸山は母校のグラウンドで宿敵・聖学院を破って念願の関東優勝を達成。OB、選手は、試合の審判を務めた先生を胴上げして喜びを爆発させた。普段は怖い先生の目に涙がにじんだ。高校チャンピオンを決める甲子園ボウルでは関学高に大敗、先生は「関学を倒す日が1日も早からんことを!この日こそ、わが生涯最良の日となろう」と書かれた。その日はいまだに到来していないが、先生にとって最も誇らしかった時期だったろう。

 しかし、誇らしげに胸を張った日々はほんの一つまみであり、われわれは心配ばかりかけていたのである。70年代前半、アメフト転換に難色を示す他の先生方への対応、80年夏の合宿中に起きた1年生・古閑修君の不幸な事故、とかく問題を起こす部員など、ご苦労、ご面倒をかけ通しだった。特に、心身に障害を背負った古閑君の事故に際しては、誠心誠意ご家族と対応し、戸山を退官する88年3月まで古閑君を戸山の生徒として在籍するのに尽力された。その直後の5月、古閑君が亡くなるまでご一家と家族ぐるみのお付き合いを続けられた。60歳を迎えて嘱託の体育教員として勤務した都立玉川高校では、卒業する女子生徒が「お世話になった先生にだけ上げる」と七宝焼きのネクタイピンをプレゼントした。時としてぶっきらぼうにも見える先生の体には、思春期の子供たちを温かく見守る、熱い血潮が流れていた。

教員歴にピリオドを打った矢先の急逝

 93年3月、45年にわたる長い教員生活にピリオドを打たれた。時折ふらりと、新潟・苗場にあるリゾートマンションに一室に1人滞在。命長らえて幸せな教員生活を過ごすことができた自分とは対照的な短い人生を余儀なくされた戦友の思い出を文章にしたためることを自らの課題とされた。

 そんな生活も長く続かなかった。知らず知らずに病魔が体をむしばみ、94年9月16日に入院。一時、外泊を許されるまで回復したが、容態が急変し11月3日、帰らぬ人となられた。私も長らく務めた戸山フットボールのOB会長を退いたばかりで、これからは一緒にのんびりと後輩諸君の試合を楽しんで観戦しようと話し合っていた矢先の訃報だった。

 11月6日の葬儀で、私は戸山フットボールOB、OG、現役合わせて600名を代表して、別れの言葉を述べさせてもらった。これからも戸山のフットボールは続く。いつの時代も伊原先生の功績が語り継がれていくことを願っている。

 今年(2000年)に11月3日は、七回忌となる。慈眼寺(中野区中央3の33の3)の「教徳公範信士」の墓前で、ヒサエ夫人、奈緒子お嬢様とともにご冥福を祈ることとしたい。